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Title: 心の臓
2009.08.30
気づけば蝉の声ももうほとんどきこえない。 どうやら夏ももう終わりみたいだ。 さみしい。さみしすぎる。 とは言ってみるものの、早速に、頭の中で鮟鱇鍋の絵が浮かんでは消え浮かんでは消え、鮟肝のたっぷりはいった雑炊がチラツクわけです。シナプスがスパークです。 四季をそれぞれに楽しもうと思った時に、真っ先に浮かんでくるのは、食べ物だというこの貧困な感性。 しかし、選挙が終わってみて・・・いろいろと複雑な想いだ。こんなに選挙に感情移入したのは選挙権をもらってから初めてかもしれない。 本当に変われるのか日本。 もう後がないぜ日本。 言いたいこと全部書いたら、きっと炎上しちゃう。てへ。 | コメントを書く (0) | Trackback (0)Title: nacio-
2009.08.30 疲れのせいなのか、それとも気候のせいなのか、眠くてしょうがない。気を抜けばいつでも寝れそうなのに、でもいざ寝ようと目をつぶると寝付けない。 どどどっという表現がぴったりなくらい、日常が押し寄せてきて、捌くだけも精いっぱいなのに、軽くいなせないような問題が次から次へやってくる。 最近、はっきり気づいたのは、仕事の内容や、まわってくる種類が、確実に数年前とは違うということ。そういう年になったんだ、ということを任される仕事を眺めながら気づかされる。 自分はやっぱり人に関わる仕事が好きだし、目に見えないものを扱う仕事が好きなんだと思った、信仰とか教育とか、自分の感性とか想いとか、そういう漠然としたものを、目に見える形にしていくという作業が好きだし、向いてるんだと思う。そういう仕事はどんなに立て込んでも苦しくない。 ■ そんな中、はじめて裁判所に提出する意見書というものを書いた。 詳しい訴訟の内容はさておき、同一性保持権と信仰ということについて、そして、お寺の存在意義について。 この意見書で、判決が大きく左右されることはないかもしれないけど、自分にとって、こういう機会でもなかったらここまで、ちゃんと向き合って考えなかった問題かもしれない。 今回のことで強く感じたのは、お寺があり、仏像があるから、そこに信仰があるのではない。信仰があるところに、お寺があり、仏像があるんだ。 この順番が逆になってしまった、それは形骸化されたものになってしまうし、お寺の存在意義とはずれてきてしまう。 もっといえば、坊さんがいるところに教えがあるのではなく、教えがあるからこそ、坊さんがいるんだ。 ひさびさに脳みそ沸騰するくらいいろんなことを考えて、夢に出てきてうなされるくらい、信仰というものについて考えて、自分自身の足元を確認するいい機会をいただいたと思う。原点とか、「そもそも」ということを再認識するということは本当に大事なことだと思う。 しかし、今回こういう形で文章を書いてみて痛感したのは、いかにいままで自分が、なににも縛られず制約のないなかで、自由気ままに文章を書くことになれすぎていたかということだ。 文法も「てにをは」も勝手に好き勝手書いてる時は、そんなに意識しないけど、今回誤字脱字はもちろん、正しく「てにをは」と文法を使うこと、さらには、いかに簡潔にわかりやすく書くか、ピンポイントで読む人を意識して、1つの目的をもって書く文章が、こんなに難しいとは思わなかった。 でもそう思えてよかった。 また書くことが楽しくなった。 はじめてサイトをつくって、こうやって好き勝手なことを書き始めて、今年でちょうど10年、今回のことはありがたい気づきだったと思う。 でも自分のために書くときは、できるだけそういう制約なしで好き勝手に書きたいけど。
