• PHOTO最終更新日2010年10月11日



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Title: 流れ星。
2009.10.29


こないだ帰り道で流れ星をみた。

あっ!とか、言う間もなく、無論ぐぅの音もでるまえに一瞬で消え去った流れ星。きっとなんとか流星群に遅刻して、きまり悪そうに頭でもかきながら、愛嬌たっぷりの流れ星だったんだろうに。

この話を人に話すと、願い事した?とかいわれるんだけど。

あの一瞬に願い事ができる人なんているんだろうか。どう考えても願いをひっぱり出してきて、口にするという、脳みその処理速度ははるかに超えるスピードで消えてしまうだろう流れ星。早口なら・・・というレベルで片付けられる速さじゃないでしょあれは。

そんで思ったんだけど。

流れ星に願い事をすると叶うというのは、きっとどこかで解釈が間違ってしまったんじゃないだろうか。きっと願い事をしているときに、流れ星が流れたら叶うというのの間違いじゃないかと思う。

流れ星ありきの願いじゃなくて。

願いありきの流れ星でしょう。

たまにしか流れない流れ星が流れる瞬間まで何かを願い続けることができたら、それはきっと叶うってことだろうきっと。

と自己解釈してみる。

でもこんなこというと、また理屈っぽい。夢がないロマンチックじゃない。と言われそうだから。

今後女の子になにか願いごとしたの?と言われる機会があったら、君に会えるように願ったんだけど。叶ったみたい。とでもいってみようか・・・

ホットドッグ・プレスにもポパイにもかいてなかったけどね・・・

みんなぱくらないでね。

まあそもそもそんな機会があるのかどうかはさておきですよ。

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Title: さむいひのおもいで。
2009.10.26


夜中に思い立って海へ行ったことがある。

ナビのついてない車に乗ってた頃の話。

天気によって色の変わるタワーの近くに住んでいた友達をひろって、深夜の高速をはしらせて鎌倉へむかった。ナビなんてないから、初めて走る道にどきどきしながらもなんとか海がみえてきてほっとしたのを覚えてる。

夜中の海には誰もいなくて、ライトを消したら真っ暗で、なんにもみえなくて、目が慣れるまではどっちがどっちかもわかんないくらい暗くて、ああいま海に落ちたら、上とか下とかわかんなくなりそうと思った。

それから真っ暗な砂浜をあるいて、桟橋をみつけて、桟橋の先まであるいていったら、そのあたりで雪が降ってきた。

急に振ってきた雪にわくわくしながら、雪が海に落ちるのを眺めてたら、ほんの数分で海から霧が立ち上ってきて、あたりが真っ白になった。はじめは海が沸騰したのかとおもうような煙のでかただったのに、あっというまにほんとにスモークをたいたみたいに、桟橋なんか隠れちゃうくらい足元が全部真っ白になった。

桟橋と海の境もみえなくなって、どこから海でどこから砂浜かもわからないくらいに。

うまれてはじめてみる光景だった。

右も左も分かんないくらいの真っ暗闇で、地面はくるぶしくらいまで真っ白の霧。

頭の片隅で、やばいなぁなんか方向感覚おかしくなりそう、このまま海に落ちたら死ぬだろうなとか、突然海からざばって誰か上がってきたら怖いなぁとか妄想をして1人でわくわくどきどきしてた。

