• PHOTO最終更新日2010年10月11日



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Title: un meter

最近朝起きて、六条麦茶をレンジでチンして飲むのが日課です。
温めた麦茶おいしいなぁ。夏とは違う麦茶の旨さを感じる今日この頃。

本格的に寒くなってきて、いよいよ鍋の季節。
最近日本酒がうまいもんで、今年の冬はどんなのんだくれになれるのか楽しみです。

そして忘年会の予約はもうそろそろ入れた方がいいのだろうか・・・

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パソコンの御機嫌をうかがい知るのに、一番わかりやすのが、こうやって文字を打ってるときに、変換が追いつくかどうかということだ。調子のいい時は、すらすらと変換されて、なんのストレスも感じないまま、文章を打てるものの、たまに、うちのかわいいバイオが知恵熱だして、うなされてると、スペースキーを押すのと、変換までに微妙なタイムラグが出てくる。

さすがに毎日毎日パソコンに向かってると、ああ少し遅れてるなとか、完全に遅れてるなとか、なんか子どもの体調をみているかのように、パソコンの状態が手に取るように分かる。そんな微妙なタイムラグや、パソコンの温度に気を配りながら作業するのも悪くないなと最近では思うようになった。悪い時だけじゃなくて、機嫌のいい時はびっくりするくらいにがんばってるわけだしね。

機械だから、そんなの関係ないでしょ。機械なんだから、遅れたらだめでしょ。調子悪いなら修理か買え変えでしょう。機械なんだし、壊れたら捨てればいいじゃん。

その通りだし、自分もそう思うこともあるんだ。

でもなんとなく、パソコンなんか使い捨てなんだから、壊れたら捨てろよ。新しいの買えばいいじゃん。機械なんだから命もないし、性能悪いのは入れ替えだよ。といっているお坊さんがいて、なんとなく喉の奥に小骨が刺さったようなイガイガした感じが残った。

対象が何であれ、それは生きる姿勢の問題だと思う。感謝とか、心とか、そういうものって、命があるとかないとか、機械だとか機械じゃないとか、対象の問題ではなく、自分の心の問題だし、それを生み出だす心は、なにに対してだって持ってしかりなんだろうと思う。

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真宗の答えが、教学の本や、経典の中にあるとも限らず、保育の答えが、保育書や教育書の中にあるとも限らない。

最近読んだ本に、木村秋則さんという人の「奇跡のリンゴ」という本がある。それを読んで、自分のしたい保育、自分が幼稚園の中でやりたいことはこういうことなんだと思った。

1つの本を読んで、どの視点になって読むか、主人公に感情移入する時もあるし、脇役に心奪われることもあり、その背景に想うこともあるかもしれない。その視点の置き方で、そこから得るものもかわるわけで、これは本だけじゃない、1つの事象にどれだけの視点をもって向き合えるか。その視点の数が、なにかの差になってくるだろうと思う。それがなにかはわかんないけど。かといって、視点をころころ変えるのは難しく、視点なんてのは、その時の心境や、状況で自然にはぐくまれるもので、意識的にそれができるようになるには、時間もかかるし、経験も必要になってくる。ようはそれを年の功と呼ぶんだろうに。

その本の中にあった例えがものすごくびびっときた。

たとえば人を殺すのに、爆弾と刀の違いみたいなもんなんですよ。だれでもボタンを押せば簡単に何百人も殺せる爆弾と、自分自身を鍛錬して、鍛えて、人間をよく知らなければ斬れない刀みたいなもんです。

これ何の例えかって、害虫を殺すための農薬の話。

木村さんは爆弾をすてて刀をとった。それが合理性を排除した時代に逆行していることだとしても、そこから得られるものの大きさは測れないんだろうなぁ。

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ライカのC-lux3いい!

