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Title: 自分の100%
2006.07.29 友達の日記にこう書いてあった。 >>自分の100%って何がどうなったら100%なのかな。 前に、自分にとっての100%ってのは何だろうって考えていたときがあったからこの気持ちはすごいよくわかる。 その時にでた答えは、おれにとっての100%とは時間を戻せたとしてもきっとその時に同じことをすると思える生き方をすることだと思う。 そういう生き方がきっと自分に成長と自信ともたらしくてれるんだと思う。 Title: 正義の味方はだれの味方だ
2006.07.23 昨日ラジオから正義の味方って言葉が流れてきて、なんか妙に心に残った。 最近正義って言葉をきく度になんかもやもやがのこる。 正義って言葉はすごく偉そうで、あつかましくて、残酷だと思う。 この世の中に正義っていうひとくくりで片づけられるモノなんてひとつもない。 ここ最近感じるのは色んな立場で色んな意見がある中でいちいち全部の人に100%満足してもらうことなんてできない。だから何をもって一番とするかであってすべてに正解なんてものはない。「正義」なんてまるまるぜんぶ正しい単語を使える場合なんてそうそうないはずだ。 歴史問題だってそれぞれがそれぞれの視点で主張するからこじれる。歴史なんてただのその瞬間の現実だし、その時代その時代でにうまいように書き換えられてるだけだと思う。正義っていうのはただの大義名分であったり都合のいいつくりばなしに使われる決まり文句みたいなもんなんじゃないかと思ってしまう。 自分が正しいと思うことを信じるだけだ。 だれかとか何かとか歴史とかじゃない。 なによりも自分を灯火としていきていくことが大切なんだと思う。自分が正しいと思ったことを信じるだけ。それが正義なのかもしれない。正義だから信じるじゃなくて信じるから正義になる。 そう考えれば正義の味方はいつだって自分の心が生み出すモノなのかもしれない。 でもそれが独りよがりで身勝手な正義にならないためにはいつだって自分だけの目線をしっかり確立しないとならないし、そのためにはたくさん経験してたくさん見てたくさん感じないとだめなんだと思う。物事にはたくさんの角度があるってことや、自分の見ている世界がすべてじゃないってことや、世界は広いってことを肌で感じることが大切なんだと思う。ましてや苦しみや悲しみを知らない人に苦しみや悲しみは理解できないし、なによりも守るべきモノをもっていない人間になにかを守りたい気持ちがわかるはずがないから、たくさんそういう経験をするべきなんだと思う。 道に迷ったときにたよりになるのはずばりいっちゃうおばさんでも、だれでもすくってくれる宗教家でも神様でもない。 いつだってぶれない自分の信念だ。 Title: すきかきらいかたのしいかたのしくないか
2006.07.09
その間なんてない。 楽しいこと好きなことをしてるときはどんなにつかれてても寝てなくても力が沸いてきて同時に自分の中になにかがどんどん流れこんでくる気がする。逆に楽しくないことや嫌いなことしてたら、自分の中に蓄えてあるなにかを間違いなくすり減らして体を動かしてるんだと思う。 いまさら嫌いなモノ好きになる必要なんかないし、楽しくないモノを楽しもうとなんて思わなくてもいいんだと思う。 いままで生きてきた時間は自分の中のそういうものをはっきりさせて不純物を見極めるための時間だったんだと思う。これからはいままでみてきて感じてきた自分の感性を信じて自分が好きだとか楽しいと感じることをたくさんするべきなんだと思う。 ここはもう人生の第2ステップなんだと思う。 よく大人になるとなにかを失ったり、子どもの時のほうが純粋だったなんていうけどそれは違うと思う。 大人になればなるほど自分のなかの好きなモノや好きなモノとかはっきりとわかるし、そうじゃないものの区別もしっかりつくし中途半端な好きはここまでのこってないわけだし。自分のなかの不純物をちゃんと見極めてそれを取り除けるだけの自分ができあがってるわけだ。 そういう意味じゃ大人になればなるほど歳をとればとるほどいろんな事に純粋になるんじゃないかと思う。 すきなものはすき。 いまさらこの感覚疑ったってしょうがない。 きらいなものはきらい。 まちがいない。 |
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