今回の選挙をみて、率直に感じたのは、 幸せの押し売り合戦みたいだなと思った。 こっちは、これあげますよ! みんなのために! 国民のために! そんで選ぶほうは、幸せの選択合戦。 自分の生活にプラスになることが豊かで、幸せであることなんだと思いこんじゃうし、そもそも知らないうちに、さも二者択一のなかから、選ばなきゃいけないかのように刷りこまれる。 国民全員が選挙をボイコットしたっていいのに。 ここでも「そもそも」が大事なんだと思う。 政治はなんのためにあるんだ。 国とはなんのためにあるんだ。 国民はなんのためにいるんだ。 豊かってなんだ。 幸せってなんだ。 いまの日本は、神風もびっくりだ。 本末転倒の極みだ。 | コメントを書く (0) | Trackback (0)Title: 自動車で、走行速度を下げずに、エンジンの回転数を下げる変速装置
2009.08.28
朝と夕方の空気がぴんとはりつめて、夏の浮かれた空気が静かに、ゆっくりと沈殿して、その上澄みみたいな今日だと思った。 そんな空気にじかに触れると、認めたくない現実を、頭よりも先に体が受け入れようとして、そのギャップに押しつぶされそうになって、道に転がる蝉の死骸に妙な感情移入をしてしまって消えたくなる。 過ぎてきた年月や歴史を味と呼ぶのなら、現代にあふれるもののなんと味気のないことか、スタイルや造形やに個性を求めてもそんなもんはオリジナリティでも何でもない、ただのできのいい模倣だ。味というものの個性と独自性、これをこえるオリジナリティがあるわけない。 理屈と言葉で問題が片付くと思ったら大間違いだ。理屈も言葉も薄皮一枚みたいなもんで、それを生み出す心にまでさかのぼれるかどうか、その深さまで潜れるかどうか。 そんなもんを突き付けられる。 季節の変わり目にはよく思うけど、四季ほど人の情緒をゆさぶり、ダイレクトに響くものはない。だからこの国で育まれた文化を誇りにも思うし、そのかけらはちゃんと自分の中にもあるんだと胸をはる。 自分のほしいものは手を離すことで得られるもので、手を離すことでみえてくるのは、ふがいなさとありがとうで、そこから湧いてくる、やさしさはむきだしで、覆わないことだということだ。相手のためだとそこに覆ってるものはきっと自分のだめな部分。 * 仏陀は現状に涙を流して嘆いたけれど、でもどこにもとらわれていない。感情はあくまで感情の一点にしか過ぎないということか。 * つねに最悪なことを考えることはネガティブじゃない。最高にポジティブなんだと思う。 無言の悪意に押しつぶされるなかれ。 | コメントを書く (0) | Trackback (0)Title: えいえいおー
2009.08.22 上杉謙信の言葉で「死なんと戦えば生き、生きんと戦えば必ず死するものなり」というのを見つけた。 ほんとその通りだなと思った。 そのまんま、 伝えようと思って、言葉を考えれば考えるほどに伝わらず、伝わらなくてもいいと思って、言葉を選ばずに思いの丈をぶつけてみれば案外伝わる。 なにかを理解しようと、考えて、たくさんの本とにらめっこしてもわからないのに、もういいやと思って考えるのをやめた時に、日常の生活の中にその答えを見つける。 静寂とはなにかを感じようと思って、いくら音を遮断しようとしてもできなかったのに。どしゃぶりの雨の本堂の中で、うるさいぐらいの雨音の中で静寂に気付かされる。 本当に人間でいることはおもしろいと思う。 真理は逆説のなかにこそ。 「とらわれない」ということは何よりも大事で、自分の脳みそがはじき出した、この道を進めば、答えに行きつけるということをとりあえず、疑ってみることが大事だと思う。 自分を疑えないということは、人間が自分の価値観と経験と知識にいかに、よりかかっているかということで、そこを脱しないと、絶対に前には進めないと思う。そこを脱しないと感じることができないことがたくさんあると思う。 自分なんて所詮だ。 先日YOGAの先生が仏陀の言葉をレッスンの前に出していましたが、「あなたのほしい宝はあなた自身の中にある」と、それだけ聞くと青い鳥のような話で終わってしまいそうですが、 これをもっとつっこんで補足するなら、ようは矢印を内側に向けていきなさい、幸せも不幸せも生み出しているのは、自分自身ですよといいたいわけで、さらに、ほしいと思っている宝を追い求めていくことで、そもそも宝とはなんだった?というところに行きつかせたいという、仏陀の思惑があるわけです。それを方便と呼ぶわけです。 えいえいおー Title: 自分を自分としてとどめておける理由
