• PHOTO最終更新日2010年10月11日



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Title: いとかなし。
2010.11.28


「苦しみはもうなくなった。あるのは煩悩だけだ」

そういった人がいて。その言葉を聞いてずんっときたわけです。

そうなんだよなほんとに。

苦しい時はたいがい自分がああ見られたいこう見られたい誤解されたくない、あれがほしいこれがほしい。それは煩悩なんだよな。

苦しいという感覚を煩脳だといって切り離せること。そこにある感覚、ほんとうに感覚と観念の世界だけど、視点を変えるだけでベクトルを内側に向けるだけで世界が劇的に変わるってことはあるということをここ数年で何度も感じた。

つまりは人間は煩脳を切り離せないから、それとどう付き合うかなんだ。その付き合い方の1つがそれを苦しみと切り離すということなんだろうと思う。

正直言葉にはなんの意味もない。感覚を文字にしたらこうなるというだけのことだから。大事なのは後付けでもその言葉にのったものに自分の感覚がどこまで同調するかなんだと思う。

感覚を言葉にするというのは難しい。でも感覚を文字にして、その言葉がだれかの心を動かすんではなくて、その言葉を絞り出した背景がそこにのってはじめて心に響くんだろうと思う。

偉人の名言や格言なんてのも、その言葉がだれかの心を動かしているんじゃない。それはその言葉に結びついたプロセスであり、人生の可能性あり、結果でもあるわけで。

その感覚を伝えたくとも、自分の語彙のなさと力のなさではこういう形でしか表現できない。

いとかなし。

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Title: 数えきれぬ。
2010.11.28

なんかいままで自分が読みあさっていた本とか、これいいこと言うなぁとか、すごいなと思う人とか、そういうものに共通してるのって、結局はあたりまえのことをあたりまえに言っていて、あたりまえことをまっすぐに声を大にして言ってるだけなんだと思う。

でもあたりまえのことを、あたりまえにみれないのが人間で、まっすぐに見ればいいだけだよと言われたらすぐに首をかしげて、ただまっすぐにものを見れなくなるのが人間なんだと思う。

なんか腑に落ちて、体感としてわかったこと、繋がったことが増えてくればくるほど結局はあたりまえのことをすればいいだけなんだなと思う。

あたりまえのことが普通にできるってことが実は一番難しくて、あたりまえだと思ってるものをちゃんと見つめてみると、全然あたりまえじゃなかったりするんだと思う。

あたりまえのことって。

朝起きておはようって言って、ご飯の時には、いただきます。ごちそうさまっていって、ありがとうを口に出して伝えて、目の前にいる人のことを思いやることで、手をさしのべることで、好きなものに好きだということで、いやなことにはいやだといえることで、

言うなれば1つ1つの出来事に丁寧に対応することなんだろうと思う。

それがいかに難しくて、それを妨げる要因が目の前にどれだけあるかとか思うけど、でも世界は自分の力じゃ変えられないけど、心持ちはいくらでも自分で変えられる。

心持ちがすぐには変えられないなら、まずは口に出し続けてればいつか心持ちも変わるのかもしれない。

なんかそう考えたら、形から心へと繋がるのが禅で、心から形へ繋がっていくのが浄土教なのかもしれない。

なんか。

最近みんな言ってること同じじゃないかと思うことがあまりにも多い。

道元も親鸞も仏陀も一休も良寛も蓮如も一遍も石舟斉も孔子も、松下幸之助も岡本太郎もゴッホも、もっといえば、趙州至道無難の第二則も、碧巌録の第三則も、妙好人の言葉も、百丈野狐も、それこそ農業でも教育でも宗教でも、たぶん世の中にあるすべてのことの根底に流れるものは一緒で。

