• PHOTO最終更新日2010年10月11日



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Title: ひさびさのこうしん


ひさびさの更新だからめいっぱいにつらつらと思いついたことを書きつづろうと思う。いままでの日記の最長記録を塗り替えよう。どうぞ途中で投げ出してくださいw

しかし調子わるいGWだった。

初日のBBQで風邪ひいてそれから何食べても味がしないし、熱デルし、ひさびさになんか一日中が夢見心地みたいなふわふわした数日を過ごした。

具合がわるくなるといつも思う。

健康が一番。

でも同じことを繰り返す。

いつも人は失ってみるとあたりまえに感謝する。

ふとMIXIとかGREEに書く文章ってすごい特殊だなと思った。ただの日記なら自分の思うような言葉で感じたままの文章をかけばいい。サイトにのせる文章なら不特定多数の人だから少し考慮してかけば問題ないし、多くの場合、書き手に対するイメージは文章しかないわけだからある意味ニュートラルにはいっていけるし、共感できる部分に共感すればいいし、できなきゃそれでいい。

でもMIXIに書く文章をみる人は実際に近い距離で自分をみてる人がほとんどで、それぞれにその人に対するイメージがあって、文章よりも先に実際のイメージが先行する場合が多い。

文章よりもイメージが先行するところで文章をかかなきゃならいことって最近よくあるけど、でもそういうときの文章はすくなからずそのイメージの枠をはみ出せないことが多いし、言葉を選ぶことが多い。

少なからず人はそれぞれイメージを身にまとってるし、すくなからずその期待に応えたりはしてもここ一番のイメージだけは裏切らないように気を使うものだと思う。

男前で誠実な顔してる奴がほんとはすごいスケベなキャラなのに、そういうことしたらええ!意外!そんなことする人じゃないとおもってた~!とか言われたくないのと同じだ。なにも好きこのんで自分のイメージをぶちこわそうとする人は少ない。

ましてやMIXIの中には職場の人とか、友達とか、ちょっとした知り合いとか、中には気になる人とか、尊敬する人とかいるかもしれないし。たくさんの輪が増えてくれば多少なりの使い分けとか、それぞれのなかのイメージの誤差だってあるわけだ。

例えば、この人とは歴史について語れるけど、恋愛については語れないとか。男同士で盛り上がるような会話も女同士で盛り上がる会話とかもあるだろうし、ましてやいつもバカみたいにな~んも考えずにしゃべってる友達にいきなり靖国問題について質問したりしないし、

そういうものをひとまとめにして、すこしづつ枠を広げていけばいくほど、言葉を選んだり価値観をすりあわせていかないといけなくなる。

みんなでキャバクラに呑みにいってもりあがったとしても、友達とみんなで呑んだって書けばそれのほうがいいに決まってるしむしろそこにはあえて触れる必要もない。

例がよくないけど、あ、あの人とかにどうおもわれるかな・・って一瞬でもよぎるようなことは書かないに越したことはない。

ささいなことだけど、輪がふえれば気づかないそういう制約は積み重なって増えてくる。そのうちイメージに偏りもでるだろうし、それが均等ならなおさら難しい。だから書けることだけを書かなきゃいけなくなるわけだ。

きっと中にはそんなイメージとかじゃなくて、ありのまま思ったこととか日常にあったこととかをかけばそれでいいじゃん。イメージとか気にしないよ。っていう人もいると思うけど。

ありのまま思ったことをイメージとか考えないでここに書き続けるにはよっぽどドラマチックで劇的な日常を送ってるか、広いアンテナと感受性と、言葉を選べるだけの語彙とうまくニュアンスを形にできる文章力が必要だと思う。

そうじゃない形でイメージを変えないような文章を書き続けられるとしたらできるだけ自分の感情的な部分を表にださないような無難なものをかくしかないわけだ。

実際MIXIには何十万人?の人がいるんだろうけどアトランダムに日記を見てると経験したこととか買った物とか、行った場所とか、身の回りの出来事とかの日記が一番多い。自分の気持ちとか感情とか、自分がどう思ってるかとかなにを感じたかとか、自分の内側にある部分までちりばめて書いてる人ってなると極端にすくないんだなって感じた。

人間が一番恐れる行為は他者に自分の心をさらけだすということだ。といった心理学者がいたけど色んな人の日記をみていてなんとなくそんなことを思った。SNSは今の時代を反映してるなって思う。

