Title: うみのいろ。
月がきれいだからとか、海がきれいだからとか、風がきもちいいからとか、日差しがあたたかいからとか、そんなことを動機付けにできる生き方をしたい。
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あちらこちらにとっちらかったメモ書きと思考の断片をかき集める。
あれやこれやと散らかりすぎると、なにから手をつけていいかわからなくなって、そんで大事なことも後回し。
悪い癖だ。
時間がないとか疲れてるとか、まことしやかに思いつくいいわけに身をゆだねて、たいしてなんにもしてないのに、人一倍つかれたふりをする。
がんばったかどうかなんてのは、自分で線引きすることじゃない。
くそう。
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思うのは、真実というのは本当にリアルだということ。リアルなのが現実で真実だと言うこと。
でもそれだけじゃ生きられないから、誰もが事実を歪曲して自分の脳みそに刻み込んで、時に保身したり、かっこつけたり、もっともらしいことをうそぶいてみたりする。
いままでどうしてこんな簡単なことを知らなかったんだろうと思う気持ちと、そんなこと知らないでいたほうがよかったと思う気持ちと、ごった煮みたいな気持ちは、腹立たしさにもいらだちもなるし、あきらめにも悲しみにも、いとおしさにもなる。
これは一種のゲシュタルト崩壊なのかもしれない。結びついて一つの形をなしていたものが、バラバラにほどけて、あたらしい形を結ぶ。
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どんな論議も議論も、まずゴールがどこであるかという定義付けをしっかりしてから出なければ、そこに意義は生まれない。側面だけをぶつけあい、目的と手段がごちゃごちゃになったような議論はもううんざりだ。ゴールを明確に。せめて許容範囲の中に。
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自分の思考の底ににあるものはいつだって縁と一如だ。
これで大抵のことには同じ土俵まで持って行ける気がするし、最悪煙に巻いたような議論展開をすることも可能だと思う。
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こないだ後頭部を強打した。
立ち上がって、大丈夫大丈夫、といった瞬間に目の前が真っ白になってぐらっと倒れた。
すぐに正気を取り戻したけど、それからずきずき頭が痛くて、ネットで調べたら心配になるようなことがたくさん書いてあったもんで、夜寝るときに、もしかしてこのまま目が覚めなかったら、どうしようかを真剣に考えた。
でも一日を振り返って、なんの変哲もない一日だったけど、なんの変哲もない一日だったからこそまあ今日が最後だとしても悪くない日なのかもしれないと思って。
そういう日こそ死ぬにはもってこいなのかもしれないとか考えてたら、知らぬ間に眠りに落ちて、朝がきた。
目が覚めて。
ああ、生きてるわと思って、生きててよかったと思って、なんか軽く生まれ変わったような気持ちがした。
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ツイートの備忘
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論点がずれていることにすら気づかずにあらぬ方向に話をもっていって争点を煙にまいているということに自分で気づいていない人とそれを意図的にする人がいるが、圧倒的に前者の方がたちが悪くそういう人に限って議論はプロセスであるという認識がない。議論はあくまで次の疑問を生むための過程だと思う
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議論も思想もなんでもそうだけど、それはあくまである側面からの意見であるという自覚と認識がしっかりできたときに初めて、最終的には自然法爾の境地に至るのかもしれない。
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Aがベストだよね~!といってるのに、次の瞬間にAと正反対のことをいっている自分がいるということに気づくということが、自覚的に生きると言うことなんだろうと思う。なにかを無自覚と言い放てる自分はどれだけ自覚的なのか。
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認知心理学の思考のベクトルと仏教の思考のベクトルは間違いなく通ずる。方便とかまさにその一例だと思う。
例えば、「災難に逢う時節には災難に逢うがよく候。死ぬ時節には死ぬがよく候。是はこれ災難をのがるる妙法にて候」なんて言葉を引用して法話した住職さんが踵を返すように、直葬は駄目だ!仏教をなんとかしなければ!とか、いまお寺にできるることはなんなのか!とか熱くなってるのもいい例だと思う。
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効率がいいっていうのは、あくまでなにかの過程において、そこに無駄がないということを指すわけだよね。ってことは効率は過程であってようはそこには目的があるわけだ。そう考えるなら、効率だけにスポットがあたると本末転倒にもなり得る可能性はあるんじゃないのか。
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やっぱり自分の中にある価値基準として確立されているのは、表現されたもの(絵でも器でも思想でもささいな発言でも言動でも)それ自体よりもその先にある人間を見据えられるかどうかであって、何?よりもなぜ?のほうであるというこ。
POSTED @ 2010.11.24 |
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