2009.08.17 自分を自分としてとどめておける理由は人によって違うわけで。 その理由を外側に置くか、内側に置くか。 自分はずるくて横着だからその理由を内側にもっていたいのです。 できることなら自分を内側から存在させたいのです。 自分で自分になりたいんです。 期待や評価をぶった切りながら自分でいたいのです。 例えるならば、仮にうんこを投げるときに手が汚れちゃうとか思いたくないってことです。 ドラマチックにいろんなものがあふれてきて、ほろよいそうな自分を徹底的に嘲笑ったあとに、残ったものになりたいということです。 二元論をこえたところに自分というものの、尻尾みたいなものを見つけたいわけです。 0と1でもなく。かといって5でも9でもないところにいきたいわけです。いうなれば昨日でも明日でもないけど、今日じゃないところで、のうのうと暮らしたいということです。 居場所というのは仮にもそこにスペースがあるということだから。 スペースのないところでも居場所を見つけられる自分になりたいということです。 Title: かっこいい。
2009.08.17 いままでかっこいいと思ってたことがかっこ悪く思えて。 いままでかっこわるいと思ってたことがかっこよく見える。 ずっこけて、鼻たらして、鼻血もでてるのに。 ニカッとわらえるあんたはまぶいぜ。 まぶしすぎるぐらい。 一周するってのはこういうことなんだな。 Title: 弱い者たちが夕暮れ。
2009.08.15
戦争を過ちというのであれば、戦争を避けるために何をしなければいけないのか。そもそも、なにをどう間違えたんだろうか。もし時間が戻ったとしたら、どのタイミングでなにをしなかったら戦争にはならなったんだろうか。 だれか明確に教えてくれないだろうか。 それがわからなければ、同じ過ちを繰り返さないというのは、ただの呪文とおんなじだ。 そもそもなんで日本語で原爆の慰霊碑に同じ過ちは繰り返さないと刻んであるんだ。原爆投下が過ちであるのなら、同じ過ちを繰り返しちゃいけないのは日本人ではないでしょう。 とか思っちゃう自分。てへ。 ■ 先日鉄道博物館へいってきて感じた。 こりゃすごい。ほんとに鉄道が好きな人がつくったんだろうな。これはただの箱ものじゃない。日本の鉄道の歴史を知る上ですばらしい博物館だと思った。 しかも設計にあたり、食事を食べるとことから、実際に走る貨物列車がみえたり、屋上からは同じ目線で、新幹線が走っているのがみえたり、しかも丁寧に時刻表まで大きく表示してあったり、鉄道好きじゃなくても楽しめる。あの気の配り方は、本当に鉄道が好きじゃなきゃできないと思う。 むかし秋葉原の交通博物館にあったD51も健在で、ちょっと懐かしくなった。移転するときはさみしかったけど、小さい時に自分が手をひかれて連れてこられた思い出も、こうやってちゃんと引き継がれていくんだなと思ったら、ちょっとうれしくもあった。 一言で箱ものというと、あんまりいいイメージではないけど。でもこうやってたくさんのものを引き継いでいってくれるなら、箱ものも大切だなと思った。 | コメントを書く (0) | Trackback (0)Title: きゃらべん。
2009.08.14
