• PHOTO最終更新日2010年10月11日



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Title: 意識

なにかを考えているときにいろんな点と点がどんどんつながってぱぁと新しいことに結びついたり、絶対に交わらないような出来事が1つの事実で結びついたりすることがある。

逆に完全に煮詰まって言葉遊びをはじめて、言葉に依りすぎて堂々巡りを繰り返すこともある。

その時の自分の違いをよくよく観察したみた結果。

あたらしくいろんなものがどんどん自分の中にはいってくるときの自分の中は考えるということをしていないときだ。考えた結果答えが出るんではなくて、答えがいきなりぼかっとだされて、それがプロセスにつながる。ぜんぜん時系列に沿ってない。

逆に煮詰まるときは大概疑問だらけの頭の中を時系列に沿って順番に考えていこうとするときで、そういうときは往々にして煮詰まってそのままバラエティ番組かジャンプに逃げる。

つまりは考えるということは必ずしも時系列にそっていかなければならないということはなくて、そう思い込んでること自体がもうバカの壁なんだなと思った。

突拍子もない音楽を聴いてる時や渋滞の中でふと悪人正機への足がかりをみつけることもあるのに、机に向って中論を読みふけってもなんにもみつからない上に、むしろものすごくそういうものから離れたくなることもある。

面白いくらいに考えるということ、つながるということ、更に言えば人間ってのは意識に支配されていて、その意識は環境やもうどうしょうもないくらい長い年月の反復で積み重ねられたもので、なかなか打破するということは難しいものだなと思う。

なにごとも、どんな道を進もうとしていても、意識というものを意識するということは次のステップに進む上では絶対に避けては通れないところだなとつくづく思う。

こないだバク転して思ったけど、物事を時系列で考えるのは人間の悪い癖みたいなものだと思う。物事は同時並列で時系列にそって説明のつくことというのは所詮机上の空論みたいなもんなんじゃないだろうか。

バク転してるときに体の動きと意識の置きかたを時系列にそって説明しなさいといわれてできる人なんていないとおもう。なのにバク転できてる人がいる。

身体と意識と脳みその限界をこえて伝えるということはそういうことなんだと思う。でも脳みそというリミットがある有限な人間が無限の可能性を説くというのは一種のパラドックスみたいなもんなんだろうか。

なんか考えすぎてもやもやしすぎたのでパタポンして寝よ。

POSTED @ 2009.01.25 | Comment (0) | Trackback (0)

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  • 自己紹介:1980年1月9日生まれ。どこからを趣味と呼んでいいのかは模索中。好奇心は旺盛。