• PHOTO最終更新日2010年10月11日



follow me


Title: ぷれんてぃ。
2010.10.26

ここ2,3日寒くて寒くて、明らかに体の運動機能が鈍っている、こうやってパソコンを打つ指の運動機能すら60%くらいまで落ち込んでいるんじゃないかと思う。でも年々冬の良さがわかるようになっていたのは、進化なんだろうか退化なんだろうか。

いやしかしこう寒くなると頭は温泉一色。のほほんと露天風呂にはいって日本酒でほろ酔いながら、うたたねしたい。


*

ここ2,3日かなり熟睡できてる。

なんか寝不足の時と熟睡したときの体の違いが顕著すぎて、やっぱほんと睡眠って重要だなと思う。

*

最近過去を振り返るのも楽しいなと思う。なんかそれがあたかも娯楽であるかのように、一人で過去を思い出して、思い出し笑いをしたり、ほくそ笑んだりしながら、甘酸っぱかったり苦々しかったりする思い出を反芻する。

そうやって過去をざざっと思い返してみると、なんかみんなそれぞれに思い出があって、それぞれが唯一無二の経験をしてきていて、なんかもうそれだけで、十分個性なんだよなと思った。

*

どういう人になりたいかといわれれば、年をとればとるほどに、需要の高まるような男になりたいです。

年をとればとるほど人付き合いというものはシビアになると思うのです、若いときはね、理由がなくても人とつきあえると思うのです、おなじ共同体のつながりや、組織的なつながりや、仕事のつながりや、そこから派生した人間関係というものは、惰性でも維持できるのです。でも年をとればとるほどに理由もなく人とつきあうことはしなくなると思うのです。

人付き合いも公から個へシフトチェンジしてくると思うのです、そんで個と個になったときにこそ需要のある人になりたいのです。

安西先生、あきらめたらそこで試合終了ですよね。

*

喧嘩するほど仲がいいっていうけど、その根拠はいったいどこから来るんだろうか、なんてことを考え始めたら、喧嘩にも種類はあるし、仲直りにも種類はあって、あんな場合もあれば、こんな場合もある、そう考えるとやはり、一つの事実に一つの答えを探そうとしてスパイラルに陥って、そこで最大公約数に落としどころをみつけるというのは、ナンセンスなんだろうなというところで思考停止しながらも、乱暴な意見交換会みたいなもんだというつぶやきが妙に腑に落ちた。

*

喧嘩も国同士になれば、喧嘩するほど仲がいいね~あはは。とはならないわけで。戦後処理は仲直りでもなんでもないわけで。

外交問題がいつのまにか民族の違いにすり替えられて、民間レベルでいがみ合うこと自体がなんか誰かの思うつぼみたいでいやだなあと思う。でもこんなに簡単に思うつぼになっちゃうのが、外交であって政策であって、国という単位を動かすためには、そういう扇動力は必要不可欠なのかもしれない。

*

そりゃヒーローになりたいさ、なれるものなら。でもそんなものになれない自分をよくしってるから、それに憧れるわけです。

そんで時々勘違いしちゃうわけです。

*

痛々しいってなんてかっこいいんだろう。

*

つくづく、人生というのは昇華の連続なんだなと思う。

自信のなさとか、あきらめとか、どうしょうもない差とか違いを目の当たりにして、それをバネにして、その矛先を変えて、コンプレックスをなにかで納得させようとするときのなにかが自分の武器であり、それをたくさん抱えていくというのが人生なんだろうなと思う。

自分の武器はそのまんま、自分のコンプレックスの裏返しでもある。

人間は、自分の中の負を打ち消そうとする時に一番力を発揮できるんだと思う。だからこそ自分の中にある負をしっかり許容する勇気を持たなきゃいけないんだとも思う。

涼しい顔が続けられるのなんてすぐに限界が来る。

*

「お家の中のたまねぎ」をあんなに魅力的にできるのはやっぱりすごいし、なによりも「お家の中のたまねぎ」を魅力的にしてやろうっていうところがかっこいいと思うのです。そして自分もそうなりたいと思うのです。

