• PHOTO最終更新日2010年10月11日



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Title: 土脉潤起
2009.02.27

こんなに本格的に雪がふったのはいつぶりだろう。

寒いのは苦手だけど雪はいい。雪が降らないと思いだせないことや雪が降らないと感じられないことがたくさんある。

あたたかくなったり急に冷え込んだり、温度差があると人間の体にはやっぱり目に見えない部分でもたくさんの負荷がかかってるんだと思う。温度差があったり、俗にいう季節の変わり目には亡くなる人が多い。お寺にいると本当に肌で感じることの1つに命と気候や季節の関係というのがある。ああこれは通夜葬儀がはいるだろうなという予想は大方外れることはない。

お寺にいてそういうことを肌で感じて、たくさんの人の死に立ち会ってきてるとはいえ、数日の間に、何人も親しかったおじいさんやおばあさんが亡くなっていって、この間笑顔で話したばかりの人たちの死を目の当たりにすると気持ちの整理をつけるのに時間がかかる。

人は誰かの死を通してしか死というものを肌で感じることはできない。死を目の当たりにするたびにああ人間は確実に死ぬんだなと当たり前のことがお腹の中にず~んと響いて、そのおじいさんやおばあさんが亡くなっても世界は何事もなかったかのように回っていくことになんか、つめたい水を頭から浴びせられたような気分になる。

原始仏教の経典の中で仏陀は妄想という言葉をよく使う。

生きていると日々の生活のことや、仕事のことや、友達のことや、大切な人のことや、ほしいもののことや、おいしい食べ物のことや、そういうことばっかりを考えて生きている。でもそれは一種の妄想の1つであって、そういうことを考えているということは同時に自分自身や、生きているということ、命とか、簡単にいえば生老病死の根源的な問題に向き合っていないなによりの証拠だという。確実に目の前に迫っている問題を素通りしてるにすぎないという。

これをすぐには腹からわかることは難しいけど少しづつその言葉に質感を感じることができるようになってきた気がする。

どんなに着飾っても、若くても、楽しい仲間に囲まれてても、大好きな人がいても、いつかは病気になって老いて死んでいく。

バブルの時代にはダンディーで羽振りも良くたくさんの仲間に囲まれていた人も、いまは口からよだれをたらして、つえをついて、デイケアの人に付き添われてしか外に出られないとか、夫婦仲良くおしどり夫婦で幸せでも、奥さんが痴呆になって施設に預けていまは一人で暮らしているおじいさんもいる。そういう人生の過程をたくさんまざまざとみると、本当に世界は無常だと思う。泣きたくなるくらい世界は無常だと思う。

でもそれが人間だし、それが生きていくということなんだと思う。どんなにきれいごとをいっても最後は白骨になっておしまい。そんだけなんだなと思う。

世界が無常であるということを嫌というほど見せられれば見せられるほど、今という時間、今という瞬間がどれだけありがたいことで、幸せなことなんだと気付かされる気がする。

今はもう明日にはない。

人の死を通して自分の中に生死の問題をしっかりと見つめることが自分の職業であり仕事であるとほんとうに最近はお腹から思える。

「あわれというも中々おろかなり。されば、人間のはかなき事は、老少不定のさかいなればたれの人もはやく後生の一大事を心にかけて・・・」

寒さと白骨の御文が身に染みる・・・蓮如さんの言葉は本当にストレートだ。

思うに仏教はある種クールダウンともいえるような気がする。

なむなむ

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Title: パコパコ
2009.02.24


どうしょうもなく疲れて煮詰まっていたら。

待ち合わせをしていた友達がむき出しのトイレのパコパコをもって車に乗り込んできた。トイレが詰まったので買ってきたそうだ。

なんかその滑稽な姿に肩の力が抜けて、ふっと心が軽くなった気がした。

世の中どこで救われるかわからんもんだ。

パコパコに救われることもある。

詰まったうんこにありがとう。

なむなむ。

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Title: いずみや。
2009.02.22

目に見えるということだけで、それを自分が正しくとらえているかどうかは定かじゃない。という当たり前のことを繰り返し繰り返し自分に言い聞かせてるのに、脳みそと心はニワトリなみにそのあたりまえの事実をかき消して自分だけを棚に上げて、すぐにわかったような顔をさせる。