キャラ弁とは、キャラクター弁当のことで、ようは、子どもが喜ぶように、ご飯やおかずでいろんなキャラクターの顔を描いたお弁当のこと。 流行ってるいうか、そういうのは昔からあるんだろうけど、最近のキャラ弁というのはすごすぎる。アンパンマンやポケモンや子どもたちの人気キャラクターをそうとう手を込んで作ってあるわけです。 キャラ弁で検索すれば、すぐにそんな画像もみつかるでしょう。幼稚園の子どもで、たまにお母さんに、拍手を送りたくなるくらいのお弁当があるんだけど。 でも正直個人的にはそれに疑問を投げかけたいわけです。 そりゃ子どもは嬉しいし楽しいよ。 でもね。 食べ物はおもちゃじゃないんですよ。お米はお米、お肉はお肉、魚は魚。ちゃんとそうやって意識していただいたほうがいいんじゃないでしょうかね。 「いただきます」はアンパンマンにいうもんじゃないですよ。 アンパンマンにしてしまったら、それが魚でも、肉でも、野菜でも、わかんないし、なにで出来てるか見えにくくなっちゃうし。 食べるときはちゃんと食べ物に意識を向けたほうがいいんじゃないかと思うわけです。 うちお寺ですので、これでもいろいろ小うるさく育てられてるわけです。とくに食べ物に関しては、だもんでお皿の上で海苔で顔なんて作って遊んでたら。 「たべもので遊ぶんじゃない!」とよく怒られたもんです。 なんでい!うるさいなぁと思ってたけど、今になればそれにはちゃんと意味があったと思うし、それは本当によかったと思う。 子どもたちにはそういうのをちゃんと伝えていきたいなと思うし、それをちゃんと形にしていける力をもっとつけないといけないなと思いました。 キャラ弁ね・・・これは大きな教育的課題ですよ。 | コメントを書く (0) | Trackback (0)Title: Redじゃない赤
2009.08.14
今週は、買ったままに放置された本を整理するがごとく読む週間ということで、だいぶ前に買った本を読んでるわけですよ。そしたらその中に昭和天皇がポツダム宣言を受諾したときのことを、回想しているときのお言葉が書かれていた。 「第一にこのままでは日本民族は亡びて終ふ、私は赤子を保護することができない」 「第二には国体護持の事で、敵が伊勢湾附近に上陸すれば、伊勢熱田両神宮は直ちに敵の制圧下に入り、神器の移動の余裕はなく、その確保の見込みが立たない、これでは国体護持は難しい、故にこの際、私の一身は犠牲にしても講和をせねばならぬと思った」 この第二に、というところに日本の国体護持を考えた時に、最優先に伊勢神宮、熱田神宮の名前がでてくるほど、この両神宮は日本の国体護持ということに深くかかわっているわけだ。 やっぱ一度見てみたいな。死ぬまでに1度は行きたい伊勢参りだな・・いつかいきたいなぁ。 とか思いながら、家で悶々本ばっか読んでてもカビはえちゃうんで、気分を変えて、「トロムソコラージュ」をもってどこか静かなところでも見つけて読もうと、意気揚揚自転車に乗り、ぷらぷらといつもの散歩コースを走っていたわけですよ。 そんで上野のお山にさしかかった時に飛び込んできたのが、 「伊勢神宮と神々の美術」 タイミングよすぎ。よすぎてビビった。 まよわず国立博物館へ。 主に伊勢神宮の美術品がメインの展示だったんだけど、ものすごい感動した。 本当に日本の美的感覚というもののすごさを感じるわけです。もちろん、元は海をこえてはいってきたものなのだろうけど、それを熟成させ文化にした日本人の美的感覚はすごい。 伊勢神宮の美術品をみていて感じたのが、当時の祭祀に使うものや、調度品の色遣いがすごい。色彩感覚にものすごく惹かれた。中でもメインや差し色に「赤」がよく使われているんだけど、「赤」といえども何種類もの「赤」、正確には、「朱」とか「紅」とか「緋」という色なんだろうけど、その色の1つ1つにものすごくぐっとくる。 ほんとにすごい色だ。 あれだけの色を使い分けて、しかも、化粧箱や、枕箱や、祭祀用の太刀の装飾やデザイン、絵柄のすばらしいこと。言葉で伝えるには限界がありますが。 合理的じゃ生みだせないものの素晴らしさの髄みたいなものを見た気がした。日本人の根っこにある共通の美的感覚や普遍的なデザインというのはやっぱあるなと思った。
Title: むさし。