それがなにかと言えば。

世の中には、絶対的に自分の思い通りにならないものがあるということを実感としてしっかり感じるということで次のステップにいくよということなんだろうと思う。

そんで常に流れ流れているんだということ。


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Title: うみのいろ。
2010.11.24

月がきれいだからとか、海がきれいだからとか、風がきもちいいからとか、日差しがあたたかいからとか、そんなことを動機付けにできる生き方をしたい。

*

あちらこちらにとっちらかったメモ書きと思考の断片をかき集める。

あれやこれやと散らかりすぎると、なにから手をつけていいかわからなくなって、そんで大事なことも後回し。

悪い癖だ。

時間がないとか疲れてるとか、まことしやかに思いつくいいわけに身をゆだねて、たいしてなんにもしてないのに、人一倍つかれたふりをする。

がんばったかどうかなんてのは、自分で線引きすることじゃない。

くそう。

*

思うのは、真実というのは本当にリアルだということ。リアルなのが現実で真実だと言うこと。

でもそれだけじゃ生きられないから、誰もが事実を歪曲して自分の脳みそに刻み込んで、時に保身したり、かっこつけたり、もっともらしいことをうそぶいてみたりする。

いままでどうしてこんな簡単なことを知らなかったんだろうと思う気持ちと、そんなこと知らないでいたほうがよかったと思う気持ちと、ごった煮みたいな気持ちは、腹立たしさにもいらだちもなるし、あきらめにも悲しみにも、いとおしさにもなる。

これは一種のゲシュタルト崩壊なのかもしれない。結びついて一つの形をなしていたものが、バラバラにほどけて、あたらしい形を結ぶ。

*

どんな論議も議論も、まずゴールがどこであるかという定義付けをしっかりしてから出なければ、そこに意義は生まれない。側面だけをぶつけあい、目的と手段がごちゃごちゃになったような議論はもううんざりだ。ゴールを明確に。せめて許容範囲の中に。

*

自分の思考の底ににあるものはいつだって縁と一如だ。

これで大抵のことには同じ土俵まで持って行ける気がするし、最悪煙に巻いたような議論展開をすることも可能だと思う。

*

こないだ後頭部を強打した。

立ち上がって、大丈夫大丈夫、といった瞬間に目の前が真っ白になってぐらっと倒れた。

すぐに正気を取り戻したけど、それからずきずき頭が痛くて、ネットで調べたら心配になるようなことがたくさん書いてあったもんで、夜寝るときに、もしかしてこのまま目が覚めなかったら、どうしようかを真剣に考えた。

でも一日を振り返って、なんの変哲もない一日だったけど、なんの変哲もない一日だったからこそまあ今日が最後だとしても悪くない日なのかもしれないと思って。

そういう日こそ死ぬにはもってこいなのかもしれないとか考えてたら、知らぬ間に眠りに落ちて、朝がきた。

目が覚めて。

ああ、生きてるわと思って、生きててよかったと思って、なんか軽く生まれ変わったような気持ちがした。

*
ツイートの備忘

#

論点がずれていることにすら気づかずにあらぬ方向に話をもっていって争点を煙にまいているということに自分で気づいていない人とそれを意図的にする人がいるが、圧倒的に前者の方がたちが悪くそういう人に限って議論はプロセスであるという認識がない。議論はあくまで次の疑問を生むための過程だと思う

#

議論も思想もなんでもそうだけど、それはあくまである側面からの意見であるという自覚と認識がしっかりできたときに初めて、最終的には自然法爾の境地に至るのかもしれない。

#

Aがベストだよね~!といってるのに、次の瞬間にAと正反対のことをいっている自分がいるということに気づくということが、自覚的に生きると言うことなんだろうと思う。なにかを無自覚と言い放てる自分はどれだけ自覚的なのか。

#

認知心理学の思考のベクトルと仏教の思考のベクトルは間違いなく通ずる。方便とかまさにその一例だと思う。

例えば、「災難に逢う時節には災難に逢うがよく候。死ぬ時節には死ぬがよく候。是はこれ災難をのがるる妙法にて候」なんて言葉を引用して法話した住職さんが踵を返すように、直葬は駄目だ!仏教をなんとかしなければ!とか、いまお寺にできるることはなんなのか!とか熱くなってるのもいい例だと思う。

#

効率がいいっていうのは、あくまでなにかの過程において、そこに無駄がないということを指すわけだよね。ってことは効率は過程であってようはそこには目的があるわけだ。そう考えるなら、効率だけにスポットがあたると本末転倒にもなり得る可能性はあるんじゃないのか。