いまでもその光景を思い出せる。

その日の帰り道をどこをどう帰ってきたのかなんて覚えてないけど、その光景だけは、いまでの脳裏にやきついてる。

雪なんて降るなんて思ってなかったから体が芯から冷えて、やっとのことで車に戻った時には、震えるくらい寒くて唇が真っ青だったのも覚えてる。

あれが一体何年前で、あの場所がどこだったのかすらも曖昧なのに、今日みたいなものすごく寒い日にはたまにふと思い出すんだ、その記憶を。

もし願わくばもう一度あの夢みたいな光景をみてみたい。

たぶんいろんな気象条件が偶然に重なって起きたんだろうけど、そんな奇跡みたいな光景をもう一度みたいなぁ。

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Title: un meter
2009.10.26

最近朝起きて、六条麦茶をレンジでチンして飲むのが日課です。
温めた麦茶おいしいなぁ。夏とは違う麦茶の旨さを感じる今日この頃。

本格的に寒くなってきて、いよいよ鍋の季節。
最近日本酒がうまいもんで、今年の冬はどんなのんだくれになれるのか楽しみです。

そして忘年会の予約はもうそろそろ入れた方がいいのだろうか・・・

#

パソコンの御機嫌をうかがい知るのに、一番わかりやすのが、こうやって文字を打ってるときに、変換が追いつくかどうかということだ。調子のいい時は、すらすらと変換されて、なんのストレスも感じないまま、文章を打てるものの、たまに、うちのかわいいバイオが知恵熱だして、うなされてると、スペースキーを押すのと、変換までに微妙なタイムラグが出てくる。

さすがに毎日毎日パソコンに向かってると、ああ少し遅れてるなとか、完全に遅れてるなとか、なんか子どもの体調をみているかのように、パソコンの状態が手に取るように分かる。そんな微妙なタイムラグや、パソコンの温度に気を配りながら作業するのも悪くないなと最近では思うようになった。悪い時だけじゃなくて、機嫌のいい時はびっくりするくらいにがんばってるわけだしね。

機械だから、そんなの関係ないでしょ。機械なんだから、遅れたらだめでしょ。調子悪いなら修理か買え変えでしょう。機械なんだし、壊れたら捨てればいいじゃん。

その通りだし、自分もそう思うこともあるんだ。

でもなんとなく、パソコンなんか使い捨てなんだから、壊れたら捨てろよ。新しいの買えばいいじゃん。機械なんだから命もないし、性能悪いのは入れ替えだよ。といっているお坊さんがいて、なんとなく喉の奥に小骨が刺さったようなイガイガした感じが残った。

対象が何であれ、それは生きる姿勢の問題だと思う。感謝とか、心とか、そういうものって、命があるとかないとか、機械だとか機械じゃないとか、対象の問題ではなく、自分の心の問題だし、それを生み出だす心は、なにに対してだって持ってしかりなんだろうと思う。

#

真宗の答えが、教学の本や、経典の中にあるとも限らず、保育の答えが、保育書や教育書の中にあるとも限らない。

最近読んだ本に、木村秋則さんという人の「奇跡のリンゴ」という本がある。それを読んで、自分のしたい保育、自分が幼稚園の中でやりたいことはこういうことなんだと思った。

1つの本を読んで、どの視点になって読むか、主人公に感情移入する時もあるし、脇役に心奪われることもあり、その背景に想うこともあるかもしれない。その視点の置き方で、そこから得るものもかわるわけで、これは本だけじゃない、1つの事象にどれだけの視点をもって向き合えるか。その視点の数が、なにかの差になってくるだろうと思う。それがなにかはわかんないけど。かといって、視点をころころ変えるのは難しく、視点なんてのは、その時の心境や、状況で自然にはぐくまれるもので、意識的にそれができるようになるには、時間もかかるし、経験も必要になってくる。ようはそれを年の功と呼ぶんだろうに。

その本の中にあった例えがものすごくびびっときた。

たとえば人を殺すのに、爆弾と刀の違いみたいなもんなんですよ。だれでもボタンを押せば簡単に何百人も殺せる爆弾と、自分自身を鍛錬して、鍛えて、人間をよく知らなければ斬れない刀みたいなもんです。

これ何の例えかって、害虫を殺すための農薬の話。

木村さんは爆弾をすてて刀をとった。それが合理性を排除した時代に逆行していることだとしても、そこから得られるものの大きさは測れないんだろうなぁ。

#

ライカのC-lux3いい!

