Title: 頭をがつんとたたかれてもすぐに目覚められない時もある。
先日うちの寺で講演会があった。NHKや大学などでも講演をしている有名な仏教学者であり心理学者でもある先生のお話だった。
1時間半にも渡る講演を最後まで飽きることなく聴けたということはやっぱりその人の何かを伝えようという気持ちと聴く側の求めてるモノがしっかりとあってたからだと思う。すべてが響くのではなく、ポイントポイントですっとはいってくる言葉があるのは自分がまだ行き着いていないところから感じた言葉がたくさんあるんだと思った。
とまぁここまではいつものことで毎年ある講演会の話しってことで終わりなんだけど、そのあと近くに泊まるところがあるのでというので、おれがそこまで送っていくことになった。
車の中でその先生は自分の母校である大学を通りがかった時に自分が仏教と出会った原点の話しをしてくれた。
自分が戦時中特攻隊の基地でパイロットをしていたこと、飛行機はなんで飛ぶかとか、編隊を組んで飛ぶことの難しさや特攻に行くための訓練の話や、仲間の話、中でも特攻隊の編成式での一幕の話は心に残ったのでかいつまんで紹介すると。
いよいよ先生のいた基地でも特攻隊が編成されることになって、部隊の人間がみんな集められて、担当の鬼教官がみんなの前で特攻隊の説明をした。みんなはその一言一言をしっかりとかみしめて、いよいよかと真剣なまなざしで話を聞いてると、突然その普段無口で鬼の様な教官が真っ赤な顔をして震えながら「こんなことをして日本が勝てるか!」と涙しながら叫んだという。
その時代に教官クラスの人間がそれを叫ぶことがどれだけのことかそこにいるすべての人が知っていたし、それを聞いた隊員達のほうがびっくりして言葉を失ったという。でもその時に同時に、ああ教官は自分たちに心から死んでほしくないと思ってくれているんだと実感できたという。
そして次の日にはたくさんの仲間が特攻隊として飛び立って行ったという。
先生は本土決戦に備え内地の基地へ配属になりそこで終戦を迎える。
そして戦後日本が復興に向かおうとするまっただ中、材木屋だった家には戻らず仏教の道に進もうと決意したという。戦争という体験、そして自分が生き残っているということが時に自分を苦しめて追いつめてきたという。しかしその体験こそが仏教に出会わせてくれたという。
84歳の人が、しかも有名な仏教学者でもある先生が、こんな若造に真剣に向き合って話しをしてくれた。その姿勢にまず正直はじめは話をあわせておけばいいやっておもっていた自分が恥ずかしくなったし、自分の小ささを感じたし、頭をがつんとたたかれたような気がした。
そんな話しをしながらもうとっくに先生の泊まるところについているのに、下に車をとめて、それから車の中で40分ほどいろんな話をした。マニアックだけどサンスクリット語の原文の話や阿弥陀経の訳の話、一つ一つの話しが自分の中に確実に刻まれたと思う。
中でも阿弥陀経の一節にある箇所を抜き出して
光と影は表裏一体って簡単にいうけど裏とか表とかそういうくくりではなくて、光影ってのはそれで一つの単語であって、たくさんの光があってたくさんの影がある。光がなければ影はなくて影があるのに光がないわけない。
つまりは人間はそういうひとくくりの中で生きていて、それを切り離したり分けて考えようとするとそれが苦しみになる。ありのまま当然の姿をすべてまるごと受け入れることが大切なんじゃないかと思う。影はいつだって裏じゃない。
それがここに書かれているってことで私は本当に救われた。
私はこの影っていう言葉が好きなんだよ。
っていった言葉が妙に心に焼き付いた。
深い。
そんな話をききながらなんでおれにここまで真剣に話をしてくれるのか理解できなかったんだけど、車を降りるときに先生はこういった。
自分の寿命がもう少ないことを最近自分で感じるから、だからいままで私が気づいたこと、そして感じたことの種をすこしでも残しておきたいと思うし、ましてやこれから仏教者として歩んでいく人にこの種を残せることがなによりも嬉しいと言った。
重い言葉だった。
改めて自分にはなにができるんだろうとか、改めて自分はなにをすべきなんだろうとか。とにかく頭をがつんとたたかれてめまいがするような感覚がした。
しかしいつどこでどんな出会いがあるかわかんないもんだ。これがホントにおれの一生になにかを残す言葉になるかもしれないわけだし。そう考えたら生きてるってことはやっぱりものすごいことだと痛感した。
POSTED @ 2006.10.31 |
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