• PHOTO最終更新日2010年10月11日



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Title: 一里塚

ばたばたとあっというまにもう30日。

今年を振り返る。

今年は良くも悪くも、自分がどこまで通用して、どこから先ではまだ通用しないのかがわかった気がする。そんなことを経験する中で、いままで自分の中で、やってみるまでわかんないじゃんとか思っていたときがあったけど、でもそれは、まだ自分の扱いをわかっていなかっただけで、打てるか打てないかわかんないといってバッターボックスに立つようなものだったんだろうと思う。

一人で野球をしてるならそれでいいけど、野球は一人ではできないし、生きていくことも全く同じだと思う。

結果には必ず原因とプロセスが繋がっている。

やってみなくても今の自分でその球が打てないことをまずわからないと、そこから先にはいけないのだと言うことがよくわかった。

今の自分では打てない、ではなぜ打てないのか、どうしたら打てるようになるかというプロセスを踏んで、球を打つことだけに専念して、やっと自信をもってバッターボックスに入れるようになるんだと思う。

プロというのはそういうことなんだろうと思う。というとあんたはプロではないだろうと言われそうだけど、自分は自分の扱いに関してはプロでいたいと思うし、自分の扱いで誰かに右に出られるのなんてごめんだぜと思う。

野球に人生を例えてみるものの、たいして野球は好きではない。

それと、すこし形が見えたのは、自分がどういう人間になりたいかというより、どういう人間にはなりたくないのかということ。

1年のなかでいろんな決断を迫られた中で、いやな気分がするときと、そうじゃないときをよくよく反芻してみれば、そこからあぶり出しみたいに自分が浮き彫りになったような気がする。

もうすぐ31歳になる。

毎年言ってる気がするけど、来年はもっとわがままになる。好きなことを好きな人としたいだけして、いやなことなんてぽいだ。青臭くて、暑苦しいことをさらりと言いながら、神楽坂あたりで好きな人とおいしいお酒を飲んで、たのしくへらへらとすごそうと思う。

そうやって生き続けられるために必要なものが自分の身につけなければいけないことであり、必要とするものなんだと思う。

なんか大学を卒業して来年でちょうど10年。

いろんな経験をして、右往左往したり、いろんなことをかじりまくってきて、ぐるっと一周して、あの頃と同じところに着地したような気がする。

同じところだけど同じじゃないところ。

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男の人が女の人に指輪を贈るときに。

男の人の中にある気持ちも、女の人の中にある気持ちも、それは一種の布施の心に通ずるものがあるんじゃなかろうかという話。

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キリスト教をディズニーランドに例えるのであれば、仏教は花屋敷だ。

これは安易な例えのようだけど、奥が深いのです。

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理論が伴っていないと感情移入できないという傾向は、物質社会と資本主義の大きな弊害で、本当に心動かされるのは、理論の伴わないモノだということを習慣の中や、生活の中で感じられないことが現代における心の問題の根底に繋がるんじゃないかと思う。

おてんとさまがみてるんだよ。

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例えばワンピースを読んでいて、ルフィに思い描くモノは、ああなりたい、ああありたいという願望であり憧れである。

だからほんとのこというと、本当の意味ではルフィの言葉には感情移入できない時がある。それが言えればいいけど、自分はルフィみたいにはなれないよ、無謀にもマリンフォートには飛び込めないよと思う。

そんなことを思いながら、手塚治虫の漫画を読んでいて感じたのには、手塚治虫の書く主人公の言葉には感情移入できるモノが多くて、なんかヒーローがヒーローじゃないし、悪いやつがただの悪いやつじゃなくて、ちゃんと理屈の伴わない行動までも描写されている気がする。

漫画というのは本当におもしろい。

世相をよく反映しているんじゃないかと思う。

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生きていると、自分の生活や見えてる世界がすべてで、その中で見えた自分の未来に悲観したり、絶望したり、追い詰められたりすることがあるけど。

