• PHOTO最終更新日2010年10月11日



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Title: ようかん。
2010.06.30

いま、眠い・・・と思っている人は日本中にたくさんいるんだろうな。

昨日の試合、やっぱりこういう形で負けてしまったのは悔しい。

もし自分がパラグアイ人だったらきっといまと正反対の気持ちがするんだろうと思うと、やっぱりナショナリティというのは、多くの問題の根源的な原因の1つなんだろうと思った。

そこでもメリットとデメリットがバランスを取り合っている気がした。

自分が勝者の場合、敗者の顔というのはあまり印象にのこらないんだけど、敗者の場合、勝者の顔というのはこんなに印象に残るんだと思った。

4年前、ピッチに倒れこんで涙する中田をみながら、自分は4年後どこでだれとワールドカップをみることになるんだろうと思っていた。

小雨降る帰り道、この4年を振り返って、これから先の4年を考えた。

4年後には34歳。いま思い描いていることのどれだけが形にできるかわかんないけど、でも着実に足を進めていきたいと思った。

さてそんなマイクタイソンの44歳の誕生日、眠い目をこすってもうひと頑張り。

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Title: レシピエント
2010.06.29

この湿度と気温。ああ日本もアジアなんだな、なんてことを再認識する。

こないだあるお寺の方が、命の大切さを説くのが宗教の役目であるし、命の尊さ説くのが仏教の役目であるとおっしゃった。

でも自分はそうは思わない。

宗教は生命よりも大切なものがあるということを考えるためのものだと思う。それに仏教は生命の尊さを説くものではないと思う。生命が一番大切だという考えこそ、宗教や仏教を通して正さなければいけない考えじゃないかとすら思う。

こうかくと誤解を招くかもしれないけど、

生きていることよりも大切なこともある。

それは何かの大義名分があれば死んでもいいというのではないし、簡単に命を粗末にしていいということじゃなくて。生命至上主義になって、命を一番上に置いてしまうと、見えなくなってしまうことがあるということ。

延命の問題も、尊厳死の問題も、移植の問題も、輸血の問題しかり。

日々の生活の中で、人は生きることには必要以上にスポットをあてるのに、死にはあまりスポットをあてない、そんで生きてることだけが素晴らしい、長く生きれること、命があることこそが最高だという価値観を知らず知らずに刷り込まれる。

その価値観が疑いようもないものになると、平気で2つあるなら片方の腎臓をもらえばいいんじゃないかとか、死んだ人からなら角膜を移植すればいいじゃないかとか。豚から臓器をつくって移植すればいいじゃないかとかいう議論を平気でするようになる。

なんかうまく伝えられないんだけど。

なにがいいたいかというと。

統一された価値観に依るというのは危険なことだと思うということ。

例えば、生きてることだけが素晴らしい、長く生きれること、命があることこそが最高だという価値観を知らず知らずに刷り込まれた人は、きっと長く生きられない人をかわいそうだと思って、長く生きられることが幸せに決まっていると思うだろう。

もっといえば、お金があれば幸せだと思っていれば、途上国の子どもをみてかわいそうだと思うだろうし、アフリカの人をみてかわいそうだと思ってお金をあげれば幸せになれるんだと思うだろう。

健康なことが幸せだと思えば、病人をかわいそうだと思い、五体満足であることが幸せであると思えば、ハンディを背負った人をかわいそうだと思って、容姿がいいことが幸せだと思えば、そうでない人をかわいそうだと思うだろう。

他人の事ならかわいそうで片付けて、自分にそれがふりかかれば、なんて自分は不幸なんだろうと思うだろう。

なんでお金がないんだ、なんで病気なんだ、なんで五体満足じゃないんだ、なんで容姿が悪いんだ、なんでなんでと思うだろうに。

人間は価値観に支配されてる、自分の価値観でしか物事を判断できないし、その価値観に外れるものは拒絶するか、目をそむけるように生きている。そんであわよくばそれを人に強要したがる。

