• PHOTO最終更新日2010年10月11日



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Title: 悪人正機
2008.05.29


善人なほもて往生をとぐ。いはんや悪人をや。しかるを世の人つねにいはく。「悪人なほ往生す。いかにいはんや善人をや」

善人でさえ往生できるのだから、悪人はいうにおよばないということ。世間の常識からいえば、悪人でさえ往生できるのだから、善人はいうにおよばないとなりそうだが親鸞はあえて正反対のことをいった。

この悪人正機説は真宗では大切な意義のあるもの。

悪人正機の中にある悪人は何を指すのかという問題にぶつかって。

たくさんの人といままでたくさんの話をしてきたけどいまいち腑に落ちてこれか。という実感がわかないままだった。

でもこないだあるときふと思った。

ある映画の話。内容を説明すると。

海外であるNGO団体の少年が武装組織に拉致された。武装組織は少年の命と引き換えに日本政府に莫大な身代金を要求した。

しかし日本政府は、武装組織には屈しないという国際世論を背景にそのNGO団体にはだいぶ前から国外退去の避難勧告をだしているのに、それを無視してその場に滞在した彼自身にも責任があるということを盾に身代金の要求をしぶった。それを受け国内世論も彼らに責任がある。一人の為にこんなに国を振り回してといういうバッシングをはじめる。

まるで少し前にあった邦人拉致事件をそのまま再現したかのようなシナリオだ。

事実あのとき自分自身、あそこがあぶないのわかってるのになにしてんだ。自業自得だよと思った。
退去がでてるのにそれから入国するなんてばかだと思った。国として優先すべきを考えるべきだと恥ずかしげもなくそう感じた。

そして映画の中では、その家族がどれだけの迫害を受け、父親は職を終われ。最後は名前をかえるまで追い詰められる家族の苦悩が描かれる。

そして数年後。

当時外務省で機密扱いされていた文書が明るみに出る。

その文書には。

その拉致されていた彼のいた村に退去命令がでたのはその拉致の後であったこと。つまり彼は退去命令を知らなかった。それを政府は黙殺し世論をたくみにあやつり政府の失態を個人におしつけるという構図をつくりだした。

そしてその機密文書とともにその国で彼がどれだけの功績を残してきたか、現地の子どもたちからのメッセージやなど彼の人間性を示すような証拠はぜんぶにぎりつぶされていたこともわかる。

つまりは、国外退去の連絡を現地の大使館はしっかりとしなかったこと。彼が最後まで現地の子どもたちの為に奮闘してすばらしい活躍をしていたという事実が世論に流れれば政府は多額の身代金を払わなければならない上に、国際社会からもバッシングをうけることになる。だからこの事件を彼が無謀にも国外退去がでているにもかかわらず興味本位で入国したと少年というシナリオをつくることによって問題を片付け、それに日本中が踊らされその情報を鵜呑みにしたたくさんの日本人が彼を、そして家族をバッシングした。

そういう内容のものだった。

さらに映画の話からそれるが。

最近おおくの信金銀行でエコ預金というサービスをスタートした。

その地域のリサイクル率や河川の汚染、空気の汚染が前の年よりも減らすことができれば預金利率をあげるというもの。

そのサービスは大好評でたくさんの預金があつまった。むろん預金者は自分もエコに協力している気持ちになるし、もしかしたらその地域では空気もきれいになり水もきれいになるかもしれない。それに利率も上がるし一石二鳥悪いことがひとつもないかに見えるけど。

そのたくさんあつめられたお金。

銀行はもちろん運用するためにいつもよりも多額の投資をファンドや海外に投資する。

その多額の投資で自分には目に見えない世界のどこかでたくさんの木が切り倒され、たくさんの汚染を生み出していないといいきれるんだろうか。途上国ではお金になるからと土地をぜんぶバイオエタノールの畑に変えているという。その弊害が生みだすものの計り知れないこと。

ダーウィンの悪夢という映画があるけど日本へのナイルパーチの輸出量は年間2500トンを超える。

エコ預金して、そのお金で木が切られていることを知らずに。フィレオフィッシュをたべてその魚がとれる国ではなにがおきてもおかまいなしなのが現実で。情報や報道を鵜呑みにして油まみれの水鳥に同情する。

そういう生活をしながらフリーチベットと叫ぶ矛盾。

正直なにもしないよりもましだということはよくわかるし、じゃあどうすればいいんだ。といわれてもどうしていいかわからない。えらそうなことをいってもなにもできない自分。