思った以上によく撮れる。

カメラには自分のなんでもない日常がこんなに劇的に見えてるのかと感心する。

いままで見ないような角度になってみたり、しゃがみこんでみたり。

おもったのは、いい写真が撮れるにこしたことはないけど、自分はきっと撮るという行為自体がけっこうすきなんだろうなと思った。


#

これを読んでるお坊さんみんなにききたい。

「縁なき衆生は度し難し」という言葉があるけど。これたしかになぁと。その意味を最近味わえるようにはなったものの。

じゃあ、縁ある衆生は度せるのかというわけで。

縁ある衆生は、自分のつれあいや子ども、彼氏や彼女や、親兄弟や友人や門徒や檀家の人、そんな身近な縁ある衆生なら自分で度せますか。

もっといえば自分に一番縁あるわが身を度せてますかね。

とかおもっちゃったわけです。元も子もないこといってるようだし、自虐的かもしれないけど、でも家族や友人が苦しんでるのに、仏法はね・・・とか。うちの宗派ではね・・・とかいわれてもなぁ。とか思っちゃうわけです。まず自分におとせよ仏恩を。とおもっちゃうわけです。ましてや、それもできてないのに社会活動うんぬんとか、へそが茶をわかすぜ。とか思っちゃうわけです。Jibun wo tanani ageruna とか面と向かっていえないけど、うつむきがちにいつもそう心におもうわけです。だれにもなににも。じぶんにも。

なむ。

#

うけうりだけど、

阿弥陀って。

サンスクリット語でみると。

アは、un の語源で否定を指して、

ミタはmeter の語源で長さを表す。

un meter

測れないものとかいう感じになるんだろう。

やっぱ言語で経典読むと、改めてだけどいろんな発見があるもんなんだね。

自分の中では推し量れないものというのが阿弥陀ということで、でもこれは神様ではなくて、いま自分の周りにあるものすべて、いろんな縁とか、わかりやすくいえば運命みたいなものまで含めて、世界は、その推し量れないものに満たされてますよ。ってことに気づくことが大事だと、、仏教ではいうわけです。

なるほどね・・・

#

ポニョはいう。

ポニョ!ソースケ大好き!

こんなふうに声を大にして大好きといえるもの。

えっと・・・

#

宝くじなんてあたらないよ。という。

買ってるの?ときくと。

買ってないけどという。

買わなきゃ当たらないだろうに。

ほとんどはこういうこと。

#

人が鮮やかだと思うものは、往々にしてリアリティのないものなんだろうと思う。

そこにリアリティがあると、脳みそは浅いところでそれをとらえるから本質的な鮮やかさを見出せなくなっちゃうんだろうと思う。

人間の脳みそはよくできてる、よくできてるからこそ、疑うのが難しい。でも脳みそのはじきだしたものは、あくまで処理された情報の1つで、そのものそれ自体じゃないないわけだ。

#

ともだちんこ。

#

偉人伝をよんで、すごいなと思うものにはもうなれないと思う。すごいのは構造の違いもあるし、脳みその違いもある。その違いを超えるのは無理だと思う。

大事なのは、自分の脳みそのどの部分が、その偉人とかぶってるかどうかで、感じ方が一緒かどうかで、自分にはなにができるかを考えることだろうと思う。

#

日々 丁寧に。

#

男なら泣くなといわれて育つことが多いけど。

泣きたいときに泣ける人は強いなぁと思う。火葬場に言って、自分のお母さんが亡くなってわんわんないてるおじさんとかみると思う。

泣いたらかっこ悪いとか。人からどう見られるだろうかとか、気にせずに、人目をはばからずに泣けることの強さというか、もしかしたら、泣かないことよりも泣けることの方が、よっぽど勇気がいるし、力のいることで、よっぽどそっちの方が強いんじゃないかと思った。

#

勝手に麺DAYという日を作ってみようと思って。

朝は立ち食い蕎麦屋でうどんをたべた。

そんでお昼はラーメンをたべて。

夜にはパスタをたべた。

よくそんなに麺ばっかり・・・といわれるけれど。

きっとイタリア人に言わせれば、

よくもそんなに白いご飯ばっかり・・・なんだろう。

でも1日麺だけたべてみて思ったけど。

麺だけなら結構いけるかもしれない。
パンだけはきっと無理だけど。

ボンジョルノ

ジローラモみたいな大人になりたい。
いつかイタリアに本場のパスタをたべにいこう。

#

オーロラみてみたいから見に行こう。
と言えるようになるまであと5年・・・くらいかなぁ。

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Title: びびびっと。
2009.10.22


a040111.jpg


表現するのは結構好きなのに、手先が器用なわけでもなく、あふれ出んばかりの想像力があるわけでもなく、研ぎ澄まされた感性を持ち合わせているわけでもなく、どれも中途半端なことしかできない自分は、ぬきんでた表現力のある人にびびびっと心を奪われるわけです。