赤といわれて赤い絵具をとるということは、きっと赤っていうものがなんだかわかってないんだと思う。いまの自分は赤といわれればきっと赤の絵具をとってしまうと思う。

つかんだと思ったものこそつかんでいないという事実だけは忘れないようにしたい。その感覚だけは自分が前に進むのに絶対に必要な感覚だと腹から思う。

愛も、いたわりも、思いやりも、慈しみもそれを生み出すのはぜんぶ感性だと思う。

感性というのは自分を棚に上げないということで、感性というのはきっと感覚を自分の中に落とすということなんだと思う。その感覚を培うのが経験なんだと思う。経験して得るものはたくさんの感覚と実感、肌触りや質感。経験してもそこになんの質感も得られなければ意味がない。貪欲なまでに質感にこだわりたい。きれいじゃなくていい、ぶざまでもずるくても青臭くても汗臭くてもいい。子どもだといわれてもいい。質感にこだわり続けたい。

質感というのはつまりは、人間はその立場にならないとなんにもわからない生き物なのにわかった顔をするのが恐ろしくうまい生き物だということをしっかりと自覚するということじゃないかと思う。質感のない言葉や議論ほど空虚で建設的でないものはない。一人っ子には大家族の悩みはわからないし、大家族に一人っ子の気持ちはわからないってなもんでその環境立場にならなきゃ絶対にわからない感覚というものがある。細かく言えばまったくおんなじ環境なんかなくて、誰も自分のことをわかってくれないと思うのと同じくらい自分は世界のなんにもわかってないと思った方がいいんだと思う。

大切なものになればなるほど言葉ではなんにも伝わらなくて、言葉で伝えられないようなものを伝えられるのが感性であって、そういう言葉では伝えられない感覚を自分の中にたくさん抱えていくということが人や自分を知るということなのかもしれない。


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Title: めしじま。
2009.02.14


なんだかんだいってベタだといわれたとしても、みんなまっすぐな想いとか、相手を想って涙を流せることとか、誰かのために頑張る姿とか。そういうものを心のどこかで求めてるんだと思う。

そういう姿に心を動かされるんだと思う。意図のない想いは人の心にストンと落ち込む。

人っていいなとか、2人っていいなとか、友達っていいなとか、そういう気持ちを誰かに残せるっていうことは素晴らしいことだと思う。

昨日はなんか人の嫌なところをたくさんみせられたような気がして、すごくいやな気分だったのに、今日はそんなのを忘れるくらいの暖かさと温かさですごく救われた気がした。

やっぱり自分はきれいごととか理想論とか、青臭いといわれても、いつまでも青臭く人間くさく理想を恥ずかしげもなく語れるような人間でいたいと思ったし、いつも人と関わっていたいと思ったし感謝したいと思った。人は支えられてることに気づけてはじめて誰かを思いやったり優しくなれたり、そして素直になれるんだと思う。

そういうことを考えるきっかけをくれたことに感謝します。

いい二次会だったよほんとに。

ああなんかだめだな。ここんとこの自分を反省した。

どうしても自分の立場にいると後先とか、意図とかそういうものを人に求めてしまうけど、もっと根っこの部分で人に関わっていくことだけは忘れないようにしよう。

大谷大学のキャッチコピーは飾りじゃないぜ。

あ。

ちなみに触れないようにしてるわけじゃないですよ。

今日はあの日ですよね。

もらいましたさちゃんと。

数じゃないです。義理でもいいんです。

大事なのはその事実です。

なんだかんだ言いながらもうれしいもんなんだ。いくつになってもそういうのは。

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Title: はるいちばん。
2009.02.13

暖かい。それだけで浮かれる自分のどうしょうもなさにあきれつつもそういう自分でいたいと思った。

*

おなじものに感動できて、おなじものに笑えて、おなじ言葉に共感できるということ。それはどこにでもあるようでどこにでもない。

*

感性というと一言で片付いてしまうけど、一つの出来事や事実から、どれだけのことを見ることができるか、どれだけのことを感じることができるか、その数が人生の幅になるんだと思う。