人間は。善人とか悪人とか。正しいこととはなにかとか。そんな価値観をいくら掲げていきていても、ぜんぶはかなくも形のないものに過ぎない。

そして人は図らずもどこで悪人になるか善人になるかなんてことはわからないしむしろ自分が胸を張って最後まで正しいと胸をはれることなんてなにもなくて。正義なんてことばは幻想にすぎないと思う。

ここ数日モヤモヤしてたものがすこし晴れてきて見えてきたことは。悪人正機のさす悪人がまさしく自分自身だということ。

善人なんていないということ。

ほんといま自分にできることは目の前のこと。
この一瞬をしっかり生きることしかないんだと実感する。

善人なほもて往生をとぐいはんや悪人をや。

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Title: しょか。
2008.05.27


きもちいいそらだ。

ゆうひもきれいだ。

みどりもいきいきしてて。

やっぱなつはいい。

なつはむてきだ。

昔から変わらない風景というのはいい。

友達もブログに書いてたけど。ビルの谷間でも公園に行くとなにかほっとするのも。動物園でなんか安心するのもそうだし、そこにいる人がいくら入れ替わっても時代が移り変わっても、そこにある目的の変わらない場所というものには人をほっとさせる効果がある。

でもおもうに。

それは場所でなくても人でも同じなんだろうとおもう。

だれかがどんなに変わっても、いくら年をとっても。

ふらっと立ち戻ってこれるような、あったらほっとできるような人ってのは、取り巻くものはいくらかわっても変わらない人なんだろうな。

毎日が安穏としてると刺激がほしくなるし。刺激が多ければのんびりしたくなる。

人にたくさんあうと一人になりたくなるけど。一人でいると人にあいたくなる。

だからいま自分の望んでるものをよくみたら。

今自分がどんな状況なのかよくわかる。

最近植物を育てるのがすごいたのしい。
たのしいというか感心する。

今まであんまり気にしてなかったけど植物の成長っていうのはすごい。

こないだ植えたナスは花をつけたし。トマトもかなり伸びてきたし。芝生もどんぐりの木も。

ぶわ~とでかくなって。

みるみるうちにっていうのはこういうときに使うんだろうっていうくらい生き生きと伸びて。なんか生きてるのってのはすげぇなぁとか当たり前のことに妙に感心するくらい。

夏の空気にはきっと生き物を生き生きさせる効果があるんだと信じさせられるくらい。

生きてるってのはいい。

それだけでいい。


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Title: ラーメン屋で平和を願う人をみて。
2008.05.20


なんとなく平和ってなんだろうなぁとか考える機会がさいきん多い。きっといまは頭に「平和」っていうフラグがたっているからなんだろうけどやたらそのアンテナに引っかかる出来事が多い。

昨日は帰りが遅くなったのでひとりラーメン屋にはいると向かい側にカップルらしき2人が座っていた。みるからにサラリーマンとは違う風貌の彼はチベット問題のことを話している。中国の地震の話も。主にチベットの抱える問題と中国の批判。

きっとおもうに彼は彼なりにチベットの平和を願っているんだと思う。

チベットだけじゃない。スーダンやアフガンの平和を願う人もたくさんいるんだと思うけど。

祈るだけで平和になるなら世界はもう平和になっているはずだ。

そんな彼の話に耳を傾けているとそのテーブルに、店員がラーメンを運んできたんだけどどうも注文と違うものがきたようで、店員は小さく頭を下げると無言でラーメンを持って帰った。たしかにその店員も態度はあまりよくなかったとはいえ。でも思うにその店員は日本人じゃない。もしかしたら中国人だったのかもしれない。

そしたらその態度にその彼は、まじいみわかんないんだけどといって、不服そうな顔をしてあからさまに不快感をあらわにした。横にいた彼女も一緒に。

その光景を客観的に、はたからみていておもった。

ちいさなことかもしれないけど。その時その人にわいた苛立ちや怒りやそんな小さな火種が世界を平和にしないんだと思う。

よく客なんだからとか。お金払ってるんだからとか。仕事だしわりきらなきゃとか言う人がいるけど。

人と人という関係の間にそういう価値観をはさんでしまう物の見方が少なからず平和の問題の根っこにあるんじゃないかと思う。

ここ数年自分が心から感じるのは。客でも顧客でも仕事のライバルでも自分とは毛並みの違う人もなんでも。ちゃんと人と向き合わない人の周りに人なんか集まらないし周りに人の集まらない人になにかを変えるなんてことはできなんだと思うし、なにも変えられない人がいくら平和を訴えても、もっともらしいことを言っても。祈ってるだけとなにも変わらないんじゃないかと思う。