そしていろんな才能があるけど、自分がいっちばんほしいとおもう才能は、やっぱり絵を描けるというものだろう。

絵を描ける。

この才能はすごいよなぁ。きっとそういうことできる人の脳みそと、自分の脳みその構造は根本的に違うんだろうなと思う。努力とかいう言葉では決して埋まらないその構造の差を、才能というんだろう。

凡人がどんなに努力をして上を目指しても、ひょいひょいとそれを軽々と越えていく人がいる。すごいなぁと思うんだけど。

でもきっと、その人の不得意なことを自分がなにか得意としてるかもしれないし、そういうものがきっと自分の中にもあるんだと思うんだ。

思うしかないぜ。じゃないとあまりにも不公平だぜ。

ちなみにこの絵は、大友昇平の作品。あの大友克洋さんの息子だそうです。

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Title: きゃべ。
2009.10.22


うっしっし。買っちゃった。

ずっと悩んでどっちにしようか悩んでたんですよ。

D-lux4かC-lux3か。

一眼はnikonがあるし、持ち運びを考えたら小さい方がいいもんな。ヨドバシにいってはショーウィンドウに張り付いて、いいなぁ~かっこいいなぁとやっていたんですが、いろいろ悩んでC-lux3にしました。

Leicaのこの赤いバッヂはやっぱりぐっとくる。

ほくほくしながら、無駄にあちこち試し撮り。性能もなかなかいいですよ。よく撮れます。発色もなかなかいいし、重宝しそうです。

大事に使おう。はつライカだもんね。

#

そんで朝からいろんなものをバシバシとりながら思ったんだけど。

完全なものっていうのは、不完全なものがあつまってできたものを言うんだろうと思った。単体で完全なものなんてもしかしたら1つもないのかもしれない。

なにもかも。

初めから完璧なものなんて探していてもみつからないんだ。

むしろみつけたことがある人がいたらそれがなにか教えてほしい。

完璧なものをつくるためには、たくさんの不完全が必要で、穴のあいた靴だって、錆びた空き缶だってなにかを完璧に仕立て上げるための1つの要素なのかもしれない。

写真を撮ろうと思って、普段は目もくれないようなところに目をくれて、普段はしゃがみこまないようなところに、しゃがみ込んでみると、自分の抱えてた問題の答えがぽろりと落ちてたりすることもあるもんだ。

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Title: だんぼーる。
2009.10.20

仏教は必要か必要じゃないか。
もっといえば宗教は必要か必要じゃないか。

なんて議論をしている人がいる。

でも思うに、それは自分の胸に聞くことじゃないかと思う。自分が必要ないと思えば、それは必要ない。誰かにとって必要かどうかは議論してもしかたないと思う。

宗教は誰かのためにあるのではなく、それぞれが自分のためにあるものだと思う。そもそも、なにかソフトウェアみたいなものじゃないし。

ただ、自分は布教や教化をしていく立場なんで、そういうこというと怒られるけど、真宗いいよ~みんなもレッツ真宗!とかいうのは苦手だし、そんなつもりもさらさらない。

じゃあ自分にできることはなにかといえば、自分が真宗の中に味わいをみつけて、楽しみをみつけて、感動をみつけて、救いをみつけることで、その1つ1つに満足して生きていくことだと思う。安穏としていることだと思う。自分のお腹に味わっておとしながら。

そんでその姿をさらすことが、自分のできることだと思う。
迷ってることも苦しんでることも、ぜんぶさらけ出すことだと思う。

そんで理想形は、のうのうとしやがってとか、悩みなさそうだよねとか、いいよね苦労してなくてとか、いつもへらへらしてるねとか、ほんとなんも考えてないよねとか言われ続けることなんだろうと思う。