2009.08.13 五輪書を少し前に買って、長いこと放置してあったのを、やっと読み終えた。いろんな説が言われているけど、これを書いたのが仮に武蔵だとして。 五輪書の中には、宮本武蔵という人の人間像がものすごくでてると思った。私感だけど、彼はものすごく神経質で、ものすごく細かくて気の付く人だったんだろう。小姑みたいに。 そんで、なによりも死というものへの恐怖心をしっかり自覚していたんだろうと思う。 全篇を通して感じたのは、勝つことへのあくなき執念というよりも、何が何でも負けたくないという、鬼気せまるものを感じた。 戦いに勝つための書ではなく、戦いに負けない為の書だという感じがする。同じようだけどこの感覚は違うと思う。 結局はそこなんだろう。 死を怖くないと思うことは強さではない。 そもそも保身をするときに人が発揮する力は、インテルもびっくりな時がある。たまにいるけど、保身するときにも力を発揮できない人は、そもそも力がないんだと思う。 ある100歳を超えたある禅師の言葉で最近感銘を受けたのは。 「いままで悟るというのは、死ぬことが怖くなくなることだと思っていた。でもそうじゃない、悟るというのは平気で生きていられることだったんだな」 だって。 そして只管打座の奥深さ。 最近どうも禅よりな部分に、ものすごい感銘をうける。でもその感銘を受けたまま歎異抄を読むと、いままで自分の思っていた深さは、所詮くるぶしくらいなもんだったのかもしれないと思う。 しかし道元も親鸞も、もちろん法然も、それこそ蓮如も、もちろん隠元さんも。あげたらきりがないけど。 ほんとにあの頃のお坊さんの感性はすさまじい。すさまじすぎる。すさまじすぎて、目の奥がずーんと重くなるくらい。 | コメントを書く (0) | Trackback (0)Title: いっぽ。
2009.08.12 みんなが大人になって思うのは。 普段ね。くだらない話しながらバカやってる奴がね。 それぞれの分野で頑張ってるのをみると。嬉しいし、悔しいし、でもやっぱ嬉しいし、おれもがんばんきゃと思う。 分野は違えどね。 舞台の上の何百人もの客の前に歌う奴がいて。 小さな舞台でも堂々と演じてる奴がいて。 大きな会社で部下を何人も抱えてる奴もいて。 自分の会社を継いでがんばってる奴もいて。 ものすごい難しい研究してる奴がいて。 海外の子どものために頑張ってる奴がいて。 ニッチな言葉を勉強してる奴がいて。 他にも書ききれないくらいたくさんのみんなが、それぞれの分野で精いっぱい頑張ってんだ。 おれらの世代も捨てたもんじゃないぜと思う。 そんでここに自分がいる。 おれもがんばんなきゃと思う。 おれも一歩でも前に進まなきゃと思う。 足踏みしてる暇なんかない。 もちゃもちゃと理屈こねてるまに、足動かしてたやつだけが少しでも前に出れるんだ。 みとれ。 Title: む。
2009.08.10 いつもは、ヘッドフォンをつけて、好きな音楽を聴きながら文章を書いたり、本を読んだりするんだけど、夏だけは違う。自分の世界に入り込むことよりも、蝉の声や、匂いや、風鈴の音、夏を味わっているほうが、いろんなことがすらすらとはかどる。 だからというわけではないんだろうけど、夏はものすごくゆったりと時間が流れてるように感じる。意識が前に前にいかないからかもしれない。 先日ふと思ったことがある。 自分の書いたものを、つらつらと読みなおしてて、この頃の自分がこんなこと言えちゃうのは、まだまだ見えてなかったことがあったからだなと思うことがある、いうなれば若気の至りともいえるし、視野の狭さともいえるし、正論に胸を張っていたともいえる。きっとそれは「いい」「悪い」の価値観では分けられないけど、明らかに、知らなかったからこそ言えるという言葉だ。 脳死の問題に触れた時にも感じたけど、自分の身内に脳死者がいる人といない人で、脳死について使える言葉の数はそうとう違うはずだ。 知らないからこそ言える。ということは知ってしまうと言えないことがあるということだ。 人間立場変われば、言葉も変わるもんで、知らなかったから言えたよね・・・知っちゃったらいえないよね・・・ということは多々あると思う。 そう考えた時に、いろんなことをつきつめていって、その立場を経験せずとも、たくさんの立場があるということが、しっかりとお腹の中に落ちた時に、自分が使える言葉というのは、きっといまの半分よりも少なくなってしまうんじゃないだろうか。