それをやめろといわれても無理だけど、せめてそれを知っているか知らないかが大事なんだと思う。

仏教がどこかの価値観にとらわれて、そこに重きを置くような考え方の片棒担ぐわけないじゃん。なんで仏教の役目が生命の大切と尊さを説くことなのさ。

そういうところに落ち込んで、なにかに偏ったりとらわれてはいけませんよ。というのが仏教だと思うし、むしろ世の中に平均的な価値観をつけて不平等を生みだすから、勝ち組とか負け組なんて言葉が生まれるんだし、その平均にならねばならないという閉塞感が、人から生きる活力を奪うんだ。

仏教はどこであれ、だれであれ安穏と生きられる方法を教えるものでしょう。

とかまで自分の中で話しが飛躍しながら悶々と帰ってきたわけです。

こういうことを思うたびに自分の中にある仏教が少しづつ形になってくる気がするのです。

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Title: かしこの時間
2010.06.28

「おはようございます。ヨハネスブルクは今日も晴天です」

知らない人のつぶやきだけど。

なんか勝手にそこにはきっといろんなものが込められてるんじゃないかと思いこんで、なんかぐっときた。

どんな主張があっても。

やっぱり人間がこぶしを振り上げて解決できることなんてたかが知れてる。

こぶしは振り上げない方が、解決できることがはるかに多い。

こぶしを振り上げる、は比喩だけど比喩だけでもない。

*

おとなだって青春ですよ。

*

ありあまるくらい時間があったらといって今やっていないことは、きっと時間がありあまってもやらないのかもしれない。

*

落ちるということはよくある。

物理的な意味だけでなく。

人は基本いろんなものに落ちて生きてるわけで。

落ちるってなんだろうと思ったら。

きっと落ちるという感覚は許容オーバーということなんだろう。

*

わからないことはわからないという。

そんな簡単なことが簡単にできずにわかったふり。

子どもはできないことをよくしってる。

だからぐんぐんできるようになるんだ。

*

かけがえがないとか唯一とか。

そんなのは妄想だ。

といいながらも。

そんなものを探し続けたくなるわけで。

*

なんでも自分とかぶらせて考えられる想像力は才能だと思う。

餌をもらうのを待っている象をみて。

待つのはつらいよね。

といった言葉になんか妙にぐっときた。

*

最後に思いだすのは。

どんなことでだれのことなんだろうか。

*

生きてる実感は。

きっと取り繕えるところでは薄れてしまうんだと思う。取り繕えないところで感じる一瞬のその感覚に、感受性を研ぎ澄ましていくと、生きている実感がわくのかもしれない。

でもそれって紙一重であやうい。

*

「いやしかしこの時間でこの暑さ」

というのは。

「いやぁ~ しかしまぁ、この時間でこの暑さはね」

という意味なんです。

句読点って大事だね。

かしこの時間ではないのです。

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Title: Rべーす。
2010.06.27


小さい時はいたずらの1つや2つするくらいが元気でよろしいといわれて。
多少無茶ないたずらしても、大概は許してもらえてたのに。

いまこの年になると、ちょっと無茶するとすぐ怒られるし、たまに本気で怒られるし、いい加減にしなよもう大人なんだしとかいわれたりする。

思うに、きっと今が一番イタズラ適齢期ではないんだろうと思う。

みんな大人になって、いろんなところで経験をつんで、それなりに大人だと思いこんで、何でも境界線をはっきりさせることで自分を保とうとさせる年代だからしょうがないんだきっと。

でもこれがもう少しして、いい感じに年を召してくると、ぐるっとしてまたイタズラ適齢期がくるんだろうと思う。

もうおじいちゃんいい加減にしてください。またおじいちゃんそんなことして!