*

こんな空をぼけっとながめながら、声を大にしていいたいのは、駄目なものなんか一つもないんだということ。

*

自虐的なのと背徳感があるのは似てるようだけど全く別物なんだと思う。

| コメントを書く (0) | Trackback (0)
Title: 丼。
2010.10.22

愚痴ることの一つでもあったほうが人生はおもしろいのかもしれない。

と思いながら、

人は気を抜くと簡単にリアリティを失うんだなと思った。

慣れるという感覚は人間のメリットであると思う。でもそれは同時に、人が簡単にリアリティを失う理由でもあるんだろうと思う。

リアリティとは、怒りであり、痛みであり、悲しみであり、喜びであり、理屈がぶっとんでわけのわかんないところに着地しちゃうようなもんで、人間の欠陥でもあり、魅力でもあるんだろうと思う。

でもいつもそんなもんをむき出しにして、タガの外れたような状態で生きていたら、たんこぶだらけになって傷だらけになっちゃうから、自己防衛のために、人は慣れることでそのリアリティを鈍化させるのかもしれない。

鈍化していることにも気づかないくらいに、人間は巧妙に自己防衛をする。

だから時々その鈍化されたリアリティを刺激されることを無意識に追い求めたりするんだろうと思う。

人間の行動原理の中で、この動機付けの占める割合は結構大きい気がする。

| コメントを書く (0) | Trackback (0)
Title: エスペランサ
2010.10.16

少し湿気を含んだ町を徘徊する心地よさは何にも代え難い。

今この瞬間に自分がここにいることを誰も知らないんだと思うことに、妙な安心感と開放感を感じる動機付けがなんなのかわかんないけど、それはわからなくてもいいと思っていて、わかんないけど心地いいこの時間のためなら、大抵のことはがんばっていけるなと思う。

例えば、脳死について考えたり、平和について考えたり、正義について考えたり、幸せについて考えたり、欲望と煩悩について考えたりして、堂々巡りしたり、思考が広がったり、新しい考えが思いついたり、説得力のある答えをみつけたりして、そんなことを一人遊びのように繰り返していていると、ふとこんなことは一文にもならないかもしれないし、そんなことを考えたところで結局は自慰みたいなものなのかもしれないと思うことがある。

でも最近思うのは、そういうことに脳みそを使った後には、間違いなく脳に血が巡ってるような気がして、それこそ走って体中の血行がよくなるみたいに、脳の中に心地よい疲労が残って、その感覚が好きだから、そういうことに頭を使うのがいやじゃないのかもしれない思った。

人のことには、冷静な分析をしたり、責任のないことには、一歩引いて物事が見えたりするくせに、そんな人の中になかにも、自分でも訳のわからないような感情があるんだというところが垣間見えたりすると、たまらなくうれしくもあり、わくわくもするのです、事実は小説よりも奇なりというけど、人が想像を超えた答えを出してきたり、とても意味不明なところに着地をしたりしているのが、すごく安心して、すごく暖かくて、そういうのをみたり聞いたり目の当たりにしたり、そして自分の中に沸いてきたときに、ああ生きてるなあ、人間っていいなあって、漠然と思ったりします。だからそういうものが簡単に垣間見える恋の話は大好物なのです。

必死にもがいている時っていうのは、もしかしたら本当はもうあきらめている時なのかもしれない。あきらめればあきらめるほど人間は必死にもがくのかもしれない。あきらめているからこそ希望を見いだそうとして、そうあるまい、そうなるまいってもがくのかもしれない。

あきらめるとあきらめないの二者択一を超えたところに、世界の希望がどういうものであって、世界の安穏がどういうもので、平和とか幸せがどういうものであるかというものの答えがあるんじゃないかと思う。

愛とか恋とか、好きとか愛してるとか、そんなものは道徳みたいなもので、いうなれば生命至上主義の妄想みたいなもので、その価値観を鵜呑みにしないようにしなきゃ、本当の意味での愛も恋も命の意味もわかんないんじゃないかと思う。