月がきれいだ。それだけの夜にどれだけのことを自分の中に落とし込めるか。

春一番が吹く。それだけのことをどれだけのことに自分に照らし合わせるか。

感性を磨く。それだけでたいていの問題は解決できるような気がする。自分が真宗を扱う上で一番大切にしたいのはそこだと今は胸を張って言える。

*
人間その立場、その状況になってみないとわからない。あたりまえのようだけど、それにちゃんと質感をもって感じるっていうのは難しい。

気づけばつい自分を棚に上げたり、知りもしないのに知ったような顔をする。自分の価値観が一番であるかのように。

自分は自分、他人は他人、どうして違いを必ずしも認めなきゃいけないとは思わないけど、せめてその理由でそれを排除したり傷つけたりするのは絶対に違うと思う。

チベットとかそういう大きな問題の話だけではなく、いま目の前。そこに確実にある問題の話。

*
こないだ久々に自分が小さいときに育った場所をゆっくりと歩いた。そしたらあっちこっちにまだあの頃の傷跡とか思い出がこびりついているような気がした。

あの頃足が速いことと、高い所に登れるということは一種のステータスだった。だからあの頃はとにかく足がはやくなりたかったし、高い所に登った。そんなことを思い出しながら歩いてたら自分が登ってた木や建物にさしかかった。そしたらその場所のあまりの低さにおどろいた。

あの頃ヒーローになりたくてものすごい怖いのに無理して登った場所は、こんな高さだったんだと思ったら、なんとなくうれしいようなさみしいような微妙な気持がした。

でもきっとそれに気づけてよかったんだと思う。いま目指す頂もきっとそうであってほしいと思う。

*

体の血の巡りを自由に意識でコントロールできるかということを漠然と考え始めていたら、ふと思ったんだけど、下世話な話ですが、男の人はさ、ちょっとエロいことでも考えれば一か所に血を集中するのなんてたやすいじゃない。おんなじ原理で意識を先に体の血流をどこかにピンポイントで流すことは可能なんじゃないか、胃とか手足とか。そんなことを思いついて実践を試みるも未だ効果を実感できません。原理はおんなじはずなのに。

ってな話をあちこちで鼻息荒くはなしてるのに、大抵は「おい大丈夫か」といわれる。

すごい発見だと思うんだけど。

*

最近自分がなにかを考えるときの柱というか、自分の中で真中にあるものは、物事は関係性でなりたっているということ。それは自分を棚に上げないことであり、感謝することであり、今を大切にしようということ。仏教的にいえば因果とか因縁、宿業ともいえるのかもしれない。そしてそれは一如でもあり。空でもあるということだと思う。

例えるならば頭痛がするときにほぐしたほうがいいのは、首や目だったりすることであったり、お腹を温めるとそこを温めるために使っていた血流が手足に巡るから手足が暖かくなることとか。

人間の脳は首の上にないと機能低下することとか、つまりは寝たきりになることが引き起こす影響は手足だけの問題じゃないこととか。冬に寒くて縮こまってると姿勢が悪くなって胃にも腰にも負担がかかるとか。姿勢を変えるだけでいろんな所がかわる。

風が吹けば桶屋がもうかる。ということを突き詰めて考えてみると面白いくらいなににでも通ずる。

楽しいってなにかとか、命って何かとか、自分って何かとか、好きってなにかとか、友達って、家族って、そういうこの世のすべて全部に関係性を見出そうとおもったら関係性の見い出せないことなんて一つもない。

自分が思うことはそういうすべての関係性によってもたらされている。

その目に見えない部分まで含めて、その大きな関係性や働きを他力と呼ぶんだろうと最近うすうすだけど感じる。

種があっても芽は出ない、土をかけて雨が降って、それだけでも日陰じゃ芽は出ない、太陽があって、誰からもほじくり返されずにいてはじめて芽が出る。でもその種自身は自分で雨も降らせないし太陽も照らせない。

そういうことなのか。

なむなむ。

*

忘れるということは。人間の機能の中でものすごく大事な機能だと思う。

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Title: ただただただ愛しき日々よ。
2009.02.11


はきだす。

いろんなもんを。

おさめる。

おろんなもんを。

そんでおわり。

事実は後にも先にも1つだけ。

どうおもわれるかなんて考えたところでよく思われつづけるなんてできないから。

神経をすり減らしてないと保てないものなんてさっさと手放したほうがいい。

考えたところであんたはあんたで。

考えなくてもあんたはあんただ。

あんたがあんたならそれでいい。

ひっくるめてそれでいい。

自分ってのは、きっとどこにも力のはいってない状態のことを呼ぶんだと思う。

その状態がいちばん心地いい。

心地いい。

そんで力のはいってない状態がきっと一番しなやかで一番強い。

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Title: 眠
2009.02.08


寒くて寒くて。しかもやたら眠くて眠くて。ほんと人間も動物だなとしみじみと感じる今日この頃。やっぱり焼き肉はおいしいと思う。上ザブトン最高。焼肉を食べてほろ酔いで見上げたら月が煌々と明るくてすごくきれいだった。