といわれながらも許されるようになるまでもう少し逆風に耐えながらもほそぼそと頑張ろう。相手の顔色をうかがいながら。

なんてことを走りながら考えていたわけです。

*

こないだ。

高速を走っていたらハイドロプレーニング現象がおきた。

結構な雨の中京葉道路を爆走してたら、突然ふわっというか、滑るような感じがして、完全に水の上に乗ったというのがわかって、おお。これが噂のハイドロプレーニング現象かと1人で感心してしまった。

幸い前にも後ろにも車はいなかったもんで何ともなかったけど。

タイヤを変えなきゃ変えなきゃと思いつつももうすぐ車検だし・・・と頑張って使ってるのがよくなかったんだろうな。

タイヤを変えよう。

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Title: うちそと。
2010.06.20

小さい子どもは言葉を意味で理解するよりも、その声のトーンや相手の表情や空気で、その言葉がいいものか悪いものかを自分の中に落とし込む割合の方が大きい。

笑顔でこら!と言えばにこにこするけど、低く厳しい顔でよくやった!といってもその受け取り方は正反対だ。

それが年をとるにつれ、言葉や理屈が先行して、頭で頭で自分の中になにかを落とし込もうとしたり、相手の心も顔も目も空気もみないで、言葉尻だけをとらえて意味を理解をしようとするようになる。

言葉というのは、思っているよりも力があるけど、思っているよりも不確かで曖昧でもある。

言葉だけにとらわれるのではなく、大事なのはそれを発する相手をよくみることであり感じることだと思う。

社会に出ると、これがすごくうまい人と全くできない人の差が顕著だ。これがうまい人というのは、一様にコミュニケーションがうまくて、相手との距離の測り方がうまい。

*

ある方が、この時期になると、やっと幼稚園では子どもの嵩が減りますよねといった。

初めはなんのこっちゃ頭の上に?が浮かんだんだけど。

ようは、4月に初めて幼稚園という社会に出た子どもたちは、まだまだお互いを警戒したり、うまく他人との距離をとれないから、子どもと子どもの距離の感覚が広いんだけど、この時期になると、その距離が少しづつ縮まって、いまじゃ手をつないでる子がいたり、肩を組んでるこがいたりして、子どもたちの距離が縮まるから、子どもたちの嵩が減るという。

それをきいて自分ももう9年近く幼稚園にいるのに、その感覚には気づかなかったし、言われてみれば確かにその通りで、すごい表現をする人がいるなぁと思った。

感性をもっともっと磨いて、そんな表現をたくさんできるような人になりたいと思った。

*

涙がでるときは、自分の内と外の境界線がぼやけてるんだと思う。

大人になるとそこの境界はいつもくっきりしてるから。

なかなか泣けなくなるんだろうと思う。

内と外と言えば。

世界は広い。どこまでも。と思うけど。

でも世界は必ずしも有限で。

内側のほうが外側よりの遥かに広いなと思うことがある。

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Title: クリップ。
2010.06.19

パソコンのEnterボタンが調子悪い。

よりによってEnter。

これ結構要です。

ここの反応が鈍いと、作業に結構なストレスを感じる。

Enterが調子悪くなって、はじめて日々自分がこのボタンをこんなに押してるのかということに気づかされる。たぶん人生の中で一番押してる回数の多いボタンはEnterかもしれない。

*

どうしてもうすっぺらいというか。

口ばっかりで、こつんとたたいたら表面がぱりぱりわれそうなだなこの人とか思って。

思ったと同時に自分もきっと誰かから見ればそうかもしれないし。

そうはなるまいと自分を戒める。

何事も自虐的になる必要はないけど、いろんなことを自覚して生きることは必要だと思う。30にもなれば、20代のうちに身についた習慣を良くも悪くもちゃんとみなおさないとなんだと思う。

*

別れと呼ぶほどのものでもないけど、1つ自分の中で区切りのついたことがあって。

今までの自分を省みるいいきっかけになった。

思ったのは、この年になると肩書とか収入格差とか、もっといえば経験とか感性とか、頭の使い方とか、生まれたところの差も容姿の差も、身体的な差も、そういうものの差が完璧にでる。平等なんてのは妄想で、社会に出たら平等なんてものはどこにもないし、不条理だらけで、矛盾だらけだ。

おなじ窯の飯をくった友達でも、おんなじ思い出を共有する友達でも、おなじコミュニティに属していた仲間でも。

あの頃となにもかわらないよ。なんていうのは、表面を撫であうくらいの関係にしか通用しない標語みたいなもので、そうありたい1つの理想形にしか過ぎないんだと思う。

みんなそんな世界で自己肯定をしながら、誰かの劣ってるところをみて、あいつよりはましだななんて思いながら生きてる。

そんなところで生きていくのに、全裸で武装しないでいられるはずがない。意識的にも無意識的にも、そこで生きるすべを、そこで生きる武器を身につけることを大人になるというんだろうと思う。

