Title: あかすり。
朝家をでたら家の前の通りにアジサイが咲いてた。ものすごく色鮮やかに。
ああきっともう何日も前から咲いていただろうに、自分がアジサイに気づいたのは今日だ。
たしかにちょっとここのとこ抱えてるものが多くて煮詰まってたかもなと自己反省。
でも思ったんだ。いろんなものを抱えているときは、大変だしはやく終わらせたいし、もう。何も抱えたくないと思うのにそれでもいつも気づくといろんなところに顔突っ込んでいろんなものを抱えてしまう悪い癖がなおらない理由は。やっぱり自分は人とつながっていることと、それと自分の知らない世界に触れること、それと自分の意見を真っ向からぶっこわせる人と出会うこと。そういうのがたまらなく好きで。そうやって自分自身の中にあるものがなんなのか知りたくて。それに全部が終わったときのなんだろう充実感とさみしさの入り混じったような感覚がなによりもたまらなく好きなんだ。祭りのあとのような。
しかし久々にたくさんの人の熱にあてられて久々にお腹からなにかが湧いてきた。
がんばってるなみんな。それぞれが悩んで、それぞれに希望があって、それぞれがもがいて、それぞれに道を探してる。
ああくそったれ。なんにもわかってないのにわかったふりをする自分はくそったれだ。なんもできないし。なんもわかんないし。なんもわかってない。自分ががいまわかってると思ってるものはぜんぶわかってない。
ざまあみろおれ。
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しかしつくづく人間っていうのは思い込みでいきているものだなと思う。
自分がここで自分をささえてる。ここから力をえている。自分はこうやったら機嫌がよくなる。逆にこうやったら嫌な気分になる。
そんな自己判断や自己分析もあくまで一面にすぎなくてたいていは思い込みなんだと思う。
なににたいしてもそうだと思う。自分の枠を決めるのは自分。
できるかできないかをきめるのも自分。
手を離したり足をだしたらたいしたことないことのほうがほとんどだ。
面白いな人間。
自分は自分が思っている以上に心と体は先を歩いているときもあるし。
逆に思っている以上にもろいときもある。
自分の目安はかならずしも正しいとはかぎらない。
というか。たいてい間違ってる。
あるとおもいます。
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最近パソコンに向かう時間が多い上に、読みかけの本が何冊かあるうえに、ファイナルファンタジータクティクスがものすごいおもしろくて、睡眠しているとき以外にはほぼ眼を酷使している。ほんとに自分の好きなことは目に負担がかかることばかりだなと思う。
そんでいよいよ頭痛がしてきたもんで整体にいった。
30分ほど施術してもらって外に出たら。
ものすごいよく目が見える。いろんなものが鮮やかに。気のせいじゃなくて。
眼が悪い人がはじめてメガネを作ってかけたときのような感覚だ。
ああ。世界はこんなに鮮やかだったんだと思うくらい。
でもその時に思った。
さっきまでの状態でしばらくあたりまえに過ごしてたけど、今になったらあの状態はあんまりよく眼がみえてなかったんだなと。
見えるようになって初めてあんまり見えてなかったということに気づく。
そんなもんだねなんでもかんでも。
宗教もそうだよきっと。
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物事を理解するということは判別をするということ。判別するということは、過去の記憶と経験と照合してどこかにあてはめるということだ。
ってことはだ。忙しいとか時間がないってことを言い訳に、インプットを怠っていると新しいものと出会ったときに、それを理解しようとした時に、いままでにあったものでしか照合できないし、そうしたら物事を一辺倒な理解しかできなくなっちゃうんじゃないか。
自分のデータバンクの情報量を増やす方は体験や経験によってしか増えないし、いまの自分の世界にない価値観をどんどんインプットしたらきっと、理解するということにもものすごい幅が出るんだと思う。
でも。興味ないことはインプットできないから。まずは興味をもつことで、興味をもてるようになるということはいつもなにかに枯渇していることなのかもしれない。枯渇しているということはやっぱりどっかに穴があいてないといけないのかもな。
引き出し少なくなりたくない。そんなおじいちゃんにはなりたくないぜ。じいちゃんはいつも物知りではっとすることいえなきゃいけなんだぜ。だってうちのじいちゃんそうだったもんね。
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いくら押しても押しても駄目だからあきらめて寄りかかったら簡単に扉が開くこともある。
なんだろうねタイミング。というかきっかけというのは。
偶然なのか必然なのか。これすなわち他力ですか。
いろんなことを試しに試して自分の気持ちが上向きにならないのに、ほんと小さなきっかけでがらりと有頂天になることもある。
その逆も然り。
この繰り返し。
なんだろうね。
心というのはなんだろうね。
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フレミングの法則
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絵本を読んでいて思った。
そういや絵本ってさ。野菜とか動物とか太陽とか月とかウスとか栗とか。
そういうのがしゃべるんだよね。
あたりまえなんだけど。
昔話ってそういうのがしゃべるのがあたりまえに書かれてる。
いままであんま考えたことなかったけど。ふと思った。
それを科学的ではないといい、それを子どもだましの寓話だといって片付けるのは簡単なんだけど。でも思うに昔の人はそういう感覚あたりまに身についていたのかもしれない。
なんだろう。
手塩にかけた野菜に思わず話しかけたり。
自分の家の犬につい話しかけたりすることあるでしょ。
そういう感覚大事だと思う。
野菜は野菜。太陽は太陽。犬は犬。
まちがいない。
でもそれを知ってる人間が高尚な現代人で、木や動物に話しかけるような人間は未開の原始人なんだろうか。
そういう名前や種類動向じゃなく、声をかけて話すことでたくさんの縁の中で自分は生かされているんだなって気づかされることはあると思う。
もっと人間は対比したほうがいいと思う。いろんなことと。
人種とかじゃなくてもっと深く人として。
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死を意識する、老病死の問題に向き合う、さらにいえば無常を自覚する。
なんでそんなことが必要あるのかといえば。
そこに生きることへの感謝がわく。または生かされている自分へ気づく足がかりがあるようなきがしてならないわけです。
人は失ってはじめて気づくといいますが。
この言葉をよくよく考えますと。
失って初めて気付かせていただいた。
失って初めて知らせていただいた。
この「いただいた」という気持ちが大切なのではないかと思います。
失うということはマイナスかプラスか。
その質問に答えはないんだと思います。
そういうの。
あると思います。
POSTED @ 2009.06.03 |
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