思った以上によく撮れる。

カメラには自分のなんでもない日常がこんなに劇的に見えてるのかと感心する。

いままで見ないような角度になってみたり、しゃがみこんでみたり。

おもったのは、いい写真が撮れるにこしたことはないけど、自分はきっと撮るという行為自体がけっこうすきなんだろうなと思った。


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これを読んでるお坊さんみんなにききたい。

「縁なき衆生は度し難し」という言葉があるけど。これたしかになぁと。その意味を最近味わえるようにはなったものの。

じゃあ、縁ある衆生は度せるのかというわけで。

縁ある衆生は、自分のつれあいや子ども、彼氏や彼女や、親兄弟や友人や門徒や檀家の人、そんな身近な縁ある衆生なら自分で度せますか。

もっといえば自分に一番縁あるわが身を度せてますかね。

とかおもっちゃったわけです。元も子もないこといってるようだし、自虐的かもしれないけど、でも家族や友人が苦しんでるのに、仏法はね・・・とか。うちの宗派ではね・・・とかいわれてもなぁ。とか思っちゃうわけです。まず自分におとせよ仏恩を。とおもっちゃうわけです。ましてや、それもできてないのに社会活動うんぬんとか、へそが茶をわかすぜ。とか思っちゃうわけです。Jibun wo tanani ageruna とか面と向かっていえないけど、うつむきがちにいつもそう心におもうわけです。だれにもなににも。じぶんにも。

なむ。

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うけうりだけど、

阿弥陀って。

サンスクリット語でみると。

アは、un の語源で否定を指して、

ミタはmeter の語源で長さを表す。

un meter

測れないものとかいう感じになるんだろう。

やっぱ言語で経典読むと、改めてだけどいろんな発見があるもんなんだね。

自分の中では推し量れないものというのが阿弥陀ということで、でもこれは神様ではなくて、いま自分の周りにあるものすべて、いろんな縁とか、わかりやすくいえば運命みたいなものまで含めて、世界は、その推し量れないものに満たされてますよ。ってことに気づくことが大事だと、、仏教ではいうわけです。

なるほどね・・・

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ポニョはいう。

ポニョ!ソースケ大好き!

こんなふうに声を大にして大好きといえるもの。

えっと・・・

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宝くじなんてあたらないよ。という。

買ってるの?ときくと。

買ってないけどという。

買わなきゃ当たらないだろうに。

ほとんどはこういうこと。

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人が鮮やかだと思うものは、往々にしてリアリティのないものなんだろうと思う。

そこにリアリティがあると、脳みそは浅いところでそれをとらえるから本質的な鮮やかさを見出せなくなっちゃうんだろうと思う。

人間の脳みそはよくできてる、よくできてるからこそ、疑うのが難しい。でも脳みそのはじきだしたものは、あくまで処理された情報の1つで、そのものそれ自体じゃないないわけだ。

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ともだちんこ。

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偉人伝をよんで、すごいなと思うものにはもうなれないと思う。すごいのは構造の違いもあるし、脳みその違いもある。その違いを超えるのは無理だと思う。

大事なのは、自分の脳みそのどの部分が、その偉人とかぶってるかどうかで、感じ方が一緒かどうかで、自分にはなにができるかを考えることだろうと思う。

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日々 丁寧に。

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男なら泣くなといわれて育つことが多いけど。

泣きたいときに泣ける人は強いなぁと思う。火葬場に言って、自分のお母さんが亡くなってわんわんないてるおじさんとかみると思う。

泣いたらかっこ悪いとか。人からどう見られるだろうかとか、気にせずに、人目をはばからずに泣けることの強さというか、もしかしたら、泣かないことよりも泣けることの方が、よっぽど勇気がいるし、力のいることで、よっぽどそっちの方が強いんじゃないかと思った。

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勝手に麺DAYという日を作ってみようと思って。

朝は立ち食い蕎麦屋でうどんをたべた。

そんでお昼はラーメンをたべて。

夜にはパスタをたべた。

よくそんなに麺ばっかり・・・といわれるけれど。

きっとイタリア人に言わせれば、

よくもそんなに白いご飯ばっかり・・・なんだろう。

でも1日麺だけたべてみて思ったけど。

麺だけなら結構いけるかもしれない。
パンだけはきっと無理だけど。

ボンジョルノ

ジローラモみたいな大人になりたい。
いつかイタリアに本場のパスタをたべにいこう。

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オーロラみてみたいから見に行こう。
と言えるようになるまであと5年・・・くらいかなぁ。

POSTED @ 2009.10.26 | Comment (0) | Trackback (0)

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  • 自己紹介:1980年1月9日生まれ。どこからを趣味と呼んでいいのかは模索中。好奇心は旺盛。