その武装は自分に見栄を張らせて、虚栄心を張らせて、まっすぐにものを見せてくれなくなって、誰かを下に見たりさせる。

自分の中のそんなちっぽけなものに感じるギャップを苦しみとか悩みと呼ぶんだろうと思う。

苦しみたくないなら、そんなものを腹に抱える感覚に麻痺すればいいんだろうけど、それもしたくない。

大人になるということは自己防衛だ。

と思えば思うほどに、武装しなくてもそこでのうのうと生きていけるすべはないのかと思う。

もっと無邪気に生きていたい。

嘘もつきたくないし、見栄も張りたくないし、虚栄心なんてくそくらえだと思えば思うほど、なりたいものと正反対のことをしてる自分の器の小ささが浮き彫りになって、やれやれとため息をつく。

自分を防衛しなくても生きていけるものになりたくて、非武装で戦場の真ん中を堂々と歩ける自分になりたい。

自分の行動や思考のすべてをその方法をみつけることだけに使っていけたらと思う。

*

理論と言葉に行動を伴わせるだけなのに。

そこの壁が一番高い。

*

昨日。絵本に書いたような月が出てた。

クレヨンで書いたような月。

だからそれを大義名分にして、

外でビールを一杯だけのんだ。

そしたらなんかいろんなところに染みた。

*

小さな心遣いを。

*

きっと自分にとって「、」と「。」は息継ぎみたいなもんなんだと思う。

書くというよりは話すつもりで書いてるからおかしなことになるのかもしれない。

*

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Title: ラピュタ。
2010.06.15

原付の排ガスの匂いをかぐと、なぜかふわっと境界が曖昧になりそうになって、それがなんでかずっと不思議だったんだけど今日わかった。

原付の排気ガスの匂いが旅の記憶に直結しているからだ。アジアの町でこの匂いのしないところはほとんどないと思う。

まとわりつくような重い夕暮れに、原付にのって肉屋さんにいった帰り道、ぶつ切りの鶏肉をぶら下げながらそんなことを思った。

境界が曖昧になる。

この感覚が好きだ。

外と内、自分と他人、今日と明日、現実と妄想。

白でも黒でもなく、その間みたいなところ。

自分はあなたの居場所はここですよといわれるのが苦手なんだきっと。

でもそれがわかってるのに、いつだって自分の居場所を探してるんだきっと。

見つかった居場所がぴたっとくればくるほど、そこからもぞもぞ抜け出したくなるくせに。

ラピュタをやっと見つけたあげくバルスするようなもんだ。

安心と不安も紙一重。

安心できなければ不安もわからなくて、不安でなければ安心もわかんない。

これもどちらかだけで成り立つものじゃない。

それを感じれば感じるほどに、境界を曖昧にすることでしか回避できないことがあるなと思う。

右でも左でもなくて0でも1でもなくて、白でも黒でもないところ。

そもそも生きることはすでにもう白でも黒でもなくて、老病死のデメリットを抱えていて、どうしょうもない渦みたいなものを抱えていなければいけなくて、理屈じゃないことだらけでわかんないことだらけで。

くそう。と思うたびに世界とか人であることを疎ましく思うこともあるけど、そこに対になった感情がそれでも自分に足をださせるんだろうと思う。

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Title: 菊水の頃
2010.06.14


亡くなる前に最後に知覧に行きたいといったそうだ。

そしたら平和公園に自分の整備していた飛行機があったそうだ。

菊水作戦で使われていた戦闘機を整備していたおじいさん。

小さい時からおじいさんだったおじいさん。

菊水作戦を初めて教えてくれたおじいさん。

戦争の話をしてくれる人がまた一人いなくなった。

この世代の人たちの記憶の中にある戦争は決して色あせないんだなといつも思う。それだけ感情と直結した記憶なんだろうと思う。

いいとかわるいとか。右とか左とか。

正当化とか美化とか。

そんなんじゃなくて。

戦争を体験した人たちの中に、ただただ湧いてくる感情に寄り添って何が悪い。毎年靖国に戦友に挨拶に行く人の気持ちや、そういう場所を大切にすることの何が悪いんだとか思う。