親鸞一人がためなりけり。

唯円の心にのこったこの言葉の意味は、そのまんま自分の心にのこった言葉でもあることに、妙にうれしかったりする。いやというほど読み込んだつもりの歎異抄なのに、読んでも読んでも、わかってなかったなと思うことばかりだ。

#

脳みそと意識は、向き合ったら向き合っただけ答えてくれるなと思う。

なにかにとらわれてるとき、もやもやしてる時、その状況をしっかりと受け止めて、それをどうしたら払しょくできるのか考える、意識をいろんなところへ動かしてみる、脳みその力をふっと抜くみたいに。そんなことを繰り返してると、ある時カチッと鍵が開くみたいに、ふわっと力が抜けるときがある。面白いように脳みそと意識は答えてくれるなと思う。

目に見えるものすべて、それは自分を変えてくれないし、自分もそれを変えることはできないし、自分を根っこで支えてて、変えられるのは自分だけなんだと思う。


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Title: 付箋
2009.10.20


理屈と理論だけでなんとかなるのは20代までだなと思う。

ちょこっと本でも読んで、知識でもつけて、いっぱしの口をたたけるようになっただけでは、通用しなくなるのが30代なんだろうと思う。どんなにえらそうな肩書があって、どんなにえらそうに見えても、通用する人とそうじゃない人に差が開きはじめるのは、ちょうど30代からなんだろうと思う。口だけのやつが、寡黙な努力家に抜かれていく時期なんだろうと思う。

こっからさきは、経験と実践と、リアルに、こいつはなにができるのか。それはその人でなければできないことなのか。そういうことを判断されるし、できなければ、だれもなんにも言ってくれずにほっとかれて、差が開いていくだけなんだろうと思う。

学生のころや、20代前半なら、まだまだなんだかんだと、声をかけてくれる人がいて、若いからで許されるけど、だんだんと、期待にこたえられなければ、もう声がかからないという年になったなと思う。

きびしいなぁ。と思いつつも、そういう次のステップにわくわくするし、むしろそういうところで自分を試せることに感謝したい。

なんでこんなことをいうかって、最近自分の周りのみなさんが、いつのまにか、話すことや書くことがぐぐぐっとレベルアップしてたり、いままで、なんてことないと思ってたやつに、スカッと足元すくわれたり、妙に納得させられたり、いままで口だけでなんとかやり過ごしてきた自分に、悲しくもなり、深く反省しつつ、それに見合う能力をみにつけなきゃやばいなこりゃ・・・と思ったわけですよ。それに口だけで渡り歩いてきた自分が、じゃお願いします!と渡されるものもだんだん重くなってきて、そろそろ底上げしていかないと追いつかないぜと思うわけです。自分へ警鐘です。

ちょっとなりふり構ってる場合でもないので、とりいそぎ目の前の課題を必死に片付けていかなきゃ。

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Title: Q
2009.10.16

朝起きて目覚ましをたたく。

そこからはじまる自分の日常に。数年前まで、たんたんと過ぎていく毎日なんてくそくらえだぜ。毎日毎日なんでこんなこと繰り返さなきゃいけなんだ。

夕刊フジを読みながら老いぼれてくのなんかごめんだ。

刺激だ刺激がほしいぜ。

な~んてこといってたけど。

でもそれって、毎日の中にある、かすかな移ろいや、ちいさく揺らいでいるものに、気づけるだけの感性が自分の中に育ってなかったからなんだろうと思った。

今それが育ったのかどうかはわかんないけど、小さなことにガツンとくる頻度は増えた気がする。

感覚が鈍ければ、激しく刺激がないと、感じることができないけど、感覚が鋭敏になれば、目の前に風が吹くことも、頭をトンカチで殴られるくらいに感じることもできるし、そもそも、なんにも感じられない今日なんて日はないだろうと思う。

刺激を強くしていくことよりも、少ない刺激でも、それを受け止められる自分を創っていくことの方が、ずっとコンパクトでシンプルで、こんがらがったりしないんだろうと思う。