#

やっぱり自分の中にある価値基準として確立されているのは、表現されたもの(絵でも器でも思想でもささいな発言でも言動でも)それ自体よりもその先にある人間を見据えられるかどうかであって、何?よりもなぜ?のほうであるというこ。


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Title: ゴッホ展
2010.11.15

ゴッホ展をみて感じたこと。うまくまとめきれないけど備忘のために。

まさに主催者の意図なのかもしれないけど、まさに、人間ゴッホが天才ゴッホになっていく過程が見えた気がした。

なんかまずはじめに思ったのは、なんでここまで打ち込めるのだろう、なんで絵だったんだろうということだった。

とにかくあの手この手を使って努力を重ね、模索に模索して、彼は何を目指したんだろうかと思ったのだけど、その疑問は絵を見ていくにつれ、彼はなにかを目指しているんじゃないのかもしれないと思った。

歩かざるを得ないのかもしれない、歩みを止められないだけなのかもしれないと思った。彼が自己実現できる方法も、ここまで自分の中にあるなにかを満たしてくれるものも他になかったのではないかと思った。きっと描いてるときだけは安心していられるなにかがあったのではないかと思った。

そこには彼の人間性が大きく関わっていて、ゴッホの人間性なんて会ってみなきゃわかんないけど、彼に起きた出来事を断面的にみて、その側面をつなげて想像するに、彼はものすごく繊細で神経質でいて、でもその中にも世間を認めさせてやろうという野心も持ち合わせていたんだろうと思う。でもそんな自分をいつも否定しているようなネガティブさを持ち合わせているようにも思えた。

そのネガティブな部分を埋める為に彼がすがったのは、人というもののぬくもりだったのかもしれない、彼のその欲求を弟は満たし続けた、その反面、失恋して考えられないくらいのダメージを受けていることや、ゴーギャンとアルルで共同生活をはじめることも、ポール・ガシェとの交流も、彼は自分の中にある空虚を、誰かと繋がることで癒し自分自身を昂揚させようとしているように見えた。

彼はその外的な要因で自分を癒すことにに寄りかかりすぎたんだろうと思う。でもその普通の人が、それを自分で克服できる為に費やす時間をひたすら絵につぎ込んできたこと、自分と向き合う時間をキャンバスと向き合ってきた、そしてそうせざるを得ない人間であったということが、彼がまさに天才と呼ばれた所以の一つなんだろうと思う。

天才と呼ばれ命を絶っていく人の多くは、人として自分と向き合うべき時に、自分よりも情熱を注げる何かに出会ってしまったのだろうとおもう、言い換えれば、自分をおろそかにしてもそこに虜になれるほどに自分の中にある欲求を満たしてくれるものがあらわれてしまった結果に、本来人間が回避できない問題にぶつかったときの準備ができてなかったのではないかと思ってしまった。

それと、もう一つ驚いたのが、彼の絵がどんどん変わることだ。いろんなものをどんどん取り入れて、画風から構図から筆遣いまで、素人目にみても刻々と変わっていて、スポンジが水を吸うかのように、いろんなものをどんどん取り入れていく。一体なにをさしてゴッホといっていいかわかんないくらいに。

でもそれも彼の人間性に大きく関わっていて、彼は描くことで、自分を表現したいのではなく、表現を高めることで自分に向き合おうとしていたのかもしれないと思った。そう思ったら、表現をする人には、自分の中にある爆発的な想いや、確たるものを表現としてアウトプットするタイプと、自分の中にあるものがなにかを明確につかんでいなくて、アウトプットするその行為の中にそれを見いだすタイプがいるのかもしれないと思った。

そう考えるとゴーギャンとゴッホは正反対のタイプだったのかもしれない。その二人が共同生活をしたときに、あのような事件が起きたのは必然だったのかもしれないとも思った。

なんでも仏教でくくるのはよくない癖かもしれないけど、自分がここで得た教訓は全部仏教的な教訓ばかりだった。

生老病死という問題に取り組むことは大切なことだということ。

天才というのはバランスの極端に悪い人を指すと言うことと、天才は一人では成り立たずに、そこには偶然か必然かそれを支えるだけの縁があって成り立って、その縁までを含めて天才というのは生まれるんだということ。