自分の直した戦闘機で誰かが特攻をしていく整備工の気持ちをとてもわかるとはいえないし、わかってほしくもないと思うけど、そういう人がいたんだということをせめて自分は忘れないようにしようと思うし、そういうたくさんの人の想いの上にいまの日本があることも忘れないようにしようと思う。

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Title: 純でなんぼ。
2010.06.11

知らないとわからないということには大きな違いがあって。

知らないことには人は恐怖を感じたりしないけど。

きっとわからないということには恐怖を感じるのかもしれない。
その怖さが、きっと先に手を出させたりするんだ。

わからないということはそれだけで脅威なんだと思う。

*

平和っていうのは状態を指すわけで。そこにはメリットもデメリットもあるんだと思う。

平和が無条件に素晴らしいというのはわかりやすくていいけど、でもその状態であることで、影の当たる部分というのもあるんだろうと思う。逆に戦争をしていても、その中から眩しいくらいに輝きを放つものもある。

物事のすべてにメリットとデメリットをみつけるということを考え始めたら、社会というのは、たくさんのデメリットが絶妙にバランスのとれたものであるんじゃなかろうかと思う。

それと、いま日本が平和だとしたら、そのデメリットは間違いなく日本人の中に浸食してると思うし、平和とはいえない国の人たちに日本人にない何かを感じるのはそういうことなんだろうと思う。

そんで、メリットだけやデメリットだけを得ようとか消そうとかしても無理なんだと思う。

メリットとデメリットはいつだって対になっているんだと思う。

だからメリットだけ追いかけるのもやめたいし、デメリットだけを嘆くのもやめたくて、メリットの中にある対になったデメリットと向き合いたいと思うのです。

*

特化するということは、多くのデメリットを抱えるということであるんだろうと思う。デメリットの少なさはそれだけ特化していないということになるんだろうと思う。

そのデメリットを1つ1つとりあげて、ああだのこうだのいうのが好きな人たちにはいわせておいて、自分の矢印だけしっかりと定めてなにかに特化していくのか否か。

自由選択とはいえ、そこで選択してでも特化したいなと思うことが多くなると、いままでの生活の中のどこに楔をいれなきゃいけないのかも見えてきて、その楔を打ちおろすのに躊躇いながら悶々する。

きっといまがその過渡期で、いままで若いうちはねきっと個性個性と言いながらも、個性の意味を履き違えてて、みんなと一緒だということに安心してたと思うんだ。

でもそれぞれがいろんな方向に進む中で、いま30歳になってここから先なにかに特化していくということは、ギャップもジレンマも、またデメリットも許容していくということなんだろうと思う。

それを許容するのに生じるいろんなものに疲れたり、人間なんで弱い方に流れそうになった時に、自分を立て直す理由を自分の中に持ちたいのに、それがどうしてもできない。

どうしてもそれを外に置いてしまう自分の器の小ささ。

もっと強くなりたいと思う。


*

なんかこないだ甲冑をみていて思った。

日本って左右非対称の美学が根底にあるんだろうと思う。

きっと左右対称とか秩序のとれた美よりも、日本人はそうじゃないものに惹かれてきたんだろうと思える節がたくさんあった。

*

ほっといても価値のさがらないものを自分の真ん中に置きたい。


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Title: さらば自由と放埓の日々よ。
2010.06.11