昨日園で、恒例行事の、いも掘りにいってきて、この行事もう何年もしてる行事だし、今日園庭で、芋がどろだらけのまま太陽に干されているのも、いつもの光景なんだけど、たくさん干された芋の前で大はしゃぎしてる子どもたちと、泥だらけのさつまいものコントラストに、なんかぐっときて、ああこういうのを今現在説法というんだろうなと思った。

#

自分にとってのがんばれは。

朝目覚ましをたたくことでもあるし、顔を洗うことでもあって、コンビニでポカリを買うことでもあるし、高速道路のおじちゃんと挨拶を交わすことだし、子どもと遊ぶことでもあるし、誰かを心配することでもあるし、誰かの喜ぶ顔をみたいと思うことでもあるし、今日雨が降らなかったことでもあるし、太陽に干された芋が甘くなることでもある。そう思えばいまの自分の日常にがんばれじゃないことない。

#

でも誰かを喜ばせたいと思うことは、喜ばせることで満たされるのは、自分だからなんだろうと思う。自分が満たされることは、同時に誰かを満たしていることでもあるわけで、自分を満たさずに誰かを満たすなんてことは傲慢だなと思う。

自分の心をひらいてないのに、さぁ君の心をひらいてごらん。なんていうみたいなもんだ。

#

昔、受験が終わるまでは恋愛は・・・なんていうこと言われたとか言われないとか。

いま思えば、恋愛は受験にとってマイナスだったんだろうか。

そりゃあんた体のいい断り方ですよ。というのはさておきですよ。

#

いままでたくさん嘘をついてきて。

自分の悪智慧CPUが、そもそも真実なんてものがなんなのかわかんない以上、どこからが嘘なのかわかんないはずだ。真実でないことを嘘というなら、世の中にあるものは基本的に嘘だろうに。それに嘘と真実がどちらかが善でどちらかが悪なんてことはなくて、時に人を傷つける真実もあって、あたたかい嘘もあるわけで。な~んて屁理屈を言わせたとしても。そんなことは無視して。

何年もたって今になって、ふとあんな嘘つかなきゃよかったなとか、なんであのときあんなこと言ったんだろうなとか思って。後悔とかして、もうそういうのやめようと思ったと同時に、その時の自分がそんな嘘をついてまで守りたかったものはなんだっただろう、嘘をついてまで失いたくないものはなんだったんだろうと思い返してみると、そこには大抵、自分が納得しただけの都合のいい理由があったりする。きっと嘘は自分の弱さや甘さを覆い隠して、麻痺させるために服用する悪い薬みたいなもんなのかもしれない。それに頼ると、それがないと駄目になっちゃうほどにたちの悪い。小さな頭痛でもすぐに頭痛薬をのむ人もいるし、痛くなる前に飲む人もいるし、なかなか飲まない人もいるみたいなもんだし、でも時にすぐに頭痛薬をのむことで、物事が好転することもあるわけで、一概にはいえないけど、きっと用法容量をまもって正しく服用しましょうってことなんだろう。overdoseしないように。

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Title: ニホンゴ。
2009.10.13


恋を語るときに一番適した言語は日本語かもしれないと思った瞬間に、日本語のポテンシャルを最大限に引き出して、恋を語れるほどに感情と言語のリンクもできてなければ、ボキャブラリーも少ない自分のふがいなさがくやまれる。

どうしてこうも日本語は繊細で、日常のかすかな移ろいや、空気にまでこんなにも、くっきりと縁取りができる表現にあふれているんだろうか。感覚を言葉に置き換える時に、そこにある摩擦が一番少なくて済むのが日本語なんじゃないかとすら思う。

深いなぁにほんご。

ニホンゴ。

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Title: 忽せに。
2009.10.13

きれいなものはきれいで、すきなものはすきで、旨いものは旨い。

そう感じたときに、なんでそうなのか、その感情に理由を探して、理屈をこねくり回す。そんでこねくり回したあげくに、理由に意味はなく、その感情に言葉はないと思う。

宝物をさがしたあげくに、いきつくところも同じところだと思う。

揺蕩うままに、忽せに。

大事なのは揺れ動いている自分に気づいているかどうかだと思う。点が次から次へと線になりその線がまた点を落としていく。線はつなぐんじゃない、つながるんだ。つなごうとしているときには、ずっと前につながってた線を見落としてるんだろう。