それと天才は結果論であると言うこと。

とにかく前に進むには何かを真似ることだということ。

外的な要因で自分をごまかしきるのは不可能だということ。

成長を妨げるのは自我であるけど、自分をここ一番で踏みとどまらせるのも自我であるということ。

なによりも、自分は人が表現したものでも、発言した言葉でも、起きてしまったことでも、成功でも失敗でも、その事柄自体よりも、なぜそれが起きたのかという、その背景にある縁を結びつけるのがたまらなく好きで、そこから浮かび上がった人間が不完全で不確かで、意味がわからなければわからないほどにたまらねぇ・・・と感じるということ。

それと、ゴッホの作品の中で自分が一番ぐっときたのは、アルルの寝室のオリジナルで、アルルの寝室を描くときに、違った色調をすべてを使って、完全な休息を表現したかったというゴッホの言葉には鳥肌が立った。

いまここまで書いてきてふと、清沢満之の自分の内側を見るのが智慧であり、仏法である。しかしそれをね、法に従わないで勝手にやってたらきっと頭がおかしくなっていたという言葉を思い出した。

なんか言いたいことが多すぎてまとめきれないけど、これを肴にだれか一献やりませんかね。最高の肴になりそうです。

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Title: %
2010.11.14


想いと感覚に文字も指も追いつかない時がある。真っ暗な部屋の中で沸いてきた感覚を必死に文字に変換しようとする脳みそが、終端速度に達したかのように先に進まなくなる。一度にいろんなことがつながりすぎて、一つも取りこぼしたくないのに、アウトプットが間に合わなくて、瞬く間にそこにあった想いが消えていく。凝固する前に気化していってしまうかのようだと思った。

自分は東京で育っていて、夜になると家の窓からは遠いビルのてっぺんにチカチカと赤い光がいくつも瞬いているのが見える。

悲しくてしょうがないときも、うれしくてしょうがないときも、明日が待ちきれないときも、明日がきてほしくないときも、この赤いチカチカをみながら過ごしてきた。遠くに旅にでて、家に戻ってくるとこの光をみて、ああ家に帰ってきたんだと思うことがあるくらいに自分の中にこの光の存在はこびりついている。

そしてこの光に見入っているといつも思う。

このビルの下には、いまうれしくてしょうがない人も、誰かを殺したくてしょうがない人も、死にたい人も生きたい人もいて、誰かに裏切られた人も、誰の温かさに涙を流している人もいるかもしれない。

なんで世間は馬鹿ばっかりなんだと失望する人がいるかと思えば、なんて世界は希望に満ちあふれているんだろうと思う人いるだろう。ほかにどんな人がいるだろうか、自分の想像力の限界まで挑戦したくなるくらいに、いろんな人に想いを巡らせる。きっと自分の想像しうるすべての人が、間違いなくこの空の下にいるんだろうと思う。

でもそのどの人にも、数時間もすれば、すべての想いや願いを断ち切るかのように朝日が昇り、今日は何事もなかったかのように明日になる。

夜明けは希望か絶望か。

もうそんな問いには捕まらない。

今は曇りなく夜明けは希望であり絶望であると言える。


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Title: 7DW
2010.11.08


来年の手帳がきたので、せっせと移行作業を始めながら今年の予定を読み返していたら、1年のたつのはなんと早いことかと思った。

こないだのったタクシーの運転手さんが、時間の感じ方は細胞分裂に関係してるらしいですよといっていた、細胞分裂が活発な若いときは時間をゆっくりに感じるらしい、逆に細胞分裂が鈍ってくると、時間はあっというまに感じるらしい。