むしろ突き詰めた時に、自分が口から出せる言葉なんてものは無くなってしまうのかもしれない。 ニュアンスが難しいけど、言葉で表現できることなんて、本当は1つも無いはずだ。ってことは表現されている言葉はすべて、いうなれば最大公約数なのかもしれないし、もっと突っ込めば「如し」でしかない。 そこでふと思った。 「無」 という言葉がある。事あるごとにそれを考えるけど、いままで腑に落ちたことも、分かりかけたこともない、けど、今回感じたのは、やっぱりそれは相対的なもので、知らなければ使える言葉があるのと同様に、知ることで使える言葉は減っていき、さらに深く突き詰めていく時に、言葉の存在自体の意味というのは、仮のものでしかないと気づかされるかもしれないということ。 その状態を「無」というところにあてはめることはできないだろうか。 前に外人に「無」は「nothing」ではなく「no personal」のほうがいいんじゃないかという話をしたことがあるがいま思うと、それもちょっと違うかもしれない。英語に直すというのは本当に難しいが、この作業はけっこう頭の整理になると思う。いまの感覚でいうと、「no category」とか「no distinction」とかのほうが近いかもしれない・・・嘘という意味ではなくて、「no truth」とかでもおもしろいかもしれないけど、これは説明をつけないとダークサイドにされてしまう危険性がある・・・「無」の英語化はほんとなにげに奥深い。再考に再考を重ねる必要があるけど、この作業はなかなかおもしろい。 無とは相対的な中に生まれるというのは、最近なんとなくだけどわかるような気がする。 今、「在」るものは、すべて結局「無」くなるわけで、さらに言えば、いま在ると思ってるのは、そこに在ると思い込んでいるにすぎないわけで、存在とは物理的な概念だけを指すわけでないということはなんとなくわかる。 そもそもプロセスの中で、なにかに依ること、それが言葉でもなんでもいい、それは必ずしも必要なことだけど、それを突き詰めていったときの、その存在を根本から疑える感覚というのが、次のステップなのかもしれない、そこにきて初めて、自分の存在そのものが「利他」となれるんじゃないかと思う。 「在る」ところに、「自利」があって「無い」ところに「利他」があるというのもなんとなくだけどつながってくるような気がする。 むずかしいけどおもしろい。 でも外国に友達がいてよかったなと思うのは、言語を変換する時に生じる摩擦の中で無駄なものがそぎ落とされて、自分自身がああなるほどと気づかされることがあるということだ。
Title: 堆肥。
2009.08.06 思い通りになることなんて初めからなんもないんだから。 プライドとか、自分でかってに作り上げて、その枠からはみ出せないとか勝手に思い込んでるものを、一度疑ってみたらいい。ほんとにそうなのか。 自分は自分を結構客観的に見れてると思っていることがもう、客観的ではないんだよ。自分の色眼鏡はずしちゃえ。 自分はそれでだいぶ楽になったし。 しがみつかなきゃ守れないものんなんて大したもんじゃない。 全部手を離したら、なんもなくなるような気がするけど、離してみると、ちゃんと大事なものだけが、大事な人だけが残るようになってるんだな。よくできてるもんだ。 後先じゃない。いまここ。 あなかしこあなかしこ ■ 禅の教えに「十牛図」というのがあるのを聞いて調べてみた。 これは面白い。最近、他宗の人とよく会うようになって、ものすごい勉強になる。いままで自分のみてた視野の狭かったこと。 人間もそうだけど、対比するということは、もんのすごい大事な作業だ。対比して観る。この重要性は結構でかい。 何宗も根本突き詰めていくと同じなんだよね。同時に真宗の素晴らしさも再認識する。 対比は堆肥。 ■ 小さい頃に、「将来」とか「大きくなったら」と呼んでいたのはまさしく今のことなんだなと最近思う。 いま自分は何になった? ■ しかし最近腹抱えて笑うこともなければ、とりとめもなく泣くこともない。