それをみてるだけ。

そうしてつきつめていけばなんにもなくなる。

とらわれとかこだわりとか想いとか生き方とか願いとか、ああしてほしいとかこうしてほしいとか、あああるべきとかこうあるべきとか。

正解なんてものはどこにもない。

その感覚が宝物なのかもしれない。

そんでもって、でもなんにもないと思うところにはまだなにかあるんだとか、理屈をこねるこの脳みそのどうしょうもなさこそが、真っ先に救われる証拠なんだろう。

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Title: 白菊
2009.10.09


不謹慎とは思いつつもいつものように、台風にどきどきしてしまう自分。

台風一過の空は台風がこなければ見れないわけで、この空の心地よさはなにものにも代えがたいなとか思いつつも、被害にあった人からすれば、忌々しい青空なのかもしれない。自分にとっての最高の青空も誰かに取ったら忌々しい青空であるという事実。そんな事実で世界は成り立ってるんだろうな。

人と付き合う上で、その人がなにをしてきたかとか、なにをしているかとか、どんな役職についているとか、どんな学校をでているかというのは、そんなに大事じゃないし、符号みたいなもんであんまり意味はない。

そういう符号は自分が人生を生きていくのには時に必要で、大切なものだけど、人と人が友達になろうと思ったときには、なんの意味もない。あたりまえのことだけど、最近その重要性をほんとに感じる。

自分が肩の力を抜いても結んでおける人間関係というのが、本当の意味での人のつながりなんだろうとおもうし、頑張って、いいところだけをみせておかなければ結んでおけなかったり、話を合わせていなければいけなかったり、うまいことほめなきゃいけなかったり、なにか共通のコミュニティがあるからでしか、結んでおけない人間関係は、きっと本質的な部分で自分にはなにも与えてくれないと思う。

なんにもなくても誰かと関係を築ける自分でありたいし、そういう人になりたいと思う。

なんでこんなことを感じたかといえば、最近うちの幼稚園に転園してきた子どもをみていて、彼は地盤も肩書もなんにもないところで、彼なり一生懸命に人間関係を築こうとしていて、たぶん勇気もたくさんいるだろうし、さみしい思いもしただろうに、それに負けないで友達の輪にはいっていって、気づけば数日で、もう仲良しができて、園庭で元気に遊んでる。

自分の力だけで、ウマがあう仲間をみつけて、自分の居場所を確保して、何食わぬ顔で遊んでる、そんでさっそく喧嘩とかしちゃってて、そんな一部始終になんかここ数日ぐっときたわけです。

そんな姿に自分を照らし合わせてみるに、ここ数カ月いろんな人に会ったけど、人との関係を自分以外のものに頼って、維持してることって結構多いんだなと気づかされ、そこに寄りかかってばかりいると、自分自身で人間関係を作っていくことをわすれちゃうんじゃないかとか感じたわけです。そしてそんな自分を省みて、これじゃだめだなと思ったわけです。

大人になると、そうやって自分で人間関係を築くことをさぼりがちだなと。
でも大事なのはそうやって築いた人間関係で、そういう人間関係を築ける力は、きっとなにをしてても、どこにいても通用する人間力なんだろうなと。

うちの幼稚園からは、そういう力を持った子どもがたくさん育ってほしいなとおもったわけです。

童心を育むとは、童心に学ぶことではなかろうか。

死んだじいちゃんが残した言葉を久々に思いだした。


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Title: 玉露
2009.10.07

サイトに「ちょっと聞いてみようボタン」というものをつけてみて、あれからしばらく経ってみて、思いのほか利用者してくれるかたがいて、いろんな質問を投げかけていただけた。

