Title: 上澄み。
最近、上澄みという言葉が妙にあっちこっちにしっくりくる表現だなと思って多用する。
苦しみも上澄み、世の中のほとんどは上澄みみたいなものだという使い方もできるし、夜の空気が、上澄みみたいに透き通ってる、とかいう使い方もできる。
使い方しだいで、いい意味の上澄みと悪い意味の上澄みがあるけど、最近自分の使う上澄みという意味は、たいてい悪い場合の方が多い。
例えば思うに、ほとんどの苦しみとか悩みなんてのは、上澄みみたいな部分で右往左往してとらわれてるだけなんだろうと思う。
本当に根深いのは沈殿してる部分なのに。
誰かが仕事ができないとか、誰かの悪口を言うとか、自分がだれかに苦しめられることも、お金がほしいとか、なんで社会は馬鹿ばっかなんだとか思ったり、自分をもっとみてくれとか思ったり、そういうチクチクしたものにとらわれてる時は、
大抵その原因を考えるに、自分の思い描いたものと、現実にあるギャップに、いうなれば、思い通りにならないという状況に苦しんでいるわけで、そう思って、その解決方法をはその物理的なものを解消させることだと思いこんでしまうけど。
それこそ上澄みみたいだと思う。
それは自分の思い通りにならないことを、思い通りにしただけで、自分の思い通りになることと、ならないことを比べたら、世界にははるかに思い通りにならないことが多くて、人生の大事なポイントで、自分の思い通りになることなんて1つもないという事実には目を向けてないわけで。
根本的な解決にはなんにもなってなくて、上澄みをすくっては、また上澄みをすくう繰り返しなんだと思う。
お金がほしい。でもない。だから悩む、苦しい。
もてたい。でももてない。だから悩む。苦しい。
人の悪口を言ってる人がいる。やめてほしい。でもやめてもらえない。だから悩む。苦しい。
だれかに気に入られたい。でも気に入られない。だから悩む。苦しい。
こういう場合のほとんどは、苦しみを苦しみとして認識してるのは自分自身にすぎないんだろうと思う。
お金があるのが幸せだから。
もててると楽しいから。
悪口をきかないと傷つかなくていいから。
気に入られたら嬉しいから。
そういう自分の中の価値観とそれにそぐわない現実が、苦しみの原因の根本になる。
物理的に、お金はいあげる。もてるコツ教えてあげる。悪口言う人消してあげる。そんで気に入られるようにしたあげる。
なんていうことはまやかしで、その場しのぎにしかすぎない。
そんなことで苦しみは消えない。
これが新興宗教と仏教の違いなんだろうと思う。
そんなまやかしで、問題を解決しても、同じような時に自分はまた、枯渇して、現実とのギャップに苦しみを見つけ出す。そんでまたおんなじことを繰り返して、死ぬまでそれを繰り返していく。
まずは、苦しみの原因が自分の中にあるということに気づけるかどうかなんだろうと思う。
思うに。
自分のいまもっている価値観は、ほんとうに知らず知らずに、ほんとうに無意識に、間違いないと思いこんでいて、幸せの基準も、不幸せの基準も、嫌な奴もいい奴も、そんな基準の全部が、あくまで自分の独りよがりの尺度でしかなくて、絶対的に正しいなんてことないわけで。
お金がないと幸せになれない。とか、でもお金はないよりあったほうがいいよ。とか、悪口言う人は悪い人だよとか、自分は言わないもん。とか、もてた方がいいにきまってんじゃん。とか思った時に。
そうじゃなくても幸せってのはあるのかもしれないし、自分の意識次第で、いくらでも保てる安心や幸せっていうのがあるのかもとか、視点をかえて物事を受け止めるということをしてみると意外にすとんと落ち込んで片付いたりすることがあるんだろうと思う。
な~んだ。幸せってこんなことだったんだって。
POSTED @ 2009.11.26 |
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