• PHOTO最終更新日2010年10月11日



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Title: 神様はいるとかいないとか。

このあいだはじめてあった人たちと話をしているときに、その人たちは同い年でそれぞれまったく違う仕事をしてるんだけど自分の家が寺だという話をしたら。

そうなんだ、でも実際のところ神様とかいないとおもってるんでしょ。って言われた。

なるほど。たしかに寺といえば神様がいて、お坊さんはみんな表向きは一応神様がいるということを信じている姿勢でいるんだというのが一般的な見方なんだということに改めて気づかされた気がしたと同時に、ああこれがいまの現状かと思った。

そういう考えが蔓延しているとしたら宗教に対しての疑念や胡散臭さはいやでもぬぐえるはずがない。

でもそれが当然だし、神社とお寺の区別がつかないのだって一般的で自分があたりまえに話すことや考えてることがむしろぜんぜん一般的じゃないんだとまざまざと感じさせられて、自分はこの時代で宗教を扱って生きていく以上もっとがんばらなきゃと思った。

正直地獄とか天国とかあると思ってないでしょ。ってかそんなのナンセンスだよね。自分でもそう思ってるんでしょ。というのだって普通に出てくる疑問だろう。

これは別の人だけどこれまた同じ年代の女の子と宗教の話をしていたら、たしかに人間啓蒙は必要だよねといっていた。

宗教と啓蒙は違う。

真宗には聞法という言葉がある。これは真宗の中でも一番大切な基本。

聞法とは法に聞くこと。

こうかくと。

またはじまった。仏教とか宗教はすぐに難しい言葉で煙に巻いたような理論をならべたてる。なんて思う人もいるかもしれないし、なんか一種のアレルギーみたいに宗教かよ・・・うわぁ・・・

と感じる人もいるかもしれない。

たしかに最近じゃ宗教なんてうさんくさいという構図ができてもなんらおかしくないし、むしろそれくらいの警戒心をもたないといけないのかなとすら思うし、自分自身そう思う。

寺にうまれてもそう思うし。いまだになんとなく自分の扱っているものが宗教なんだというのはぴんと来ない。

これは自分が感じることだけど、おもうに宗教っていうのは根本はほんとにシンプルなものなんだと思う。

シンプルなものをシンプルに伝えるということはものすごい危険性をはらんでいる。だから宗教はシンプルなものを伝えるためにあの手この手を考えてきたんだと思う。

それがひとつの方便であり、天国とか地獄とか、神様とかであって。大事なのはようはそれがあるかどうかその存在を信じるかどうかというよりも、それを通してなにが伝えたいかということなんだと思う。

だから宗教を学ぶと気づくのは、それがあるかないかという議論はさほどおおきな問題ではない。

宗教の根本や伝えたいことはものすごく単純で簡単なこと。

くそったれ。世の中馬鹿ばっかりだ。とか。ああ、なんであの子はおれに振り向かないんだとか。お金がほしいのになんでないんだとか。なんでおれだけこんな気持ちにならなきゃいけないんだとか。あんなやつがいなければいいのにとか。

そんな些細なことも含め、心の中が自分の力ではどうしょうもなく苦しいときに処方する薬みたいなもんなんだと思う。

大抵の問題はそんなもの処方されなくても解決できるし、ビールでも一杯飲んですかっとすれば忘れられるし、ストレス解消してればこなしていけるさ。

というレベルだけど。

それでもビールをのんでもストレス解消をしてもどうにも拭い去れない問題というものは確実にある。どんなに外にその解決法を探してもみつからない問題が確実にある。

もうどうにも目が背けられなくて、内側に自分の中に矢印をむけて自分の心の持ち方をかえないと乗り越えられない瞬間はだれにでも必ずくるんだとおもう。

大まかに言えば、老いること。病気になること。死ぬこと。

そのときにはじめて考え始めるんではなくて。

むしろ生きているということはその問題にぶつかってない人はいないということに気づいてその瞬間から矢印を内側にむけていきていくことが大切で。

自分周りでおきるどうにもならない問題を自分のこととしてうけてめていくのが宗教とか仏教の入り口なんだと思う。

そしてそういう気持ちを先人はどう考えてきたのかなと。何十年、何百年、何千年たっても人間の悩みや苦しみはそうそうかわらないと思う。というよりも老いることも病気になることも死ぬことも。もう何千億人もの先人たちが経験してきてることなわけで。

今日にいたる間での長い年月の間にそういう問題を命を懸けて考え抜いてきた人たちがたくさんいる。

それを教科書のように参考にして今の自分におきかえる。もっとくだいていえばそれを鏡にしていまの自分をうつしてみる。

これが聞法のこころであって。

さらにいえば宗教に触れるということなんだと思う。

だから自分に矢印を向けないで、ずばりいわれちゃっても。天国から死んだ人が語りかけてきても。たかいお札をはったってなんの解決にもならない。

それは傷にバンドエイドをはって隠すだけで安心するようなものとなんもかわらないんだと思う。

話がだいぶそれたけど。

なにがいいたいかというと。

自分は布教したいわけでも教化したいわけでもない。というと怒られそうだけど。自分自身が感じたこと。おもったこと。苦しんだこと。真宗にてらしあわせて、自分自身の聞法をするだけ。

なんかそう思うと飽きっぽい自分がいままで飽きもせずに続けてきた書くという行為がなんとなくつながってきた気がするわけですよ。そんでついでに願わくば自分がそういう姿勢で生きていくことで真宗や仏法というものが少しでもだれかの何か大切な部分になれればいいとおもう。

ほんとに同じ世代の人と話をするとよくわかる。疑問や問いのでる部分や宗教の胡散臭さがなんで生まれるかとか。でもやっぱり生きていくうえで宗教は絶対に必要だと思う。

これは個人的な気持ちだけど、信仰というとただの妄信的なイメージが強いけど。でも信じられるには理由が必ずあってその理由をしっかりとみつめる必要があるんだと思う。摩訶不思議で抽象的なものなものだけを信じられるはずがない。でもそれが宗教なんじゃないの?と思うかもしれないけど。それは違うんだということだけは自分の生き方や姿勢の中で示していかなきゃいけないんだろうな。

まだまだだなぁほんと。最近こういうことを考えると果たして生きている間だけの短い時間で自分にはそのひとかけらでも責任を果たせるんだろうかというあせりすら感じる。

POSTED @ 2008.07.04 | Comment (0) | Trackback (0)

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  • 自己紹介:1980年1月9日生まれ。どこからを趣味と呼んでいいのかは模索中。好奇心は旺盛。