日記のタイトルはどうやってつけているんですか?とか、昔飼っていたカブトムシの幼虫を溺死させてしまいました、カブトムシは恨んでいるでしょうか?とか、我慢っていうのは仏教ではどう考えてるんですか?とか、お寺でコーヒーのみながら法話ききたいです。とか、摂取不捨ってなんですか?などなど。ああ面白いなぁ~そこに疑問がわくんだとか、ああそこを聞いてほしかった!とかうれしくなったり。

それぞれの質問を、自分なりに考えて、人の質問に答えながら自分に答えを出せたような気がする。たくさんのことに気づかされたし、やっぱり素朴な質問こそ確信を得ているなと思った。

疑問力というのは大事だと思う。

疑問をもつというのは、好奇心でもあり、探究心でもあり、向上心でもある。疑問をもつことと、持論をもつこと、というのは、ここ数年で前へ進むための一番大切なものだと学んだ気がする。

疑問は答えを見つけるためだけのものではなくて、次の疑問を見つけるためのものでもあるし、次の疑問は、新しい答えを見つけるためのものでもあるわけで、数珠つなぎに世界が広がるときに、すべては1つの小さな疑問から始まる。

知識というのは、わかることが増えるのではなくて、わからないことを増やしていくようなものだと、なにかの本で読んだ。ああなるほど、ほんとにそうだなと、最近になってやっとすこしその感覚がつかめた気がする。

わかんないことだらけの世界で生きていることと、わからないことだらけの日常の中にいるということは、うれしくて楽しいことだと思う。

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Title: わかれをしるおそれから。
2009.10.05

自分の一番大切なものは。

自分の一番の弱いところを補うためのものなんだろう。

自分が声を大にして好きだと言えるものは。

きっと自分が声を大にして言えないなにかを守るためのものなんだろう

そうだとすら気づかないようにうまいことカモフラージュされて、大義名分にもなり、問題のすり替えにもなりがちだけど、大切なものはすべて自分の何かを守るための手段の1つなんだろうと思う。

物事の事実を、事実のまま受け止めることのこわさ。

もともこもない。それをいっちゃあおしまいでしょう。

とかいわれても、奥底にある、やわくて握られたくない部分にあるものがなんなのか、突き詰めたいわけです。つかめそうになるとするするとこぼして、3歩進んで2歩下がるなんてことをもう何年繰り返してるんだろうか。でもそこから目をそむけてたら、あるラインから先に進めない気がしいてしょうがないわけです。まあそれすらもバカの壁なんだろけど。

自分の頭と心の中は、四方八方バカの壁だらけだ。

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Title: ばばんばばんばんばん。
2009.10.05

なんやらかんやらいろんなもんが一段落して。

ほっと一息。

そんで、ちょいと一杯ひっかけてほろ酔いで、帰るまえにラーメンだぜ、なんて何の迷いもなくラーメン屋に向かいながら、千鳥足でふらふらしながら、気づいたら口ずさんでいたのが、「北酒場」だったときに、ああいま自分ってば上機嫌とか思った。

しかもそもそもだ。「男を~酔わせる酒がある~」のところしかしらんもんで、なんどもそのくだりをリピートしてる自分に、だいぶ痛いなと思いながらもへらへらしながらかえって、たっぷり張ってあるお風呂にざぶんと飛び込んで、ここでもうっかり口ずさんだのが、「ばばんばばんばんばん~いい湯だな~ここは北国~登別の湯~」なんて鼻歌交じりに歌ってる自分にどんだけ北国にあこがれてるんだと思ったもんで。

お風呂からあがって、さっそく、「北酒場」と「いい湯」だなをいきつけのituneshopで購入したら、衝撃的な事実が。

北酒場には。「男を~酔わせる酒がある~」なんてくだりないし、挙句の果てに、いい湯だなには、登別なんて一言もでてこないし。

どんな覚え間違えだよ。もうかれこれ浮かれるたびに、数十年も歌い続けてきてるのに・・・とんだ勘違い野郎だったぜ。勝手に作詞しちゃってたわ。

これ地味にショックだな。

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  • 自己紹介:1980年1月9日生まれ。どこからを趣味と呼んでいいのかは模索中。好奇心は旺盛。