いやでも決して枯れた毎日というわけではない。 むしろ楽しい日々。なんの不満もないわけじゃないし、いいことばかりじゃないけど、まんざらでもない日々。 でも思うんだ。 それがいいんだろうな。 それでいいんだろうな。 まえに言われて意味のわからなかった。「頭からおしりのほうまで、芯が通った感じ」っていうのはこういうことなんだろうか。 それを言った人はもういないから確認のしようがないけど、最近そういう確認のしようのない言葉に質感を感じる瞬間が多いな。そういう年なのか。 ■ テラスとかで、生あたたかい風に吹かれて飲みたいのです。 あっテラスとか洒落たこといってごめんなさい。 ガード下というのも立派なオープンテラスだよ。 ■ 子ども見てると価値観なんてくそくらえだなと思う。 子どもの頃は、ちゃんといま満たされることで満足してたのに、いつから自分の価値観から、社会的な価値観で物事を判断するようになったんだろうか。 1万円札とりんごジュースを並べられて、迷わずりんごジュースをとれる価値観に時々どきっとする。 いつからここで1万円札を選ぶようになるんだろうか。 ■ 最近の子どもは、カブトムシやクワガタに触れない、蝉の抜け殻を触れない子が多すぎる。 カブトムシの名前はたくさん知ってるのに、手にのせられないまま大人になったら、 机上の空論者になっちゃうぜ。 クワガタに指挟まれたら結構痛いんだ。 虫だけじゃない、植物でも魚でも動物でも。もっと直に命に触れる場所があってほしいと思う。 命だって対比して初めて輝きをますんだ。 蝉はね。 1週間で死んじゃうんだ。 そんでころっと死んで、ありんこに目ん玉とかほじくられて食われちゃうんだ。 そんで最後は跡形もなくなって土に還っておしまい。 先月のお盆に会って、お彼岸の法話楽しみにしてますねって言ってた人も、しんじゃうんだよ。ころっとね。 そんで最後は白骨になっておしまい。 最近骨をみてて思うのは、骨になっちゃうとほんと何にもないんだ。みんな一緒、年齢も肩書も。きれいもきたないも、生きざまも死にざまも。 みんな白骨になって、ちいさな骨壺にはいっておしまい。ほんと人間なんも持たずに生まれてきて、なんも持たないで死んでいくんだなと思う。 いつか自分も確実にそうなる。自分の大切な人たちも。 ■
「休日になにをしますか?」 という記者の質問に若田さん 「休日にはゆっくり地球をながめたいとおもいます」 だって。 しびれた。 おれもみたい。地球ながめたい。 ■ 自分は昔、世の中みすかしたような顔で胡散くさいせりふをはいてたそうだ。 なるほど。 きっと間違いないだろう。 そんな自分に今から戻れるかちょっと模索してみることにする。 | コメントを書く (0) | Trackback (0)Title: 足跡
2009.08.05
感性のある言葉は素晴らしいな。 そういう人がいて本当によかったと思う。最近、自分は決してMじゃないと思ってるんだけど、でも自分の自我や知識や、経験が叩きのめされるようなことがあると嬉しくてしょうがない。むしろ叩きのめされたい。正確には叩きのめされたいんじゃなくて、叩きのめされた後の自分がどうなるのか見たい。 思考が感覚が一変する感覚を一度味わうとそれは中毒みたいに、それをもう一度味わいたいと思うようなもんなんだと思う。 目をそむけずになにかに自分をちゃんと照らし合わせて、その人よりも低い温度になってる自分を発熱させていくみたいに生きていけたらいい。しらぬまに低い温度に慣れるなんてごめんだ。 ありがとさん。 熱は高いほうから低い方へ。何十年も言ってるけど、いつだってこの法則はものすごいしっくりくる。 しかし。旅がしたい。 いま自分に足りないのは旅だけです。あとは全部足りてます。 夏を毛穴で感じれるような旅がしたい。 脳天にくるようなジリジリした旅がしたいんです。 | コメントを書く (0) | Trackback (0) |
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