• PHOTO最終更新日2010年10月11日



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Title: 地図は歩きながら作るものだ。

昨日の情熱大陸をみて感じたこと。

肩書だけでいえば自分にはお寺の副住職、幼稚園の経営者、UNIPHの代表というものがある。でも正直肩書なんてどうでもいいし、自分は小さい時から跡継ぎとか、お寺の子とか園長先生のお孫さんとかそういう色眼鏡でみられて育ってきたから正直そういうのがあんまり好きじゃない。そういうんじゃなくてもっと自分をみてくれたらいいのにと思ってたし、肩書とかじゃなくて名前で呼んでくれたらいいのにって思ってた。

だれかに「いいよね」といわれるたびに、好きでこんなとこに生まれたんじゃない自分がどういう思いで育ってきたかも知らないのにかわれるもんならお前がやってみろなんてふてくされてる時もあった。

でも何年か前からそんなこといっててもしょうがないし人間にはそれぞれの立場がある。だから何を言われようともいろんなことを言う人がいても、自分がそういう肩書を背負って生まれた以上はいま自分にできることを1つずつ片づけていこうと思えるようになったし、それを楽しんでいこうと思えるようになった。あるいみ一種の開き直りみたいなもんだけど。

そうやってここ数年を過ごしてきて、自分なりに宗教を扱うことの意義であったり、お寺のありかたとか、経営者として一番大切なことはなにかとか、保育ってなんだろうかと、自分の一番の長所はなにかとか、自分にできることはなんだろうかとか、人と関わることはどういうことだろうかとか。それぞれの肩書の中で自分にできる副住職、自分にできる幼稚園経営、自分にできるUNIPHの代表ってなんだろうって、自分の役割は何かいうことをずっと考えてきた。

そんなことを考えながら思ったのは、お寺でいえば10人の住職がいれば10通りの解釈をするし、10人の経営者がいれば10通りの経営方法を教えくれる。10人の友達がいれば10パターンのアドバイスをくれる。それぞれの環境も立場も違うから当然そうなる。

その中で自分はものすごく迷ってきたし、右往左往してきたし、それぞれスポットからスポットへふらふらふらふらとしながらも、どの意見でもぜんぶいいものは取り入れたかったし、その中から自分のビジョンや理想をつくろうとしていた。

もちろんそのプロセスは大事だし今でも大切だと思う。

でも自分はそうやっていろんなことを取り込む中で、現状の否定ばっかりだった。いやそれは違う。あれはおかしいとか。宗門にたいして、教育に関して、経営に関してもっといえば、社会に対して世の中に対して。誰かにたいして。それと同時に理想を語るばっかりだった。経営者って言うのはこうあるべき。お寺っていうのはこうなんだよ。宗教者って言うのはこうじゃなきゃとか、教育者としてはさとか。

そうやって現状を否定して理想を掲げて自分というものが出来上がってくる部分があるから、そのプロセスはこれでいいんだけど、あくまでそこは通過点であってプロセスだということに気づかなきゃいけなかったのかもしれない。

自分は理想を描くことばかりにこだわりすぎてたのかもしれない。気付いたらいつのまにか描くことだけが目的になってたのかもしれない。

描いたら次はそこに歩きださなきゃいけないのに。完璧な地図を用意できなくてもまず足をださないと。先にでかい理想があっても、まず次にどこに足を出せばいいのかわかんなきゃ何の意味もない。

地図は歩きながら作るものだ。

その時になったらとか、いまはその時じゃないとか。準備不足なんていう言いわけをまことしやかに思いつくおれの頭なんかくそくらえだ。大事なのは今自分にできることをみつけることで、今自分にできることをやることだ。

いまここ。そう思っていた自分の背中をどんと押された気がした。

自分が煮詰まってる時に答えをくれるのはいつも誰かだ。


POSTED @ 2009.01.12 | Comment (0) | Trackback (0)

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  • 自己紹介:1980年1月9日生まれ。どこからを趣味と呼んでいいのかは模索中。好奇心は旺盛。