• PHOTO最終更新日2010年10月11日



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Title: フェラーリとランボルギーニ

好きに理由はいらない。

とか。

言葉にしたらシンプルなんだけど。

でもここに至るまでに。

好きってなんだろうというところから始まって。旅を好きなのと、誰かを好きなのと、空気が好きなのは、同じ好きでもどう違うんだろうかと考えて。その中で同じ感覚であるものどうしを結び付けてカテゴリー分けしたりして。

そんでその中で、自分の行動というのは、原則、感覚とか、自己満足とか、達成感とか、欠落しているものを補うためだったり、様々な理由がまじりあってするものだけど、根源的には、自分の欲求を満たすために人は生きているのかもしれないとか思って。

その行動に伴う感情の中で、その感情が湧いたことの作用が、今の自分にとってバランス良く、心地いい状態であることを、心地がいいとか、好きだとかいうことにつながるわけで。

そういう理論をたてたら、次に、自分がわくわくしたり、どきどきするたびに、自分の中でその心の動きを客観的に実証して、ああ今はきっとこういう理由から、好きだと思うんだろうなとか、この空気は、きっと自分のこういう部分に作用しているから好きだと思えるんじゃないかとか。様々な場面の中にある、自分の感情の動きに理由付けをし続けた結果。

ああ、作用というのは、カテゴリー分けできないくらい、たくさんの事象からなりたってるということに気づかされて、今の自分の判断で書き出せるものだけじゃなく、今の自分の考えも及ばない細かい事象までもが、その作用の中にはあることに気づかされて。

そこで、はじめて、好きというものに理由いらないという言葉があるけれど。

それはきっと、好きというものの理由というのは、考えても人間の脳みその及ぶことではないですよということであって、きっとスーパーコンピュータでも、そのパターン解析できないくらいの数の計算がひつようなことなのかもしれないと思って。

やっと、好きというものに理由はいらないんだ。というよりも、言葉で正確に表現するには、好きというものに自分自身は正しい理由をみつけることはできないんだ。といってもいいのかもしれないというところに行きつくわけで。

まわりくどくてめんどくさくても、そんな作業を繰り返してきて。最近そうやって1周した言葉や項目が少しづつだけど増えてきたような気がして。

ただ最近思うのは。

結局1周したり、いろんな側面が見えると、自分の発する言葉の9割は、憶測と推測にすぎないと思うわけで。そう考えると、つよく主張できることというのは、結局自分の譲れない想いや、なにか弱さを補うためにしかすぎないんだなと思って。

我を離れるなんてできないし、できたとしてもそれはそれでいいのだろうか疑問にぶつかる。

よほど10年まえの自分の書いたものや、残したものをよんでいると、ああ、側面的で一方的だけど、すごいなぁこの熱量と思う反面、そのころ抱えていた問題もいまの何倍もあったなとか思って。

いまその抱えていた問題は半分以下だけど、そのぶん熱量も半分か。とか思うと。

楽に生きることとというのはエコカーみたいなもので、フェラーリやランボルギーニではないんだと思うわけです。

でも人がぐぐっと心をつかまれるのは、プリウスよりもフェラーリやランボルギーニなんじゃないかとも思うわけで。

そのはざまで、そもそも仏教はだれのためにあるんだい。という疑問にもぶつかるわけです。

お釈迦様が、木の下で、自分の悟りを、人に説くべきか否かと木の下で1週間くらい悩んだというけど、仏陀となった人が1週間も考えたあげく、いきなり人間はきびしいなっていって鹿に聞かせて試すくらだからな・・・

この悩みに似たような問題に、どこかでぶつかってる人がいたはずだと思って、原始仏教の中にそういう言葉がないかさがしたくなるし、そういうときに自分は経典を開きたくなるわけで。

七高僧に会えるものならあって、1人1人にこの疑問をぶつけてみたくなる。

親鸞さんを本当にうらやましいと思えるのは、法然さんにあえたということで、そういう相談をぶつけられる師が同じ時代にいて出会えたということで。

もっと羨ましいのは、舎利弗で、あんだけ舎利弗舎利弗いわれて、身近に思ったことをぶつけられる人がいたのが羨ましすぎる。

末法ってこういうことか。


POSTED @ 2010.02.04 | Comment (0) | Trackback (0)

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  • 自己紹介:1980年1月9日生まれ。どこからを趣味と呼んでいいのかは模索中。好奇心は旺盛。