どこの情報かはわかんないけど、そうなのか・・・と妙に感心しながら完全に自分の細胞分裂にぶってきとるなと思ったのです。

それと、月に1回誰かに会えたとしても、1年で12回しか会えないのかとか当たり前のことにびっくりしたりした。

2ヶ月に1回しか会えなかったら1年で6回しか会えないんだ。

そう考えたら自分がいつ死ぬかはわかんないけど、死ぬまでに100回会える友達はどれくらいいるんだろうか。

そんなことを思いながら本屋に行った。

そしたら、なんかやたら宗教関係の本が多くなってないかい。

少し前まで、顔あげろだの、がんばれだの、自己啓発本ばかりだったのに、それが行き詰まると今度はがんばるなですかいな。

沈んでは浮いて浮いては沈む。なんでも。

世の中はよくできてる、本当に同じところをぐるぐると回ってて、それこそがまさに輪廻みたいだと思った。

ああ。

僕らの7日間戦争がみたい。

うつむかず生きるために。

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Title: トゥトゥトゥ
2010.11.07

熱でうなされてるときの妄想ほど思い返すとどうしょうもないものはない。

もし今からこのサプリを飲み続ければ200歳まで確実に健康に生きられるよ、そのかわりそれ以外の食べ物を一切口にしてはいけないよ、もし口にしたらそこで死ぬから。といわれたらどうしよう・・・ということをベッドの中でずっと考え続けた。

結果それは飲まない。という結論に達したものの、何の落ちもなく不毛な妄想だったなと反省した反面、でも自分ってば長生きよりも価値をおいてるなにかがあるんだなとおもって一人ほくそ笑んだるするわけです。

そして唐突に、ジェダイのきてるローブがほしい。どこかで似たようなものが売ってないだろうか、この風邪が治ったら真っ先にそれを探すんだ。だからがんばろう。とかわけのわからない理由でモチベーションを保とうとしたりもするわけです。

いやはや、ひさびさに完全にダウンして、食べて、寝て、本読んで、寝て、食べて、ゲームして、漫画読んで、食べて、本読んで、寝て。ひたすらそんな一日を過ごした。

極力パソコンにも触れず、メールもチェックせず、つぶやきもせず、携帯も放置して、テレビもつけず、ひたすら浮き世を離れてたわけですが、今、こうやってパソコンに触れ、情報に触れ、メールをチェックして、ツイッターをみながら、おお日常が戻ってきたななんて感じたけど。

はてどっちが日常で、どっちが浮き世を離れているんだろうかと思った。

どちらもといえばどちらもだけど。

こうやって誰かとつながって、情報の中に身を置いている自分が標準化してて、そうじゃない自分に非日常を感じるなんて、なんかおかしなはなしだぜべいべ。

と思ったけど、それはきっと深追いしてもしょうがない問いだということを直感的に感じたのでそこでエポケーしたのです。

それと、なんかこの闘病生活の中で、頭の中ではずっとトゥトゥトゥ~トゥトゥトゥ、教えてほしい教えてほしい~と流れてて、それを何度も何度も頭の中でリピートしながら思ったのは、

ああ、きっと本当に大事なことは何度も何度もいうべきなんだ。

目新しいこととか、流行廃りに流されることなく、またあんなこといってるよと言われても、いつも同じこと言ってるよねとかいわれても、人生のどのフェーズにおいても、本当に大事なことは何度も何度もいわなきゃ駄目なんだと思った。

それがどんなに子どもじみてても青臭くても、泥臭くても、何度も何度も伝えて、やっとその中の数ミリが相手に伝わるのかもしれない。

それぐらい本当に大事なことを伝えるというのは途方もない作業で、一生を費やしても自分の中にある本当に大事なモノを一つでも誰かに伝えられるかどうかなんてわかんないなと思った。

そんで摂取不摂という感覚はそういうところに糸口があるのかもしれないと思ったりもしたのです。

トゥトゥトゥ。


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Title: よーいどん。
2010.11.01

感性は色鉛筆みたいなもので、そこにはすごいもすごくないもなくて、上も下もないんだと思う。赤と青とどっちがすごくて、茶色よりもピンクのほうが上でとか、そんなのない。

感性を深めるってのは、赤を朱にもできて、緋にもできて紅にもできるようなものなのかもしれないと思った。

*

いい加減ってちょうどいい加減なんだよね、何事も中道が大事なんて、ありきたりだけど仏教ぽい話をしてるときに、ふと思いついたんだけど。

おじいちゃんが、お風呂にはいって、いいあんばいいいあんばい、といったあとに、極楽極楽といっていたのを思い出して、ああ、いい加減はやっぱ極楽につながっているんだなって思った。

