Title: 縁なき衆生は度せるのか。
縁なき衆生は度し難し。
という言葉を考えるときに、いままで自分は、その縁というものを、「自分と袖振りあわない人たち」という意味で。物理的な意味合いに重きを置き過ぎていたかもと思ったのです。
そういう意味では、自分に縁がなくても救われる可能性はあるのかもというところで迷っていたわけですが。
でも見方を変えれば、縁なきというのは、仏縁なきという意味にも捉えられるかもしれないと思いました。
身近に、高度経済成長まっただ中の、資本主義、物質主義にどっぷりつかって、神も仏もないぜ!説法なんてしんきくさいからやめてくれい!といっていた、おじさんが、いま色々な経験をする中で、仏法に耳を傾けるようになったということがありました。
いけいけどんどんで、会社を盛りたてているときには、仏法のぶの字も聞かなかったのに。
その時はお寺に縁あっても、自分の中にそれを聞く仏縁がなかったわけです。なんてことがあって、きっと縁なき衆生というのは、仏縁なき衆生ということになるのかもしれないと思ったわけです。
そこで思ったのが、自分の役割、さらには僧侶の役割というのを考えた時に、僧侶は、お釈迦様の言葉を、自分を媒体に伝えているわけで、いうなれば自分を通して、仏縁を作り増やしていく存在といえると思います。
でも正直、今の自分には物理的な縁ある友達でも、仏縁のない人はたくさんいるわけです。 だから、物理的な縁だけを指して、度せるか度せないかというのは、一概にはいえないなと思ったわけです。
究極いうなれば、「縁なき衆生は度し難い」というのは、自分の中にちゃんと仏法が落ちていて、それを伝える力のある人ならば、自分との物理的な縁があれば、度せる、といいきれると思うんです。
自信を持って、自分に縁なき衆生は度し難いと。なぜなら、自分は仏縁をいただき、自分に会うことは仏縁だからと。
それが理想のお坊さんですし、僧として、もしかしたら当然の姿勢なのかもしれません。
ですが、自分はまだいえねぇ。と思ったりするわけです。
自分の場合縁があっても度せないし、やっぱ仏縁がなければ度し難いと思います。
あの言葉は、お釈迦さまが発したものだから、その言葉をいまここで、その言葉じりを、度せるのか度せないのか。と議論することは難しいことだと。お釈迦様の場合、本人は仏縁そのものなので、縁なき衆生は度し難い。は当然だと思います。
なにがいいたいかといいますと。
縁なき衆生は度し難し。これを仏縁にということに置き換えると、仏縁なき衆生は、やっぱり度し難くて、同時に自分にとっても、自分=仏縁という風にはまだなれてないなと思ったので、
自分が今、縁なき衆生は度し難いか否か?
ときかれたら度し難しにいこうと思ったわけです。
もしかすると「縁」というのはいいかえれば「機」という意味あいが強いのかもしれないです、そう考えれば、それは「対機説法」にもつながってくる部分であると思うし、「自燈明・法燈明」ともつながってくるような気がするわけです。
でもまだこれに関しては、まださっきお風呂で思いついたばかりで考える余地がありそうですが・・・
POSTED @ 2009.11.28 |
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