ほんと他人事じゃない。自分自身反省しなきゃと思った。

まずは自分の心だといえば、そんなの理想論だし、そんなことしてたらどれだけ長い時間がかかるかわからないし社会はなりたたないし、そんなの時間の無駄だといわれるかもしれないけど。

でも。平和なんてのはそんな焼け石に水をかけてほんとうに冷やすくらい途方もない作業なんじゃないかと思う。

ああほんと他人事じゃないなぁ・・・

自分だってその彼と同じで店員やサポートセンターの対応に苛立つことも多々あるし。いくらどこかの平和を願っても、だれかをないがしろにしたり、いらだったり腹を立てたり、ねたんだりうらやんだりそういう心だらけだし。

風が吹けば桶屋がもうかるというけど、それはおおいにありえるとおもうし、笑顔のためになにかできることを本気で考えてみたら。変えるべきはまずそこなんじゃないかと思った。

そうおもってみれば。こないだの成田でのダライラマの会見はすごいなぁ。あの人はずっと笑顔だった。

なむなむ。


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Title: 穏やかな日に。
2008.05.18


穏やかな日に風が吹いて。

穏やかな日に列車に乗る。

なにもかもいろんなことをお日様のせいにして

僕はぼぉとしてる。

久々に頭の中にこの曲が流れてきた。

ひさびさに大自然を思いっきり満喫してきた。

朝早くの集合も。高いところから飛び込んだどきどきも。似合わないウェットスーツも。レトロなお風呂も。取り合った肉も。高架橋を走る列車も。急に降ってきた雨も。

ぜんぶがぜんぶどこか一個違ってもがだめなくらい青々して生き生きできた時間だった。

なにも考えずに水に浮かんで流されながら太陽をみてたら。平和だなぁとつくづく感じた。

ああ間違いなくいま自分の目の前は平和だって思ったら。誰かの為に平和を願える国と今目の前の平和を願う国と。世界にはどっちが多いんだろうと思った。

想い出っていうのはこうやって作られる。

同じドキドキと同じイライラと同じ笑いと同じわくわくと同じ空腹をどれだけ共有できるか。

これから先の人生は。

これが大事じゃないですか。

想い出はおっくうがってたらできませんよ。

いい休日をありがとう。

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Title: 緑化の恩恵。
2008.05.15

小春日和から一転、春先とは思えない寒さが数日続きましたが。。。でもなんか寒い日からあたたかくなるこのわくわく感を今年は2回味わえたかと思えば、なんか得したような気にもなる。

ところで。

うちの寺にはハンカチの木という木があります。詳しくはしらないけどけっこう珍しい木だそうで、白いハンカチのような咲かせることで有名らしい。

でも植樹してもう8年くらいになるんだけど、一度も花をつけたことがない。ちょうどこの時期が花を咲かせる時期なので毎年たくさんの人が楽しみにしてるのに、毎年うんともすんともいわない。

そこで原因を調べようと植物に詳しい専門家をよんで調べてもらったら。

栄養も申し分なし。日当たりも問題なし。一切なんの問題もないです。
だから花が咲かないのかもしれないですね。と言われた。

はじめは意味がわからなかったんだけど。よく聞いたら。

大事にされすぎて花をつけて実をつけようという生きていくための貪欲さみたいなものが失われているのかもしれないということだそうです。少し枝を落として、肥料もあんまりあげないほうがいいかもしれない。とのこと。

時期を同じくして。幼稚園にある一本の木の葉が完全に虫に食われてぼろぼろになった。

そのときに、消毒してくれる業者の人から聞いたのですが。

普通植物というのは、一枚の葉が虫に食われるともうこれ以上食われまいと自己防衛をして植物自身が苦いエキスをだして他の葉を守ろうとするそうです。なので全部の葉がぼろぼろになるということはあんまりないらしい。

でも幼稚園の木は大事にされすぎてそういう自己防衛が働かなくなっために全部の葉がぼろぼろになってしまったんじゃないかということだった。

なんとなくタイムリーにそんな話をきいて。

うちの前の大通りを歩いていたら。

うちの前の大通りの両脇には銀杏並木になっていてたくさんの銀杏の木がはえているんだけど、この時期は葉があまりにうっそうとするので、信号にかぶってしなったりするので、ほとんどの枝がばっさりと切られ、丸裸にされてしまう。

