Title: 話したいことは山ほどある。
朝家をでるときに、なんかゲレンデみたいな匂いがして、久しぶりのその感覚に、ああ冬になったなと思った。そう思うと同時に、身体と頭が冬籠りの準備を始めたみたいで、とりあえず眠くてしょうがないし、なんか脂肪を蓄え始めてるし・・・
でも今年はまだ冬籠りされちゃこまるので、頭を坊主にしてみた。なんてことなく、突然思い立って、丸っと刈ってみたら、頭がヒューヒューと冷たくて、思考も冴えわたるような感じがする。
まだまだ今年は眠れないんだな。
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こないだ。お坊さんのかっこいいとはなにか?という議論をしていて、自分は坊さんは格好じゃない、格好やお寺にしがみつくのなんて格好悪いぜ。なんていったもんで、そんな自分を試すわけじゃないけど、先日、衣を着たまま、休日のお昼のごったがえすモスバーガーに入ってみた。お店は大混雑で並んでいて、順番に、家族づれ、カップル、学生風の人、そして間衣輪袈裟の自分。
正直、はいって10分で後悔した。子どもがこっちを指さして、お母さんお母さん!という声が実際聞こえるし、並んでいる人たちの、おい坊さんがハンバーガーかよ。場違いだろ。という心の声が聞こえてくるようで正直いたたまれないような気持ちになった。
しかもモスバーガーできるまでに、そうとう待たされて、赤い番号札をもって、待ってるわけですよ。正味待ち時間は10~20分くらいだったろうに、ものすごく長く感じた。
そんで思った。
格好じゃないなんていいながら、自分もお坊さんというイメージにとらわれていて、非僧非俗なんていいながら、完全に僧になろうとしていて、お寺とか、そういう背景の中でしか胸をはれない自分の器の小ささを目の当たりにして、ほんとどうしょうもないなと思った。
親鸞さんは、比叡山という、お寺の背景をすてて、野にくだり、俗にくだり、そこで布教教化をした。いうなれば、お寺からモスバーガーに衣ではいっていき、そこでその人たちに法話をして、真宗に改宗させるようなものでしょう。
すごいことだと思った。器が違う。
いまの自分は、まだまだ後ろ盾がなければ坊さんでいられないし、異端とか、型破りでありたいと心のどこかにそういうものにあこがれながらも、自分の器の小ささもよくわかってて、そのはざまにいるなぁと思った。自分の了解だとはいえ、非僧非俗のほんの一欠けらでも体感したら、その重さというもののとてつもなさに頭がくらくらした。
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文字でわかるのは半分。
残りの半分はやるしかない。
感じるしかない。
文字でしったことが所詮半分でしかないことであるということを忘れないようにしたい。
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何の気なしに肩の力を抜いて、一杯ひっかけて鮟鱇鍋をつついた帰り道。
たまにはこういうのもいいねぇ。といったら。
即答でたまにじゃないでしょ。結構こういう頻度たかいぜ。と言われた。
そうか。
たまにの頻度は人によって違うんだった。
な~んてことを考えながら、鮟肝をこれでもかというくらいに溶かしこんで作った雑炊で満たされたお腹と、ほくほくとした心と、冷たくなった夜道とが、うまいこと混ざり合って、最高に気持ち良く家路について、これでもかというくらい寝た。
しかし夜風がつめたくなったもんだ。熱燗がうまい。
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空気が澄んでいるのか、ここのところ月がものすごくきれいだ。
おもわず足をとめたくなるくらい。
POSTED @ 2009.11.04 |
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