*

今日はお寺に笑点でおなじみの好楽さんの息子さんである三遊亭王楽さんと、マジック界の大御所ナポレオンズのボナ植木さん(大きい方・マジックする方・メガネの方-wikiより抜粋)の息子さんである三遊亭好の助さんがきた。二人とも落語家さんです。二人ともほとんど同い年くらいなのにものすごくうまくて面白かった。やっぱ落語っていうのはすごいと思った。

島国特有の文化の中にある、深層心理の中にある共通意識に語りかけるというか、高座にすわって演目が始まると、そこには一人しかいないのに昔話の絵本を読んでいるみたいに次から次へと頭の中にはっきりとその情景が浮かぶ。そのしぐさその間合いの中に日本人の共通認識が確かにある。

日本の文化はマイナスの文化であるというのを読んだことがあるけど、ほんとそうだなと最近常々そう思う。

*

一期一会という言葉はよく聞くし、フォレストガンプで一躍有名になったけど、最近になってその言葉に改めて質感をもってお腹の中に落とせたような気がする。

一期一会というのは人との出会いに限らず、そこにある時間や空気、タイミングや目に見えないたくさんのもの全部なんだろう。奇跡的な確率が集まって「今ここ」があって、その今とおんなじ瞬間はもう二度とない。

いまの時間空気、今の大切なもの、今の大切な人、今の仕事、今のなにげない会話、全部が全部一秒ごとに刻々と変化していて気付かないうちに全く違うものに変わっていく。自分が年を追うごとに感じるのは、自分の脳みそが考えることが確実に10年前とは違うということで、よくもわるくももう10年前の感覚には戻れない。それは自分の親もそうで、自分を取り巻く全部の人がそうで、友達も大切な人も、みんながみんな10年前とは違う。

あの時はもうない。そんで今ももう10年後には確実にない。

今は。今しかない。だからいい。だから楽しくていい。永遠にあるものになんて何の価値も魅力もない。

人間がおもしろいのはきっと死という区切りがあるからで、それを生きてるうちにしっかりと認識できる生き物だからなんだろう。

*

こないだ久々にパックの納豆を買ってきたら、醤油がゲル状になって箸でつまめた。

はじめはどうしょうもなく気持ち悪かったんだけど、食べてみりゃ味が悪いわけでもないし、むしろいままで納豆のデメリットだった部分を確実に消し去っててすごいと思った。きっとこれ、納豆が大好きな人が考えたんだろうなと思う。PSPが計量化された時にも思ったけど企業努力ってすごいな、その時に最高だと思って出した商品に手を入れて、更によくしようという姿勢は自分も見習わなきゃと思うし、そういうことを真剣に考えている人がいるかと思うとなんかわくわくする。

*

寒さ暑さも彼岸まで。あと1ヶ月もすれば朝布団から出るのがつらくなくなるんでしょうか。あと1ヶ月もすればこの眠気から解放されるんでしょうか、でもそうしたらあったかくなってまた眠いのだろうか。

そんで春眠暁をおぼえず。なんてタイトルで日記を書くんでしょうか。

しかしなんでこんなに眠いんだ。やれやれ。

*

なぜか最近無性にcharaを聞きたくなる夜が多い。

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Title: ハロー・ハロー
2009.02.07


言葉に残された質感はその時のものだけど、その時にその質感のどれだけを感じられていたんだろうか。言葉にのった質感が時間差で今になって心の中にぱぁと広がってどうしようもない気持ちになる言葉がたくさんあった。

言葉の持つ力はやっぱりすごいと感じざるをえない。

やっぱりその人の書く言葉が好きだという感覚はきっとずっとかわらないし、そういう言葉を書くことのできる人のことはずっと大切なんだと思う。

いまさらなんだけど。

ありがとう。

あなかしこあなかしこ。

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Title: LE TEMPS DES CERISES
2009.02.06

なんか知らないけどここ最近勝手に自分へのご褒美週間と題して胃袋と物欲が卍解です。

言い訳するわけじゃないですがセカイモンなんていうオークションのサイトなんかを教えてもらったばっかりにくだらないものを調べては、うわぁこれほんとに落札しちゃったらどうしよう。ポチッ。なんて作業を夜な夜なやってます。そんで朝になって、ああよかった落札されてなかった~うれしいような悲しいような・・・なんて毎日です。さすがにライトセーバーは落札されなくてよかったです。でも無駄にシガーボックスとか、靴とか、Legoとか、次から次に落札まくりです。

