Title: hibari
匂いというのは重要です。いまうちの外壁の塗り替えをしているので、ペンキの塗装の匂いが部屋中に充満していて、頭がいたくなるくらい臭いです。たったこれだけのことで集中力を欠いて、お彼岸に話したいこともまとまらないことを、すべて匂いのせいにしようとして片づけている今日この頃。
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信じるとは一言で言うなら期待なんだと思う。さらにいえばそれは希望であり、形をかえた願望でもあると思う。願望とはいいかえれば欲であるわけで、結局はきりがないものなんだと思う。
一度信じた結果になれば次も、次も。それが人間なんじゃないかと思う。どこかでそれを断ち切らなければ信じるも苦しみになる。
信じるということは、自分の中にある模範解答にそれを照らし合わせているにすぎないだけであって、その模範解答を生み出す自分の価値観に依っているにすぎなんだと思う。
信じるを生み出しているのはあくまで自分自身。自分自身の心が、脳が、なにかを補うために生み出している1つの妄想なんだと思う。
いうなれば信じるという言葉で自分の大事な部分、深い部分を覆い隠してるだけであって、信じるなんていうものは本当はどこにも存在してないんだと思う。
きれいに思えるから、それを掲げれば大義名分なようにきこえる言葉というものこそ本当の意味で正しくとらえられなくなってしまうということがある。
正義・愛・希望・信頼
それを生み出しているのはあくまで自分自身。その価値観が絶対正しいなんて保証はどこにもない。そして世の中に変わらないものなんて1つもない。
どんな理由をみつけようとしても、どんな可能性をさがそうとして、自分の手の中にないものを思う通りになんてできないし。ましてやとどめておくなんてことはできない。それが気持ちならなおさらで、それがまぎれもない現実。
仏法の生み出す言葉は時に乱暴で、時にものすごく冷たいように感じることがある。でも思うにそれこそ人間が正しい事実から目をそむけたいだけなんだと思う。
手を離すまでがきっと大変なんだと思う。手を放してみるとたいしたことなくて、むしろ手を放して初めて自分へ、そして人へ本当の意味での温かさを持つことができるんだと思う。自分自身がなにかに対して半身でいるのに、だれかに向き合えるわけがない。自分が正面切ってたってはじめて誰かにもちゃんと向き合えるんだと思う。
ある人が、両手にたくさんのお弁当を抱えてると重くてしょうがないのに、全部食べたら全然重くない。重さは変わらないのにね。おもうに仏法もそうなんじゃないかと思う。といっていた。
ほんとにそうだと思う。
最近、仏教に触れれば触れるほど、その言葉の厳しさというかストレートさに、これをよく初めに思いついたときに人に話してわかってもらえると思ったなと、変なところで仏陀に感心する。
仏陀の話を何人かで集まってすると必ずそこにいる人の中から。人間くさくてもいいじゃないですか、振り回されても、騙されてもそれでも信じても、そういうものが人間なんじゃないですか。
仏陀のいうことは間違いないし、実践できたらすばらしいけど自分には無理です。信じるということが願望でも、それでもそこにすがってしまう自分はどうすればいいんですかね。という意見が必ずと言っていいほどでる。
そこまで聞いてる人が感じてくれれば、そこから親鸞や阿弥陀さんの話ができる。真宗の話ができる。疑問でも肯定でも否定でも、なんでもいい。なにか声をだしてくれればいくらでもそこから深い話ができる。声にするということは大事なことだ。
やっぱり仏法も、真宗も、なにごと宗教というものは生で人と向き合う中で育まれていくものだと思う。お寺というところはそういうところでありたいと思う。
最近、たくさんの若いお坊さんが真剣にがんばっているのをみてすごく刺激になる。自分自身もがんばんなきゃと思うのと同時に、がんばれ仏教。と思う。
POSTED @ 2009.03.09 |
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