Title: 刀は文化なのか武器なのか。
映画「靖国」をみた。ただどうしてもまだ頭の中がまとめきれないので感覚だけでかきます。
ものにもの以上の意味を見出したり。事実に事実以上のものを見ようとするところに苦しみはあるんだと思う。
自分の思うことはすべてそのもの。その事実以上のもので。だれがなんていおうと自分のフィルタを通したレッテルのはられたものにすぎない。
刀は文化なのか武器なのか。
そこで議論をしようと思う心が靖国を固有名詞からそれ以上のものにしてしまったんだと思う。
刀は刀でしかない。
生も。
死も。
それ以上でもそれ以下でもない一点の事実でしかない。
父や母。彼女や彼氏。
子や親。
あの人もこの人。
命は命であってそれ以下でもそれ以上でもない。
さらにいえば誰の所有物でもない。だれかの所有物であるなら自分を含め自由になるはずなのに。生きることも死ぬことも一つも自分の思い通りにはならない。
ものにもの以上の意味を見出さない。おれの思う真宗の根底にはそれがある。
墓の中にはなにもない。
死んだらどうなるかなんてわからない
おまもりなんてただの紙切れです。
そこにかかる心や想いというものはどうなるのか。という問題とそれができるのかどうかという問題はまだ自分の中でも答えが出せずにいるけど。
そこになにかそれ以上のものを見出すのは自分の心の弱さであり都合のいい解釈にすぎないとは頭では理解できる。
おれが勘違いしていたのはそういうことだ。
先祖に敬意を払い靖国に参拝することのなにがわるいとおもってたし、もちろんいまでもその気持ちがないわけじゃない。
でもなぜ真宗と靖国の間に溝があるのかということに目を向けずにきていた。でも今回その根底にある問題としてそこには相反するものがあるということははっきりわかった。
映画の中に真宗の僧侶がでてきた。
それをみていて。
やっぱり真宗の人間があれを言ってしまったらだめなんじゃないかと思った。
靖国の抱える問題はそういうことなんだと思う。
いろんな主張。想い。心。思い入れ。なにかどれもしっくりこないし、そんなばらばらな人間が一つのものにひきつけられ心をとらわれているということの根底にあるものは人間が本来持ちうる、何事にもレッテルをはり自分の解釈で自らの中になにか意味を見出そうとする習性によるものなんじゃないかと思う。
その象徴として靖国は世界には類を見ない偶然の産物なんじゃないかと思う。
そういいながらも。なんとかそれを頭で処理しようとしてもやっぱり自分自身心のそこから沸きあがってくるような気持ちや。憤り。それがとめどなくあふれてくるのを感じて。正解がなにか。この心はなんなのか。宗教とはなんだろうか。自分のいくところはどこだろうか。
正直迷うし、いままでもってた価値観がぶっ壊されることへの喜びもありつつそこから生まれたあたらしい疑問の間でどうにもどうどうめぐりを繰り返す。しばらくねむれそうもないな。
もし意図としてあの監督があの映像を撮ったのなら天才だと思う。
でもおもうに個人的な見解だけど。結果論としてあの映画ができたというだけで、あの映画にはスポットがない。ドキュメンタリーだからといえばそれまでだけど。問題定義がなにもないのはきっとあえてというよりは監督自身もその問題というものに照準を絞りきれなかったんじゃないかと思う。おもうにきっと監督も一靖国にとらわれた一人だという事実。これが結果として生み出した映画なんだと思う。
ただ。日本人には絶対に撮れない映画だと思う。
POSTED @ 2008.05.05 |
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