いいたいことが次から次に沸いていて、話しているうちに自分の中の点と点が線になっていって、なんで自分の脳みそと口からこんな言葉が生み出されたんだろうとか、意識が後からついてくるような感覚を味わうのは、やはり大抵誰かと話をしているときで、やっぱり、人と関わって、その時にはっきりと口にできる自分の想いを自分の中に蓄積させながら、出してはたたき、たたいては反芻して、そうやって練り込まれた自分理論は宝だなと思う。それはもうアイデンティティであって自分自身であって、いうなればただの臓器の塊が自分である唯一の証明なんだろうと思う。

自分がいま間違いないと思っていることは、一度ぶっ壊されないとそれより先には進めなくて、ぶっ壊されるためには、表に出さないとたたかれもしてくれなくて、表にだせるには、ある程度の説得力が必要になって、その説得力をつけるために今自分ができることをすればいいのだと思う。

自分が流動していく中で、思考だけが取り残されてはだめなんだろうと思う。変化しないものは死んだものだけだ。

そこにどんな意図があろうとも、自分の中にわいた感情は事実であり真実なんだと思う。時に人の感情は、意図した想像を遙かに超える。そもそも意図なんて思惑は、うまくいくこともいかないこともある。うまくいえば意図の通りだけど、うまくいかなければ読み違えたわけで、その間を隔てるものは、それを意図だと感じる自分の心の問題なんだと思う。そう考えればそこに意図があろうとなかろうと、自分の真実は自分の中にしかない。

意図なんてその程度にすぎなんだと思う。

人間のやることには必ずしも「ほころび」はあって、その「ほころび」を時に幸せと呼んで時に苦しみと呼ぶんだろうと思う。


| コメントを書く (0) | Trackback (0)
Title: 柳の木。
2010.10.12

先日うっかり切ってしまった柳の木。

ほんとに気落ちして、なにげにかなりショックだったんだけど。

ばっさり切ってしまったところの横から、新芽がでてきているのを昨日発見した。

二つも。

なんか植物ってすごいなぁ、生きてるってこういうことなんだなぁって、しみじみと感動した。

| コメントを書く (0) | Trackback (0)
Title: カメラ。
2010.10.11

久しぶりにMFのレンズを持って散歩にでた。

なんか半押ししてもピントが合わないという感覚になれるまで時間がかかったけど、やっぱり手で合わせて、じわっとピントがあってくる感じは好きだなぁと思った。

それにデジタルに普通のMFのレンズをつけてると、AFのレンズを使っているときにはできる絞り優先とかシャッタースピード優先が使えないから、久しぶりに絞りもシャッタースピードも自分で合わせなきゃならなくて、そしたら全く思い通りにとれないし、すぐに真っ黒になったり、真っ白になったりして、光を捕まえるのはこんなに難しかったかと思った。

なんか初めてカメラを買った時に感じた、自分の感覚で写真を撮る楽しさを思い出した気がした。

| コメントを書く (0) | Trackback (0)
Title: 彼岸花@小石川後楽園
2010.10.11

フォトアルバムを更新しました。
http://otera.daa.jp/ryophoto/index.html

| コメントを書く (0) | Trackback (0)
Title: 創業と守勢と何れか難き
2010.10.10

日本が島国であることで、今の日本のメリットも同時にデメリットも築かれているんだなと思う。

戦争に負けて、この資源のない国で、日本が大国と勝負していくときに、唯一武器にできるものは、創造性と高い技術、いうなれば人間そのもの、日本人というブランドで勝負するしかなかったわけで、焼け野原の日本でまず教育だということを掲げて、その狙い通り日本というものは、高度経済成長とともに、各分野でめざましい発展をした、そこで先人たちが一生懸命気づいた基盤の上に胡座を書き続けた結果が今の日本の姿なのかもしれないと思う。

