Title: 気づけばいつでも。
ここ数日は桜を満喫。これでもかというくらいに今年は桜三昧。
昼間からいっぱい飲んで、ごろんと寝転んで桜の木をみてたら、幾重にも折り重なる桜の花に、宇宙みたいと思った。
ほんとうにたくさん笑った次の日は体の調子がいいなと思う。
やっぱ。好きなものを片手に、好きなことを好きな人達としているときに湧いてくるものは、なににも代えがたい。
そんで好きなものがこんなに手に届く範囲にたくさんあることもありがたい。
オリジナリティというのは、きっと他の人からみたら無駄みたいなものの中に詰まっていて、そんな無駄なことに使ってきた時間がいまの自分や、好きな人たちを形作っていて、無駄を省いたら、自分のいいところや、好きな人の好きなところを省くようなもんじゃないかと思う。
もちろん本当に無駄なものというのもあると思うし、必ずしも無駄がいいわけじゃない。
ただ、それが無駄であるかどうかということは、思っている以上に、見えている以上に、深い部分につながっていて、本当に相手をみなければわからないってこと。
誰かに関わるということはそういうもんをひっくるめて関わるということなんだろうと思う。
巷では、この新しい節目にあわせるかのように、さあいこうぜムードがぷんぷんしてて、戦意高揚させるような曲ばかりが流れまくってるけど。
そういう音にさらされてヒロポン状態でこの1カ月をやりすごすから5月になってがくっと糸が切れちゃうんだぜとかひねくれてる自分。
自分てばほんとにあまのじゃくだなと思う。
最近エイプリールフールにつく嘘が雑だといわれて。
たしかに。
ほんとなんかやっつけみたいな嘘をつくことで、ただ行事の形式を貫こうとする姿勢をすこし反省しつつも、それでも辞めずに続けることで、なにか自分の中でエイプリールフールは次の次元へ変化をするのかもしれないのです。
何事もコツコツと。
ということで正論ぽく自分を擁護しておくことにします。
やっぱ、使わないものは衰えるだけで、使ってるところは鍛えられるんだなと、なんか最近、いろんな人やいろんなことに照らし合わせてそう思う。
だからそうありたいこうありたいとおもう姿があるなら、自然とそこを鍛えられるような日常に身を置いて、その中で習慣にしてしまうしかなくて、その中にいさえすれば、ただ淡々に日常をこなすだけで、自分の磨きたいものが磨かれていくような場所に身をおくべきなんだろうと思う。
そんでそんな場所を見つけるなり、つくるなりして、そこに身をおけるということが、才能でもあり、できるやつとできないやつとの差なのかもしれないと思う。
口だけで頭だけでわかっても、そこに身を置けなければ、身を置いてるやつには絶対に追いつかない。身を置くまでが大事なんだろうと思う。まごまごもごもごしてて足を踏み出さなきゃなにもしないのとたいしてかわんない。
突然なにかができるようになることもなければ、ずっと使わないもののレベルを維持できることもなくて、使ったら使ったところが、使っただけ鍛えられるんだけど、使わなければまたそれは曲線を描いて衰えていくだけ。
それが事実なのに、鍛える段階で、一緒にくっついてきた自負とかプライドとか、見栄とかそういうものが、過去の栄光を語るだけの大人にさせて、腕を組んで足を動かさないようにさせるんだ。
自分はそうはなるまい。そうなるまいと言い聞かせながらも、楽な方へ楽な方へと流れがちな自分をいましめてたまには足元を確認。
桜は。
やっぱり散り際がいい。
散り際というか散りざまがいいとかかんとかいいながらも、でもほんとうは桜はただ散っているだけで、ホントはそこには、際もざまもなくて、ただ淡々と終わっていくだけなのに、その姿になにかを照らし合わせたがるのが人間の悪い癖であり、でもそれが人間の愛すべき側面なんだな、とかまたもちゃもちゃしたことを考えそうになるけど。
でもまあいいか。
きれいだからそれだけでいいやと、深追いするのをやめた。
気温の上昇に比例して思考は浅く浅く。
POSTED @ 2010.04.04 |
Comment (0) |
Trackback (0)