昔の人はなんでそういう深いことをさらりと口にできたんだろうか。

*

旅をしているときに、明確な目標とか目的はたてるけど、でも大抵はその通りに行かなくて、空港に着いた瞬間に予想もしない出会いがあって、そこから目的とは違う方向へ向かったり、ふらりと立ち寄った町に沈没したりとかして、結局はじめの予定とは目的が変わったり、そこが通過点になったりしながら旅をするということがよくあって、

そんなことを思い出したら、結局は人生も同じなのかもしれないと思った。

大きな方向をきめたらあとはてくてく歩けば、あとは自然といろんな縁とか、必然とか偶然が自分を背中を押してくれるようなもんで二転三転しながらも、前には進めるんだと思う。

最初に掲げる目標なんて、足を出すモチベーションみたいなもんで、あくまで足さえ出せればそこに大層な大義名分なんかなくてもいいじゃないかと思う。

目的と方向がずれたとか、はじめと違うとか、いちいち気にしてたら旅は楽しめなくて、旅を楽しむコツはその流動的な現実に身をゆだねることであるのかもしれない。

旅を楽しむか楽しまないかはいうなれば自分次第なんだと思う。

きっと旅をしたことがある人にはわかる感覚で、きっと友達に旅人が多いのは、そういう感覚を共有できるからなのかもしれない。


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Title: 纏
2010.11.01

社会的価値って言葉を自分の中で反芻する。

自分に社会的な価値があるのか否か。

考えてはみるものの、自分の仕事は、建物を建てたり、仕組みを作ったり、目に見えるものを残すような仕事ではなくて、ほとんどは結果がわかりずらく、形には見えにくいものだから、自分のした行動や言葉が、目の前の人になにをもたらして、なにを付与できて、ましてや価値があったかどうかもわかんない。

だから今の自分のしていることに価値があるのかないのかもさっぱりわからない。

でも、もし今自分のしていることに少しでも価値があるとしたら、答えはあぶりだしみたいにでてくるんだと思う。いろんなところから押し出されるみたいにちゃんと「ああこれが答えか」ってわかる時がくるような気がする。

その答えが正しいのか間違っているのか、それがどういう形であらわれるかはその時にならなきゃわかんないけど、でもそれはきっとあと10年もすれば今よりはすこし明確になってくる気がする。

だからそれまでは、とりあえず自分の思う道をもくもくと、そしててくてくと歩いていければいいかと思った。

あなたはまさに記録よりも記憶というタイプなのかもしれないねと言われた一言に妙に救われた気がしたのです。


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Title: てくてくと。
2010.11.01

自分のした判断のミスで大きな損失をだした場合、その被害を被るのは自分だけではなくて、その先にいる働いている人であったり、その家族であったり、それを還元できなかった人たちであるわけで、ごめんなさいじゃすまないんだということを痛感した。

わかっているつもりでも全然わかってなかった。

流れを読み違えるとはこういうことなのか、といまさらながら初めてその怖さを体感した。

自分には正しいと思っている世界(理想とか想いとか)に数字がついてこない場合があって、その場合には一人で責任をとれる範囲の枠を超えていて、その中に身を置きながら結果を出し続けるってこんなに怖いことだったんだと思った。

この経験はこれから先の自分の人生の中になにか大事なものを残すと思う。

教育や宗教に携わっていると、本質と経営のバランスというのは本当に難しいと思う、どちらに偏ってもだめで、偏らない中でそのどちらにおいても結果を出さなきゃいけなくて、そんなのはあたりまえのことなんだけど、こんな想いをするまでは、それは頭で理解していただけで、今回のことで初めてそれが身体でわかったんだと思った。

なんだって頭で理解しただけの、もっともらしいことを言うことは簡単で、でもその言葉に体感を伴わせると言うことは、ほんとに簡単なことじゃない。

くそう。

この気持ちをずっと忘れないようにしようと思う。

そんでまた、このままてくてくと歩いて行こうと思う。

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  • 自己紹介:1980年1月9日生まれ。どこからを趣味と呼んでいいのかは模索中。好奇心は旺盛。