いつもかわいそうだなぁと思ってたんだけど。

なにげなく木を眺めたいたら。その丸裸に切られた枝から青々とした新芽が伸びてきて、日に日に大きくなっていた。それが日に日に。ほんとに毎日どんどん大きくなっていくのが目に見えて、ものすごく生き生きして見えた。

こんな空気の悪いところで枝を全部落とされてるのに。

しかし植物ってすごいなぁ。

最近緑化計画と題して緑化に力をいれてるのでやたらそういう話に敏感になります。

なにがよくてなにが悪いなんていう価値観は絶対じゃない。

自分の思う大切も。かわいそうも。それがほんとうに正しい姿なのかはわかんないもんです。

満たされることが幸せなのか。欠如してることが不幸なのか。

世の中にはそうじゃないことがたくさんあふれてる。

それって大事な問題のような気がした。


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Title: 夜の衣返し
2008.05.11


ほんとこの季節は、空も風も気候もにおいも最高に気持ちいい。町中の緑は生き生きしてるし、虫もふえて、ほんと空気がいきいきしているというか。活気付いてる感じがむんむんします。しかもなんか夕焼けがやたら鼻の奥にツーンと染みます。

日の長さに比例して起きるのははやくなり寝るのは遅くなる。この時期は無駄に外にでたくなるし、なによりも夜風が最高に気持ちいい。夜な夜な原付で夜の街を徘徊してる今日この頃。プチ暴走族ですチョイノリだけど。。。

こないだ。お決まりの御茶ノ水~水道橋間の線路沿いの道を原付を押しながらぷらぷらと歩いていたら、少し前にタクシーが2台止まっていてそこで客と運転手がなにやらもめている様子。

せっかくいい気分なのに、まったくどこぞの酔っ払いがこの気持ちに水を指してくれやがると思いながら横を通り過ぎるときに客の顔を覗き込んだら。

西川のりおさんでした。

名前がおもいだせず。もやもやもやもやしてたところいきなり思い出しました。

せんだみつおさんですよね。といわなくて良かったです。


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Title: やさしさは生き様だ。
2008.05.06

さいきんやっとみえてきた自分の理想の人間像っていうのがある。

いままでその年齢とか。その環境とか。その時つきあってた人とか。いろんなものの影響を受けて。いろんなものを見て。いろんな思いをして。いまの自分があるわけで。

そんなにも長い時間ではないけどその中で。

こういう自分はいいとか。こういう自分はいやだなとか。こういうやつってかっこいいなとか。こいつは小さいやつだなとか。思い続けて今にいたってて。

反抗期には反抗するのがかっこよかったり。時にたくさんの本を読み漁って覚えたての知識をひけらかすのが楽しかったり。ちょっと人より変わってみられたかったり。とにかく脚光をあびたかったり。

いろんなことしてきたけど。やっぱどれも根付かなくて。

人間やっぱり自分の中に根付くものっていうのは無理しないでできるものなんだなぁと思う。

無理しないで一緒にいられる友達はずっといるけど。どこか無理してる友達とはながくいられないみたいに。

理想の人間像っていうのもきっと一緒で。理想の人間像を目指して無理するんじゃ本末転倒で。無理しないでできるところの先に理想の人間像っていうのがあるのかもしれない。

自分は。

結構いろんなところで自分を使い分けてるし。それがものすごくうまいと思う。家でも外でも仕事でも友達でも。自分が本当に無理してないと言い切れる瞬間は一人でいるときだけだと思う。

だから自分の理想とするところはどこでも使い分けない自分。外でも家でもどこでもだれとでも同じ自分。

むずかしいなぁ。無理だろうな。でもやってみる前から無理っていうのはきらいだから。すこしでもそこに近づけたらいいな。


ヒロトは。すごいなぁ。かっこいいなぁ。

そんでやさしいなぁ。

ほんとはなんにも知らないけどね。

でもやっぱり生き様って言うのは人になにかを及ぼしてて。なにかにじみ出るみたいに。伝えるって言うのはこういうことだぜ!ってヒロトいわないだろうけど。そういうことなんだろうなぁ。