恋愛においてめんどくささはスパイスである。

つまりは、スパイスのよさがわからない恋愛に深みはないということでもあるわけです。

バイロンじゃないですよ。

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Title: ろけっつ。
2010.06.09


かりゆしさんから使命の話を聞いて。

なんかことあるごとにその言葉がぽかっと浮かぶのです。

命を削っても成し遂げたいことをする場合。

きっと友愛とかありえないと思うし。

鬼気迫るくらいの勢いでなきゃ、命は削られないんだと思う。

命削ってやってるなんて、のほほんといってるやつは。

小物なんだろうきっと。

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Title: 漂泊の思ひやまず
2010.06.09

嗚呼眠い。

最近自分なりには夜更かしなのです。
まあどんなに遅くとも1時くらいですけど。

悶々と考え事したり、本や雑誌を読んだり、パソコン開いてはおもいつくままに検索したり。

そういう時の行動は完全に思い付きのようなのだけれど。

いっぽ引いてみてみると、考えてることも、読みたくなった本や雑誌も、検索してることも、気づけばそこに統一性があったりして。

はっと気付くわけです。

あっ。

奴らがきてるのかと。

まさに、そぞろ神の物につきて心をくるはせ、道祖神のまねきにあひて、取もの手につかず。なわけです。

そんできやがったなこの旅立ちたい欲求の渦めと、その心をなんとかいさめようと試みたりするわけですがそんな抵抗むなしく。

年末のアラスカまでまてねぇ。

インドにいきてえ。

ダラムサラに拠点を置いて数ヶ月くらいあちらで暮らしたい。

とか。

ノルウェーもいいなぁ。とかボリビアも捨てがたしとか。

思うわけです。

いっちゃうぞこのやろうとか思いつつも、ちゃんと仕事に向かう自分は、大人になってしまったのです。

もう夜行列車に飛び乗ったりもしなければ、とりあえず空港に向かってキャンセル待ちのチケットを探したりなんかしません。

しません

しません

絶対にしません。

してはいけませんのです。

トルコいいなあ。うらまやしい。


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Title: ピンギヤさん。
2010.06.07

創造は破壊への渇望で、破壊は創造への渇望だと書いたその言葉を反芻しながら走った。

10キロほど。

そしたら昔、手首を切った人が、死にたくて切るんじゃなくて、血が流れてあったかくて生きてることを確認しているみたいなもんだと言っていたのを思い出して、その時にそうか・・・と思って、たしかに自分が生きてることが確認できる作業ってのは思いのほか少ないなと思ったことを思い出した。

そんでお茶の水から水道橋に抜ける線路沿いの道を歩きながら、やっぱ人は人である以上なにかに渇望してて、それをどうやって満たそうか考えながら生きてるわけで、どんなに若くても年寄りでも背が高くても小さくても、お金持ってても持ってなくても、家族がいてもいなくても。

みんながみんな自分の中の満たされないものをなんとかしようとしてて、自分の中にどうしょもないものを抱えてて、それをなんとか取り繕って着飾って、やわらかい部分をきれいにくるんで、いろんなものを幾重にも纏って生きてるだろうと思う。

でもそれが、取り繕いきれなくなって、自分の中に渦巻くものがどうしょうもないくらいになったときに、人はなんとかして生きてることを確認したくなったり、どうにかそんな自分を理解してもらおうとしたりするんだろうと思う。

でもその衝動や欲求を物理的なものでは解消すればするほど、火に油を注ぐみたいにその炎はおっきくなっていくんだろうと思う。

鎮火したと思っては燃え上がり、また勢いを増しては鎮火する。そんな繰り返しだ。

そこから、おで一抜けた。

といいたいからスッタニパータを読んでみる。

でも犀の角のようにただ独り歩めとかさ、蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものであるとかいわれてもさ。

そんなんむりぽ。とか思えば思うほど、法然さんが選択してくれてほんとによかったと思うし、親鸞さんが肉食妻帯してくれてほんとによかったと思う。悪人正機の発想ってほんとすごいわ。


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Title: ごった煮。
2010.06.07

読んでて、その感性の1つ1つにどきどきさせられて、むむむ羨ましいぜとか思う文章を書く人がいたりして。

ひたすらに熱を放出し続ける人がいたりして、なんでそんなに放出し続けられるんだと思いながらも負けるもんかとか思って。

ふと。

自分だって熱をやみくもに放出し続けてもいつも体がぽかぽかしてた時があったはずだ。

でもある時から、その熱を自分をあっためるために使ってたり、放出し続けた後にすこしじっとして、体に熱がたまるのを待っていたりしていることに気づかされて。いつから自分はそんなに冷え症になったんだと自分を戒める。