創業と守勢と何れか難きという言葉があるが、いかなる分野であれ、守勢は難し、まさに日本は守勢に失敗したのじゃなかろうかと思ってしまう。

教育というのは本当に大事なんだと最近ひしひしと感じる。まさに教育なくして繁栄なしだと思う。

学ぶということは、自分を作ることであり、自分を作ることは世界をつくることなんだろうと思う。

大それたことを言うつもりはないけど、自分と世界は思っているよりも近い距離で結びついていて、世界に失望している暇があるなら、自分をもっと底上げしようと思う。

| コメントを書く (0) | Trackback (0)
Title: たまいれ。
2010.10.08

クラスの中にあきらかに身体能力の劣る子がいる。

その子のせいでそのクラスはリレーも一度も勝てない。なにをしても、その子が足を引っ張ってしまう。

そうすると、周りの子どもたちは、あのクラスはあの子がいるから勝てないんだよと口々に言う。

これを一生懸命がんばったからみんな1番だよとか!それでもみんなはがんばるんだよ!1番よりも大事なことはあるよ!とかいうべきなのか悩んでしまう自分がいる。

自分はそうはいいたくない。

子どもだって5歳にもなれば、誰のせいで負けているのかも、自分たちのクラスがなぜ勝てないのかだってわかるし、できる子だって自分がいくら頑張っても報われないことへのいら立ちや、ぶつけようのない思いを抱えているわけで。

それを無視してでも、ナンバーワンよりオンリーワンだよということは違うと思う。

頭じゃなく心で理解できなきゃ子どもにはなにも伝わらない。それが子どものデメリットであり、メリットでもあるんだと思う。

子どもの心は大人よりも、ストレートでまっすぐな分、ときに残酷でもある。でもそれを残酷だと感じるのは大人のエゴなんだと思う。

そういう感情が湧くことはもう仕方がないことだと思う。

大人になると、そういうことを包み隠して、覆い隠して、表面ばかりの道徳を指針と進んでいく、残酷なことを表に出さないようにして。

でも道徳で習うような世界は、この世の中に一握りしかなくて、大抵の人は、そんなのどこにも見当たらないような世界で生きている。

そのギャップが生み出すのが心の歪なんだと思う。

子どもの感性がのびのびしているのは、まだそのギャップにさらされてないからなんだろうと思う。

今自分が幼児教育にかかわる中で子どもたちに伝えたいのは、勝てないのは勝てないのでしかたない。そこで悔しかったり、悲しかったり、誰かのせいにしたり、なんでいつもこうなんだとか絶望したりしてもいい、誰かを恨んでもいい。

でもその気持ちを感じている自分をちゃんと見つめてほしいし、自分の中に沸いた感情に飲み込まれたりしないでほしいということだ。

誰かのせいにしてもいい、でも誰かのせいにしている自分がそこにいるよ。と知ってほしい。

なんかうまく表現できないけど。

子どもの中に素直に湧いた感情を否定することはしたくない、それよりも、その感情の矛先からしっかりと目を背けないような人になってほしいと思う。

これが自分の中にある理想論、でもこれを現場に落としていくとなると大変なことだ。

理想を掲げれば掲げるほど、そこに伴わせなければいけない技術や感性や、伝える力や、自分の中にあるものをもっともっと底上げしなきゃならないと思う。

| コメントを書く (0) | Trackback (0)
Title: 湯呑
2010.10.07

お寺で長いこと使っていた湯呑にひびが入った。

お茶をいれるとぽたりぽたりと雫が落ちてくる。

さてどうしようかと思ったんだけど、湯呑を修復してくれるところを見つけたので直して使うことにした。

この湯呑、なんの変哲もないその辺で売ってる何百円かの湯呑。みんなは買うほうが安いし、そんな大事なものでもないでしょうというけど。

物の価値は値段じゃないと思うのです。

なんでもそうなんだけど、価値はついてるものじゃなくて、つけていくものだとも思うのです。

初めからついてる価値なんてものは本当は大したものじゃなくて、そこに乗ってるプラスαで本当の意味での価値が決まると思うのです。

本当の意味の価値観は公約数の中ではなくて、自分の中にだけあるものだと思うのです。

何百円かの湯呑でも、直し直し何十年も使って、もしかして自分がおじいちゃんになってもこの湯呑を使ってたとしたら、ほかには変えようのない大事なもので、箱に入った国宝なんかよりも価値があると思うんだ。