頭じゃないんだな。心なんだな。そんで生き様なんだな。

ヒロトが出会ったのはロックンロールだったけど。きっとヒロトはきっとロックンロールに出会わなくてもきっとなにかを垂れ流しながら。生きていたんだろうな。

事実は一つなんだな。

歌がいいんじゃない。曲がいいんじゃない。時代がよかったんでもない。

後付で意味を見出した意味になんかなんにも意味がない。

人間が発明した究極の発明は言語と文字だけど。

でもそれを手にしたときにほんとうにほんとうに。大事なものを手放してしまったんだきっと。

言葉と文字じゃ。

ぜったいにぜったいに。

伝えられないこと。わからないこと。理解できないことが。

ある。

「。」を無駄にたくさん使って文章をかくのが気持ちいいこの感じみたいに。

あるんだよなそういうの。

無理はしない。

自分は自分のためだけにいきる。

それがだれかのためにいきることだと。。。

書こうとする自分。

ああだめだね。


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Title: 刀は文化なのか武器なのか。
2008.05.05

映画「靖国」をみた。ただどうしてもまだ頭の中がまとめきれないので感覚だけでかきます。

ものにもの以上の意味を見出したり。事実に事実以上のものを見ようとするところに苦しみはあるんだと思う。

自分の思うことはすべてそのもの。その事実以上のもので。だれがなんていおうと自分のフィルタを通したレッテルのはられたものにすぎない。

刀は文化なのか武器なのか。

そこで議論をしようと思う心が靖国を固有名詞からそれ以上のものにしてしまったんだと思う。

刀は刀でしかない。

生も。

死も。

それ以上でもそれ以下でもない一点の事実でしかない。

父や母。彼女や彼氏。

子や親。

あの人もこの人。

命は命であってそれ以下でもそれ以上でもない。

さらにいえば誰の所有物でもない。だれかの所有物であるなら自分を含め自由になるはずなのに。生きることも死ぬことも一つも自分の思い通りにはならない。

ものにもの以上の意味を見出さない。おれの思う真宗の根底にはそれがある。

墓の中にはなにもない。

死んだらどうなるかなんてわからない

おまもりなんてただの紙切れです。

そこにかかる心や想いというものはどうなるのか。という問題とそれができるのかどうかという問題はまだ自分の中でも答えが出せずにいるけど。

そこになにかそれ以上のものを見出すのは自分の心の弱さであり都合のいい解釈にすぎないとは頭では理解できる。

おれが勘違いしていたのはそういうことだ。

先祖に敬意を払い靖国に参拝することのなにがわるいとおもってたし、もちろんいまでもその気持ちがないわけじゃない。

でもなぜ真宗と靖国の間に溝があるのかということに目を向けずにきていた。でも今回その根底にある問題としてそこには相反するものがあるということははっきりわかった。

映画の中に真宗の僧侶がでてきた。

それをみていて。

やっぱり真宗の人間があれを言ってしまったらだめなんじゃないかと思った。

靖国の抱える問題はそういうことなんだと思う。

いろんな主張。想い。心。思い入れ。なにかどれもしっくりこないし、そんなばらばらな人間が一つのものにひきつけられ心をとらわれているということの根底にあるものは人間が本来持ちうる、何事にもレッテルをはり自分の解釈で自らの中になにか意味を見出そうとする習性によるものなんじゃないかと思う。

その象徴として靖国は世界には類を見ない偶然の産物なんじゃないかと思う。

そういいながらも。なんとかそれを頭で処理しようとしてもやっぱり自分自身心のそこから沸きあがってくるような気持ちや。憤り。それがとめどなくあふれてくるのを感じて。正解がなにか。この心はなんなのか。宗教とはなんだろうか。自分のいくところはどこだろうか。

正直迷うし、いままでもってた価値観がぶっ壊されることへの喜びもありつつそこから生まれたあたらしい疑問の間でどうにもどうどうめぐりを繰り返す。しばらくねむれそうもないな。

もし意図としてあの監督があの映像を撮ったのなら天才だと思う。

でもおもうに個人的な見解だけど。結果論としてあの映画ができたというだけで、あの映画にはスポットがない。ドキュメンタリーだからといえばそれまでだけど。問題定義がなにもないのはきっとあえてというよりは監督自身もその問題というものに照準を絞りきれなかったんじゃないかと思う。おもうにきっと監督も一靖国にとらわれた一人だという事実。これが結果として生み出した映画なんだと思う。

ただ。日本人には絶対に撮れない映画だと思う。


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  • 自己紹介:1980年1月9日生まれ。どこからを趣味と呼んでいいのかは模索中。好奇心は旺盛。