その熱量と発熱の差はなんなんだと考えて、きっと発熱量というよりは、奪われるもの数の差なんだろうと思った。

つっぱしらねば。

ねばっとまとわりついて、熱を奪っていくものをからりと捌いて。

さくさく先へいかねば。

それと。

久々に遠慮なしにぶつかれた友達がいて、久々に距離感を無視して土足で踏み込むようなメールをして、なんかそれが気持ちよかったのと、やっぱ遠慮なしにぶつかるということは、脳みそにとってもいい刺激になるなと思った。

きっとこっから先の成長にはそういう経験が不可欠なのかもなと思った。

ごった煮の中で自分が自分であるためには特に。

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Title: かりゆし。
2010.06.07

こないだ、ひょんなことから仕事で「かりゆし58」に会う機会があった。

みんなは知らないといっていたが、「電照菊」を初めて聞いた時にすげぇいいなと思って、それから車の中のヘビーローテーションだったので、今回会えて生歌まで聞かせてもらって感動してテンションあがった。

やっぱ歌にはパワーがあるな。

かりゆし58のボーカルの前川さんがこう言っていた。

ある人が、使命というのは命を使うことだと言っていました。
命を削ってでもなにかをしたいと思うことはすごいと思います。
そういうものに出会えることは素晴らしいと思います。

と。

金八先生じゃあないが、漢字の成り立ちからその意義を再確認して、腑に落ちるということはよくある。なんか妙に、命を使って自分はなにをしたいんだっけとか帰り道で悶々と考えた。

今の自分は悶々と考えても、もう昔みたいに路地にはまりこんだり、右往左往したりすることもなくて、自分の中ではっきりと答えは出ていて、自分が命を削ってでもやりたいことも、行きたいところも見えていて、あとはそこに着実に足を出して、今をしっかり生きることだけなんだと思う。

もう誰も追わないし、追いつかれてもいい、着実に自分のペースで着実に歩をすすめるだけなのに。ここまできたら、一歩をだすのがこんなに重くて、なんか流れるプールの中を逆走して歩くみたいだ。

その流れにもどかしさを感じつつも、歩むということはそういうことなのかとも思いながら、もしかしたら、そのもどかしさを執着と呼ぶのかもしれないと思った。

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Title: 深層格
2010.06.05

自分はこうであるということの中の多くは願望でもあるんだろうと思う。

自分は基本的に人が好きだからというのは、人を好きでありたいという気持ちでもあるし、自分は基本的に人が嫌いだからというのは、人を嫌いでありたいという気持ちでもあるのかもしれない。

その姿勢の裏にはたくさんの縁と関係と環境が作用しているにせよ、こうありたい、こうである、こうだからと簡単に言い放つ言葉とその中にある本質は真逆であるのかもしれない。

破壊衝動は創造への渇望でもあるし、創造は破壊への渇望でもある。

本質と動機付けはそうしてバランスをとるのかもしれない。

そう考えれば本質的な優しさとはなんなんだろうか。

突き詰めて究極にネガティブなのは自分と彼とどちらなんだろうか。

ロックが優しいと感じるのとそれはなにか通ずるのかもしれない。

突き詰めてネガティブなのは最高にポジティブで、至ってポジティブなのは最高にネガティブで。(まんま日本の構造にもあてはまるけどそれはさておき)

自分はこうである。という裏にある本質というのが、人間が人間である以上何万年も前から変わらない真実なのかもしれない。そして同時に自分の誇示するスタイルは、同時にそうやって自分を守る術でもある。やわらかい部分に手をとどかせないための手段でもある。

先に手を出すのは、先に手を出されたくない弱さでもあるし、相手をゆさぶるのはゆさぶられたくない保身でもある。

ベクトルの向く方向はあるところまでくるとくるりと同じ方向を向くのかもしれない。アウトプットと表現とその使い道の違いはあれど、その根本に流れる普遍的なルールをつかんだらこわいものなんてないのかもしれないとすら思う。

ニーチェでも、親鸞でも、岡本太郎でも、ナポレオンでも仏陀でも、デュオニソスでもヴァーグナーでもだれでもいい、その深度や多少のギャップはあるにせよ、ベクトルが向いてる方向に大きな差がないように感じる。