30代になってから、いろんな折にそんなことを思う。

20代の時には思いもしなかったし、価値のあるものをほしいと思ったけど、最近は価値というのは自分で見出して乗せていくことであり、そうやって何かを大切にしていくことが幸せなことであり、そのほうが楽しいんだと思うようになった。

湯呑に対してだけじゃない。

これがものでも人でも、なんでも同じだと思う。

昔の人が「もったいない」といってものを大事にするのは、幸せの本質を肌でわかっていたからなのかもしれないと思った。

| コメントを書く (0) | Trackback (0)
Title: 上塩タン焼680円
2010.10.06

なんか抱えてたものが、終わったり、納品したり、自分のすべきことが終わったりして、ほっと一息。

来年のことをいうと鬼が笑うなんていうけど、もうそろそろ来年のことを考えて動き出さなければいけない時期になってきたので、本格的に頭を来年に向けてまわし始める前にバッグに一杯本を詰め込んで旅に出たいものだ。

なんてことを思うのらりくらりの今日。

自分の仕事机を眺めてみると、まだ団扇が数本筆立てにささっていて、それをみて思った。明確に目的のあるものは、その時には重宝されるけど、それ以外には無用の長物になってしまうんだな。

その目的が明確であればあるほどに。

これもメリットとデメリット、目的が明確でないと達成できないことがあって、社会もまわっていかないけど、明確すぎる目的をもっているからこそ、達成できないこともあるんだろうに。

あとは自分の選択の問題なんだろう。

未来は今の先にあるわけで、今をよく見れば未来だってある程度は想像つくんじゃなかろうかと思う。

今をちゃんと見てない人に限って、なにか悪いことが起きると、なんで自分だけこんな目になんて思うんだろうと思う。

いつだって今が未来だ。

そんでもって、自分の中に今があるんだ。

自分が今であり未来であるんだろうと思う。

いうなればそれが因果ということなんだろうと思う。


| コメントを書く (0) | Trackback (0)
Title: 鉛。
2010.10.05

ここのところの総括。

*

昔の遊び図鑑というのを買った。それを読んでいて、昔の遊びはほんとによくできているなと思った、想像力にあふれているし、ルールにも柔軟性があって、遊びというのは本来そういうものなんだろうと思う。

人の作ったシステムやルールではなくて、自分でルールから考えて遊んだことなんてここのところ何年もないかもしれない、遊びじゃなくてもそうだけど、自分でルールから作るっていくということほど楽しいものはないんだろうと思う、でもそれには相応の覚悟と責任が伴うんだけど。

*

あたりまえのようだけど、意識を置かない状態、いうなれば無意識というのは、力の抜けた状態を指すのではないなと思った。

無意識というのは、決して脱力ではなくて、意識をしないからこそどこかに力が入っている状態なんだろうと思った。

意識をしないと本当の意味で脱力なんかできないし、意識をしなければ本当の意味で力を抜くなんてことはできないポイントがあるというのを実感としてわかった気がする。

自分の意識をどこに置くか、それを明確にしていくことでわかることや、見えることが確実にある。

清沢満之の本の中に、自分の内側を見るのが智慧であり、仏法である。しかしそれをね、法に従わないで勝手にやってたらきっと頭がおかしくなっていた。と書いてあった。

道を内側にみつけるのが仏法である。

なんか少しだけどわかる気がした。

まさに自力無功の境地なんだろうと思う。

内省をしていくときに、なにに依るかということは大事なことで、そこで必要になる指針みたいなものが宗教でもあるのかもしれない。


*

雨の降る中、レインコートきて朝から夕方まで一日土いじりしていて思ったこと。

・人間の手というのは本当によくできている、どんなに機械が発展しても人間が本来持つ機能の代わりをできるということはないんだろう。

・鎌をつかって草刈りをしていて、自分が明らかに道具に慣れてくると、草がおもしろいように刈れるようになって、ほんとにちょっとした向きや力の入れ加減でこんなに道具の性能が変わるなんてと思ったら、こうやってなにかを体で覚えたのは久しぶりだなと思った。バク転以来か。