物欲といえばオークションではないですが、なにを思ったか雑誌でみつけたバカラのグラスに一目ぼれして今日バカラショップで衝動買い。なぜかいつからなのかいろんなグラスにテンションがあがる自分がいます。それで今いっぱい飲んでるのと疲労と若干の眠気でテンションが少々おかしいです。

しかも物欲だけにままならずに、飲んだ後のラーメン欲求も卍解です。知る人ぞ知るラーメン屋があるんですよ思いっきり近所に。飲んでかえってくるとその前を通らなきゃいけないんですよ。しかもそのラーメン屋屋台みたいなもんでみんな外で食べてるわけです。

このくそ寒い夜中にみなさんおいしそうな湯気につつまれながらはふはふズルズルと小気味のいい音を響かせているわけですよ。そんで並々と注がれてスープをうやうやしく飲んでは、うまそうな吐息を洩らすわけです。

そんなところをですよ。ほろ酔いで通りかかっても、いつもいつも我慢してきたんですが、なぜか今週は自分へのご褒美だと勝手な理由で週に2回もたべて心地よい満腹感で眠りについています。次の日に胃が持たれても全然後悔しません。

なんかだらだらと文脈もなく書きたい気分なんでこのままだらだらと。

「ターバンタカハシの踊る かる~た」または「セクシータクシータカハシドライバーの12星座占い」というのを知ってる人いるでしょうか。

かんなり限定されたところでしか見ることができないテレビ(タクシーTV)で流れてるんですが、これ地味におもしろいです。タクシー普及委員会の理事をしているのでよくタクシーを利用するのですが、たまに乗り合わせるテレビのついてるタクシーで何気なくつけたのがそもそもの出会いなんですが、このタカハシさんのシュールな踊りと、意味のわからないコメントのコラボは最高です。おもわず笑いそうになります。

今度タクシーに乗った時にテレビがついてたらぜひみてください。天一のこってりスープ並みに癖になります。

さて昨晩の夢の話ですが。

黄色いあひるのおもちゃを川で拾って狂喜乱舞する夢を見ました。

なぜかといいますと。

三ヶ月前、NASAの研究者たちが風呂用のおもちゃのアヒル90個をグリーンランド西岸のJakobshavn氷河に開いた穴から投下したんです。

北極の氷冠の解けかたを追跡するのが目的ですが、現時点でアヒルはまだ一個も見つかっていないそうです。最初にアヒルを見つけた人にはNASAから100ドル(約9000円)の賞金が出るとのことで、アヒルにはメールアドレスと共にイヌイット語を含む3カ国語で「謝礼金」と書いてあるそうです。

このニュースを見て、これみつけてぇ!とずっと心の中に引っかかってるからだと思います。夢の中ではそのあひるの後ろにはっきりとNASAと書いてあるのをみて狂喜乱舞しました。ほんと夢でショックです。

NASAつながりでもうひとつ。

ホッファさんの本を読んでいてなるほど。と思ったんだけどたしかにスプートニクがアメリカに与えた影響というのはものすごく大きかったのかもしれない。あれがなけりゃNASAの設立もアメリカの宇宙開発もあと10年は遅れてたかもしれないし、そうなったら今の世界の勢力バランスもう少し変っていたかもしれない。

こないだNASAとSONYは似ているといったらあんまり受け入れられませんでしたが、あれから考えましたがやっぱり似てると思います。似てると信じてます。いや似てると信じたいです。どこがといわれれば。姿勢が。としかいいようがありませんが。ニュアンスといいますか、テンションの問題です。

それとホッファさんの本を読んでみてその思想の核になる共通したもののとらえ方というのは少し前に読んだ脳科学の本に書いてあった、人間の脳は普段使わない回路を使いたがる傾向があるというのとすごく似ていると思った。つまりはホッファさんのものの見方と、現代でなんでスピリチュアルが流行るのかという脳科学の見方には分野は全然違えどものすごい共通点があるような気がします。

しかし海外の本を読んでいつも感じるのはこれを原文で読めたらもっときっとすんなり入ってくるんだろうないうことです。どうしても英語を日本語に直すときには訳者の感性というものを通すわけでそこの摩擦なしに読めたらいいなといつも思う。それは言語的な部分だけでなくて。

こないだ紅の豚の話ができて相当テンションあがりました。頭が紅の豚モードです。さらばアドリア海の自由と放埒の日々よってわけです。いつかサボイアで飛んでみたいなぁ。飛行艇なら落ちても安心だし。誰か今度「それバイロンかい?」といってください。「いや俺だよ。またな」といって去っていきますので。