うまくつなぎきれないけど。

相反する衝動と正反対の動機付けを持つ人間の中に同義性をみつけることがやはり本当の意味での調和なのかもしれないと思った。

ここでもまた点と点がつながる。


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Title: 謎の小袋60袋。
2010.06.04

あ。気づいたら1年半分終わってるんだった。

なかなかいいペースでここまできたと思う。

じりじりと。

着実に。

60歳からは余生だと思ってて、そこからはそれまでについた勢いの惰性で好きなことだけしておもいっきり遊んで過したいと思ってるので、そういう意味でも活動限界まで半分を費やしているわけです。

いざその時になって、はてなにをしたらいいか・・・と困らないように、いまのうちから引き出しと小袋にネタをため込んでいきたいと思うわけです。

前に前に。

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Title: 1,2,3
2010.06.04


真っ向から対立する二つの意見のどちらにも正当性をもてるようになって初めて次なのかもしれない。どちらかの意見にしか正当性を持たせられないということは結局力量不足ということなんだろうと思う。

すべては肯定も否定もできるもので、そのどちらかしかできないものは1つもない。だから、正しいことも悪いこともない。

なんか、ずんっときて、どんっとくるもののほとんどは、当たり前を当たり前にみているだけで、そう思うといかに人はありのままに物事をとらえられないのかと思う。

色眼鏡のこの世界が色眼鏡じゃなくなったときに、すべての色はいままでみたことないくらいに鮮やかになるんだろうともおもう。

なんか、なにかに縛られて生きるのはつらいよというけど。でもよくみりゃ自分を縛っているのは環境でも状況でも他人でもなくて、自分自身の気の持ちようだと思う。

究極この瞬間に自由になれない人なんていないけど、そこで自由になれないのが人の弱さであって、でもその弱さが人としての最大の魅力でもあるんだろうと思う。

な~もなも。

此の道を行けばどうなることか、危ぶむなかれ、危ぶめば道はなし、ふみ出せばその一足が道となるその一足が道である、わからなくても歩いて行け行けばわかるよ。

といいつつも、君子危うきに近寄らずともいうわけで。


さぁてと。

とりあえず夏の匂いがぷんぷんしてきて、今年の夏はどんな夏になるんだろうかと妄想してはどきどきわくわく。


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Title: 拝啓。
2010.06.04


あ~あ~

きこえますか。

なんとかこちらは元気にやってます。

そちらの調子はいかがでしょうか。

きっとあいかわらず、あることないことを盛りに盛りながら、がははと笑いながら、たくさんの友達に囲まれて焼酎でものんでるのでしょう。

はやいところその輪に加わって、またいっしょに飲み交わしたいなと思うこともありますが、とりあえずこちらはまだやることがあるので、そちらにいくのはもうちょい後にしたいです。まあでも、急きょ行くことになったらその時は混ぜてください。

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Title: もてっと。
2010.06.02

「言葉」というものにのる意味や意義や本質とか。

それがなんであるのか考えて。

完全につかめなかったとしても、そこにある漠然としたものをなんとなくとらえたような気になったら、次にはそれが正しいのか間違ってるのか、側面的なのかそうでないのか考える。

そんで、自分なりに答えを出して、これはああだの、あれはああだの。

ごちゃごちゃと御託を並べたりして、もっといえばそこから自分を浮き彫りにさせて、そこから独自性を確立させたかのような気になって、それがあたかも個性であるかのように纏って歩く。

でもそれはなんかごてごてしてて角ばってて、高速で曲がり角を曲がったら、足の小指をうちそうなもんだ。しなやかじゃない。

そこから角ばったものをおとして、無駄なものを省いて、にゅるりとのこったようなものになりたいと思うことがある。

最近漠然と、自分がどうありたいか考えた時に浮かんでくるものが、どうも言葉ではなくて、そんなにゅるりとしててもてっとしたような抽象的のようなものであることが多くなった気がする。

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  • 自己紹介:1980年1月9日生まれ。どこからを趣味と呼んでいいのかは模索中。好奇心は旺盛。