・農作業は腰とか腕とかの前に、まず握力にくる。

・農作業を始めたときは、ちょっと泥だらけになったら、うわぁ・・・と思うのに、あるラインまで汚れると、もうどうでもよくなって、開き直った途端に、土や雨が気持ちよくなる。これは農作業に限ったことじゃないなと思った。人生もそうだきっと。

・草刈り機(ガソリンで動くやつ)で大がかりな草刈りをしていたら、こないだ植栽したばかりの柳の木をばっさり切ってしまった。うわっ!と思った瞬間に、これをどうやったら隠せるか考えた自分にものすごい凡夫を感じた。結局あまりの伐採っぷりに隠し通せるわけもなく、素直にごめんなさいをした。数十万がぱあです。ひさびさに本気であわてるという感覚を味わった。


・雨の匂いと土の匂いと草の匂いが混ざり合った匂いというのは、なんか脳にくる。

・ひたすら雨音しかしない畑で農作業していて、あまりの静けさと孤独っぷりが妙に心地よくて、病院のベッドで死ぬくらいなら、こうやってひっそり地面に大の字になりながら死んでいきたいなとか思った。

・芯まで冷えた体ではいった大風呂の気持ちよさはなににも代えがたい。やっぱり幸せとかそういうものは、物理的なものでも、単体で存在するものでもなくて、合わせ技みたいなもんの中にあるのかもしれない。

・車の座席についた赤土は、ガソリンスタンドで車内清掃をしても落ちないくらい頑固だ。

*

やっぱり強さとはきっと、ありのままを受け入れられる覚悟みたいなもんなんだろうと思うし、それはきっと、いつだって目の前の事実をなにかと引き換えにしないということなんだろうと思う。

*

このあいだ葬儀にいった96歳で亡くなったおばあちゃんは、亡くなる直前にひ孫の顔をみて、「本当にうちの血筋はみんな眉毛が濃いねぇ」といって逝ったそうだ。それが最後の言葉だったそうだ。

なんかそれが妙にぐっときた。きっとね、息子とか孫とかひ孫とか、世代を超えても、血筋というのはあって、昔の人はそういう想いや考えとか「家」とか「家族」とかそういうものを大切に思う心が本当に身体の芯にあるんだと思う。

そんできっとそういうものの中から、願いとか想いとか、人間の大事な心が生まれてくるんじゃなかろうかと思ったのです。

なむなむ。

| コメントを書く (0) | Trackback (0)
Title: さいきょうのじじい
2010.10.03


理屈こねたり、腕を組んでわかったような顔したり、条件ばかりを並べたてたりすのは得意なくせに、でもやっぱり自分は、理屈とかでは説明できなくて、青臭くて、まっすぐで人間臭くて、どうしょうもないものが好きで好きでたまらなんだと思った。

大人でいることが習慣づくと、どうしても、条件や年齢や、何をしているかとか、そんなどうでもいいところでばかり会話をして、そんなどうでもいいようなところでしかコミュニケートできてないのに、満足したような気になれるようになって、しかもそれになんの疑問も持たないようになる。

自分の中のそういう青臭いところを守ろうと思えば思うほど、もっと強くなきゃいけないと思うし、そういうものを守るために、賢くなりたいし、もっと経験を積みたいし、誰かの中のそういう全部を自分の中に許容できるくらいに学ばなきゃいけなんだと思った。

いうなれば、全裸で最前線を飄々と歩くために必要なものはなんであるのか考えて逆算でいまそれを、自分の中に落とし込んでおきたいのです。そこに必要なものは、きっと物理的なものではないなにかだと思うのです。

| コメントを書く (0) | Trackback (0)

  • 自己紹介:1980年1月9日生まれ。どこからを趣味と呼んでいいのかは模索中。好奇心は旺盛。