でも世界は自分が思っている以上に多様性があって、生き方にも、価値観にも、経済システムですら、まだまだ自分の知らない世界がたくさんあって。

自分の一回り外側には、まだまだ自分の居場所や可能性が1億万通りくらいあると思う。

自分は中学や高校の時には、その閉鎖的な世界がすべてだと思っていたし、そこで社会や将来や先を予想しては、生きてくのなんてこんなもんかとか思ったり、所詮人生なんてとか思ってることがあったし、もちろん大学でも、働き始めても、気を抜けば周りを取り巻く環境に息苦しくなったり、閉塞感を感じて、もうこんなんなら、生きててもしょうがないなとか思ったこともあるけど。

今になって思うのは、自分は何も知らないと心から思えることはすべての救いになる。

無知の知というのは、ただの哲学的な考察を表す言葉だけではく、最近その言葉に血が通った気がして、あらためてその言葉のすごさがわかったきがする。

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ツイッターをやっていて。

多くの人が、(そうではなくて手の内をさらけ出している人もいるけど)両手を後ろに隠しながら、手の内を明かさないでいるくせに、でもそれがなんなのか興味をもってほしくて、共感してほしくて、チラ見せしあっていて、でもぐいぐいこられるとめんどくさいから、そのちょうどいい距離の心地よさを構築しているようにみえる。

そう見えたら、もしこんなにたくさんそういう人達がいるんだとしたら、そこに仏教の入り込む余地というのはまだまだあるなと思う。

なんか、宗教離れとか、無宗教とか言うけど、それはそもそも、なにを宗教というか定義づけもしないステレオタイプの人のつくりだした妄想みたいなもんなんじゃないかと思う。

人が寂しかったり、共感を求めたり、感情的になったり、そういう人間の本来持ちうるすべての行動原理には理由があって、その理由に目を向けて、自分の説明書を作っていくような作業をどう呼ぶかは自由だけど、自分はそれを宗教と呼ぶし、仏教と呼ぶ。

自分の目には、今の世の中宗教や仏教を根源的に求めている人が多いように見える。

なんか室町時代の人々の閉塞感と、今の世の中の閉塞感ともしかしたらどこかで通じるところがあるんじゃないかという気もする。

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その人と話していると、なんで自分の口からこんな言葉がでてきたんだろうとか、どんどん自分の中でいろんなことが繋がっていく感覚になる人がいて。

そういう人は本当に大切で。

これからもそういう人と繋がっていたいと思った。

持論だけど、やっぱり人は会話によって成長すると思うし、コミュニケーションを通さないと得られないものというのがあって、その中心になるのは、会話で、会話とは一口に言うものの、磨こうと思わなきゃ鈍るし、習慣として意識的じゃないと駄目で、それ自体を楽しもうと思えなきゃ伸びないのかもしれないと思う。

自分はもっと会話をするのがうまくなりたい。

会話は磨けば絶対にどこでも通用する武器になる。

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どこかで、建造物の高さや大きさを競うのは、衰退の兆しだという記事を読んだけど。

スカイツリーがいろんなところから見えるようになったのはなんだかうれしい。

こないだついに家の窓からスカイツリーが見えるようになったし、谷中のあたりからもみえるし、上野動物園からも見えるようになった。いろんな自分の好きな場所にスカイツリーが顔を出してきて、なんかちょっとうきうきする。

たしかに、高さや大きさよりも大事なモノはあるかもしれないけど。

でも自分はこうやって無条件にわくわくできて、すげ~!と思えることはとても大事だと思います。

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さて今年も終わり。

明日はアメ横に買い出しに行こう。

この時期の風物詩。

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正月や冥途の旅の一里塚めでたくもありめでたくもなし。


POSTED @ 2010.12.30 | Comment (0) | Trackback (0)

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  • 自己紹介:1980年1月9日生まれ。どこからを趣味と呼んでいいのかは模索中。好奇心は旺盛。