どうにも雑誌好きなもので。

さすがに家にたまりにたまった雑誌を整理しないとどうにも収集がつかなくなってた。気になる記事だけをとっておいてあとは全部処分しようと意を決したのに今日も本屋で雑誌を衝動買い。自分へのご褒美と題して。中でもPenの利休の特集とNUMBERのオシム監督の記事は面白かったです。

けっこう疲れてるときにはたまに真っ暗にしてお風呂に入ります。ほんとに真っ暗で。そんでその中でぼぉーとしてるときにふと、真っ暗闇を怖いなと思う心と、昨日のこととか明日のことで悩んでうじうじしてるときの心はおんなじなんじゃないかと思った。どっちも得体の知れないものを勝手に生み出してるのは自分自身。

うっかり流れてきたみそらひばりを聴いていたら、みそらひばりより歌のうまい人はいないんじゃないかと本気で思います。

さてそろそろお彼岸の原稿にとりかかります。今回は「慚愧」ということをテーマでいきたいとおもいます。ここのところお通夜続きでほんといろいろ考えさせられることが多い。命っていうのはなんなんですかね。

ポルコの魔法が最後になぜ解けたのかということとおんなじくらい謎だ。

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Title: ちべ。
2009.02.04

新年の抱負がうまいこと話せなかったので自分なりになにが言いたかったのか整理してみることにする。

ここ数年事あるごとに感じることの1つに、自分の中にあるフラグみたいなものが立っているときには、すべての目の前にある事実や出来事が点ではなくて線でつながるというか、一見なんの関係もないようなところにその答えが落ちてたりするということを体で感じる。

バク転と仏教はなんの関係もないようだけど、バク転をしてるときに、人間は時間軸にそってなにかを考える癖があるけど、「できる」とか「わかる」っていうのは同時並列なんだとか。時系列にそっているときにはなんにもみについてないんだなとか。

こないだフリークライミングをしたけど、壁を登ってても、たかが壁上りでも、つかみどころを変えるだけでひょいと上がれるところもあるのに、力いっぱい体をあげようとしても登れないところとかあったりとか、体の置きかたのバランスを変えるだけで指先にかかる体重が全然違うんだなとか。壁から降りるときにロープに全体重をかけて後ろによっかかるのってものすごい怖いんだけど、その怖さってものすごく宗教的に絡めていけるなとか、事あるごとに真宗にとりこめるなとか思う。前にラフティングで川に浮かんでるときにも思ったんだ。

思うにようは、自分の中にある芯みたいなものが確立されたら、なにをしてもそこに答えをみつけることができると思うし、むしろいろんな角度でいろんな挑戦をしているときのほうが気付かされることがおおいんだと思うようになった。

感性みたいなものをしっかりと磨き続けておけば、いざなにかを始めよう、なにかになろうと思った時に自分のしてきたこと、していることで無駄になることなんて1つもないと思う。

点である事実なんてなんもないと思う、それは自分の中で点にしてるだけで線にしようと思えばできないことなんてなんもないと思う。むしろ世界は関係性と関わりでできていて、そのものだけで成り立ってるものなんてなにもないと思う。木を見て森を見ず森を見て木を見ずっていうことなんじゃないかと思う。

自分の中でそういう柱というか、芯というか、真宗っていうフラグがここ数年ではっきりと立った気がすると思う、だから何をしてても自分の生活や考え方の中にそういうものを見つけることができるようになったと思うから、そういう意味で、いままで以上にいろんなこと、やりたいと思ったことしたいとおもったことはなんでもやっていこうと思う。なにをしてても自分の中で大切なことを感じることができるなら楽しいことややりたいことをしてたほうがいいにきまってるから、そういうことを思いっきりしていこうと思う。

ということが言いたかったんです。

ちべのみなさまには本当に感謝してますよ。

あの気の抜けすぎた空気は、あの時あの場所でおんなじ時間を過ごしてなかったら作り出せなかったと思うし、あの時あのメンバーが奇跡的に同じ車でヒマラヤを越えたという事実は財産だと思います。

ただ声がでかすぎだと思います。あとみんな会話が完全にとっ散らかってる上に自由すぎだと思います。

以上。

と書いたらタイミングよくメール。

ナイス親知らず!

いまからエリックホッファー読みますよ。


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  • 自己紹介:1980年1月9日生まれ。どこからを趣味と呼んでいいのかは模索中。好奇心は旺盛。