Title: にいぼん。
誰かの為じゃない。
自分の為だ。
誰かや何かの為に何かをやり続けていくと、それがまぎれもなく自分自身のためだと気づくんだと思う。
そんでメリットとデメリットはいつだって対になっていて、どちらかだけにスポットを当てた議論をすることはナンセンスで、世の中のすべてはメリットとデメリットのバランスのメリットが少しだけ大きい方を選択して成り立っていて、そのメリットが大きければ大きいほど、そこにあるデメリットも大きいんだ。
デメリットに悲観して、デメリットをやり玉にあげるということは、同時にメリットを嘆くようなもので、それは同時にそのものの存在自体を嘆くようなものなんだろうと思う。
世の中の大抵の問題は、そのバランスを無視するから起きるんだろうと思う。
この時期になると。
いつものことだけど、夜な夜な夜の街を徘徊したい欲求がむくむく湧いてきて、ひょいと雪駄をつっかけて2軒3軒と梯子がのびていくのです。そんでおぼつかない足取りで、家路につきながら、生温かい風をあびながら、境界がぼやけそうになる感覚に酔いながら、お腹の中からわき上がってくる何かにぞくぞくしながらわくわくするわけです。こうやって年をとっていくことが、なによりの望みなのです。
なにやら自分の周りの友達の身辺が、あわただしく変化をしてきたのを見ていて、変化を感じるというのは一方的なものではなくて、動く電車を眺めるようなもので、同時並列に起きるものなんだろうと思った。自分が相手を変化したと思う時は、相手の中での自分も少なからず変化しているんだろうと思う。
変化は生きている証拠で、生きているものはつねに変化するんだ。変わらないのは死んだものだけだ。って言葉が好きだ。
最近改めて思ったのは、何度あっても、何度2人で飲んでも、面白くない人というのはいるもんで。でも理由は相手だけにあるんじゃなくて、それを生みだす要因は、お互いの環境や肩書とか、条件的な前置きから抜け出せないということがあるわけで、それをとっぱらうことができない、自分の力のなさでもあるんだと思う。
ギャップをフラットに。
自分の手の内明かさないくせに、相手にさあ手の内をあかせよ。は通用しない。という言葉を実践しようとすればするほど、それがどんなに難しく、自分というのはどんだけ手の内を明かしたがらないんだと思う。
前に前に。少しでも前に。
単純だけど、人間はやっぱり誰か心の中に想う人がいる時といない時じゃ、ここ一番で湧いてくる力が違うんだと思う。誰かを求めることと誰かに受け入れられることは、遺伝子レベルでおこる反応の問題で、本来はきっと外側にある理屈や理由じゃどうにもならないことなんだろう。
余計なメンマをのせた店主が、したり顔でサービスだぜみたいなことをいうので、優しさの押し売りとはこういうことを言うんだなと思った。でもそんな余分で余計な優しさを疎ましく思う時と、その優しさに救われることもあるわけで。優しさとはいつだって受け手の問題なのかもしれないと思った。
もう7月。もうすぐお盆。
今年はなかなか1年のスピードが心地よい。
早すぎず遅すぎず。
ちょうどいい。
POSTED @ 2010.07.01 |
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