そう考えるとバトンってのはSNSの理にかなってる。

話は飛んで

風邪ひいて寝てる間に色々本を読んだ。

主に「国家の品格」「あの戦争はなんだったのか」

内容に関してもいろいろあるけどなんか改めて、ほんとに改めてって感じでナショナリズムってなんなんだろうって考えさせられた。

そしたらいままでおれの思ってたナショナリズムってのはちょっと間違ってたかもなって思った。そもそもリベラルとか保守いう呼び方があるけど保守ってのはなにを保守してるんだろう。リベラルじゃない人間が保守なら彼らの守りたいモノはなんだ。その守りたいモノの中にナショナリズムがあるんだとしたら日本のナショナリズムの根本はどこなんだろう。

歴史問題や靖国問題の中にはたしかに国粋的な思想があるけど、それが日本のナショナリズムの原点だといわれれば漠然とそうなんだな。って思うけど。保守とか右だという点で一本ここ筋が通ってるかというと、焦点が絞りきれない気がする。そしたらきっと焦点をあてるべきは天皇だ。っていうかもしれないけど、そもそもいままであった天皇制のすぐれた点とか天皇制のもたらした日本の国粋的な思想ってのを明確に説明できるんだろうか。

海外では移民排斥という形で国粋的な思想掲げる右派もいるけど日本に移民の思想はない。

結局そうなると日本にある守るべきモノはなんですか。といわれたときに、伝統とかたとえば武士道とか、それこそ戦前戦後の日本人の心意気みたいな。抽象的な部分にまとを絞らざるをえなくなる。

もちろんおれじしんそういうモノは残すべきだし。忘れてはいけないと思うし、伝えなければならないと思う。そしてなによりもそういう文化や歴史に日本人として誇りをもっていたいし、やっぱり日本が一番だとおもってる。

そういう思想を芯として掲げてたら保守右派とかと呼ぶのが通例だけど。それを否定することを認められないのをすぐに右とか保守というのは間違ってる気がする。

歴史を重んじない革新なんておれは認めたくないけど、かといって革新もできない石頭にはなりたくない。

人は進歩することは必要だ。でも人として守るべきものを忘れてはいけないのも事実だ。合理化によって失う代償が保守の求めるものならそれは間違ってないけど、保守の求める国粋的な思想がかたくななナショナリズムを生み出すのならそれは間違ってると思う。人は自分とは違う他者と関わらないと絶対に進歩はしない。

なんか難しくかんがえるナショナリズムってのはホントにわからなくなるけど、ここまで書いてきてふと

そもそも根本にかえればナショナリズムってのは死に際になって思い出す土地だったり。故郷とか田舎の風景だったり。子守歌だったり、懐古される中に描かれる風景や空気だったり、そんな生まれながらに心に刻まれた記憶とか伝承だったりするのかもしれない。

そしてそれを純粋になくしたくない。守りたいって思う気持ちがナショナリズムへの口火みたいなもんなのかも。

それをみんなが持ち続けるだけでいい。それを誇るのもいいのに。あの国はこうだとか、あの国の文化はこうだとか、自分がもってるいい文化や価値観を人に押しつけて共有を求めようとするから話がややこしくなるんだろうなきっと。でもその気持ちは人間である以上否定もできない。

話が飛躍するけど、そう考えたら世界平和なんて絶対にありえない。それぞれの価値観をすりあわせるなんて無理だと思う。小さな世界ですらあの上司とは価値観が違うとか、あいつとは話があわないとか、思ってるような生き物が戦争なんてよくない!みんなで手をとりあおう!なんていって実現なんかできるわけがない。

なんか書き始めたらとまらなくなって話がどんどん飛躍しそうだからこのへんでやめよう。きっとここまで読んでるは2人くらいだろうw

やっぱりおれにとって書くことはある種の安定剤みたいなもんだ。最後の逃げ場所っていうか。これができなくなったらきっといろんな支障がでてくるだろうなと思った。

だから書かない時は心が平穏な証拠なんだと思う。

文字を書いたり文章を考える瞬間に安心できる時は、書いてないとなにかざわざわするからなんだと思う。




POSTED @ 2006.05.12 | Comment (0) | Trackback (0)

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  • 自己紹介:1980年1月9日生まれ。どこからを趣味と呼んでいいのかは模索中。好奇心は旺盛。