Title: 蟄虫啓戸
総括
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先週一杯のんだ帰り道。夜道を歩いていて顔に当たる風がこころなしか暖かくなっていて、ああ間違いなく春はそこまできているなと感じた。
またこれその日は何が良かったのか酔い方が絶妙で、きっとどっかでなにかが一つ狂ってもだめだったんじゃないかというくらい、ここ数年にないくらい気持ちのいい絶妙な酔い方だった。
かるく千鳥足で帰る夜道で感じたのは、この時期の夜道のぬるさ。匂い。音。この空気には昔を思い出させる効果があるんじゃなかと思う。たいていこんな夜道で思うのは未来のことではなく過去のこと。過去とはいっても哀愁とか郷愁とかそういうノスタルジック気持ちとも少し違う。懐古というよりは回顧というような、一つ一つの事実を反芻するような感覚。
頭の中にたくさんの思い出が思い浮かぶと同時に、いまここで思い浮かぶということはこれはもう自分の中ではもう思い出になったんだなと気づかされるものもある。
心は自分の意識の思うところよりもすこしはやく前に前にすすんでいるのかもしれないと思った。
肌でなにかを感じること。そういう時間のすごし方をするということは、なにげない日常をすこしだけ豊かにしてくれるんじゃないかと思う。
そういう何気ない時間。合理的ではない時間は。
ものすごく大切だと思う。
やっぱのむのはやめられないななぁ。
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ああしたらきっと悪いことがおきるとか。これを続けていたらきっと駄目だとか。不幸になる方法はいくらでもおもいつくのに。幸せになる方法ってのを考えてみると具体例が思いつかない。
不幸ってものは明確なのに幸せというのは明確じゃないのは、きっと幸せというものじたいが曖昧なもので、しかもいまよりも幸せになっても人間はきっと次を目指すだけで今の幸せには目を向けないからなんだと思う。不幸には敏感で。不幸にはすぐ目を向けるのに。
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子守唄をうたうと子どもは安心して眠りにつくことができる。これは科学的にも証明されているそうで子守唄は子どもをリラックスさせる効果があるという。でもそれはあくまで母親であったり父親であったり、祖父でも祖母でも。その子にとって安心できる人でなければ意味がないそうだ。そんでさらにそれを録音してカセットテープで流しても駄目だし同じ声のトーン。おなじう唄い方で他の人が唄っても駄目だそうだ。
一言で言えばそこには目に見えないなにかの働きがあるからで、その目に見えない働きとは、信頼とか安心とか。目に見えない想いだったり。子を思う親の気持ち、親を思うこの気持ちであったり。それも一方通行じゃなくて、双方がつながってはじめて生まれるものがあるんだと思う。
言葉や気持ちは目には見えないけど確実に存在していて、科学では目に見えたものしか肯定しないけど、そこにある思いや気持ちを通じ合わせること。「想い」いうものが間違いなくそこにはあるんだということなんだと思う。
仏教では「感応道交」という言葉がある。
おもうこと。おもわれること。これがつながるというのは簡単なようで難しい。想うだけでもだめで、想われているという自覚がなくてもだめだし。
そこから生まれるものが、「信心」であったり「回向」というものに結びついてくるんだということなんだろうか。
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小学生の授業で道徳というのがある。なにげに道徳大好きで、新学期に教科書が配られると道徳と国語の教科書だけは数日で読み終えた。
でも最近になって思うに。「道徳は正しい。道徳は社会の模範である」いじめはだめですよ!ずるいこともだめですよ!品行方正にいきましょう。と小学生のときに教えられたはずなのに。
そんな社会はどこにもない。
この資本主義の競争社会に放り出されて品行方正なんていってたらあっという間に取り残されてしまうし、なんか品行方正なんてきくと一種のプロパガンダなんじゃないかとすら感じてしまう。
大人になるというのはそういう矛盾とか逆説をまざまざとみせつけられて、それを自分なりに処理をしていくことなんだと感じる。
ようはその処理の方法が大切なんだよな。
ウィキで道徳と調べると。
普遍的倫理や普遍的道徳といったものは存在しない。このことを忘れると集団的エゴイズムに陥ることになる(しかし、差別や蔑視、権力者の圧力、宗教などの洗脳による状況を引いて考える必要があり、その場合の道徳の差異は思われているほど離れているわけではない)
こんな一文がある。
集団的エゴイズムに陥ることがあるというのはわかる気がするけど、宗教による洗脳を差し引くと書いてあるが。宗教による洗脳とはどこまでを指すんだろうか。
仏壇を叩き壊したりお札をやぶっても、お地蔵様におしっこかけてもなんにもおきないけど。それに引け目を感じるのも一種の洗脳なのかな。宗教心を洗脳と片付けてしまうのは簡単なんだけど、そこが微妙に定義しづらいところではあるだよな。
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うまいもの。おいしいものというのは大切ですよ。
前に酢豚の記事を書いたけど、うまいものには感覚を一変させる力もあるし、いろんな感情をゆさぶる効果があると思う。
人生を語るのに必要なのはうまいもんだ。
といいきってしまっても過言ではないくらい。
うまいもの食って話したら人生談義にも花が咲くってもんだ。
うまい酒があればこれにもう越したことはない。
うまいもんにうまい酒、そんで気の合う仲間。そんな時間はまさにプライスレスですよ。
まぁ若干最近「うまいもの」の定義が偏りがちでレパートーリーに幅がないのが悩みですが。
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とにかく話す。なんでもいいから発してみる。
そしたらいろんなことが回りだす。間違ってれば正してもらえる。声を出さないとなにも回りださないし動き出さない。発することがどれだけ大切か。
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さて年度末でばたばたばたばたしてるし、お彼岸に向けて原稿もあげなきゃいけないし、ああ忙しい忙しい。といって毎年毎年。忙しいとは心を亡くすと書くな。よし心だけはなくさないようにしようという反省を何十年も繰り返している。時間がない時間がないといっているときに、本当にないのは時間ではなく心のゆとりなんだなぁと痛感します。そしてどうもこの時期になるとおれがいつもいうのは、ああ無駄話がしたいなぁ。世間話がしたいなぁだそうです。
腰にもいい感じに疲労が蓄積してきているようで、まだぎりぎりのところでもっていますがそろそろバンテリンの出番でしょうか。
そんな体に反比例するように暖かくなってきて起きる時間もはやくなってきたし、テンションも徐々にあがりはじめて、いろんなものがむくむくと起きだしてきました。はやく桜さかないかな。
おもしろいくらい毎年同じ時期に同じことを感じ、同じことをいってる自分がいることに気づけるということはこうやって文章を書いていてよかったことの一つかもしれない。
あと気候によって変わるのは気持ちと装いだけでなく。聴く音楽もだな。ということに先ほどipodから曲を選ぼうと思って気づきました。
さて。
3月は息とめたまま駆け抜けます。
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POSTED @ 2008.03.03 |
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