Title: いずみや。
目に見えるということだけで、それを自分が正しくとらえているかどうかは定かじゃない。という当たり前のことを繰り返し繰り返し自分に言い聞かせてるのに、脳みそと心はニワトリなみにそのあたりまえの事実をかき消して自分だけを棚に上げて、すぐにわかったような顔をさせる。
赤といわれて赤い絵具をとるということは、きっと赤っていうものがなんだかわかってないんだと思う。いまの自分は赤といわれればきっと赤の絵具をとってしまうと思う。
つかんだと思ったものこそつかんでいないという事実だけは忘れないようにしたい。その感覚だけは自分が前に進むのに絶対に必要な感覚だと腹から思う。
愛も、いたわりも、思いやりも、慈しみもそれを生み出すのはぜんぶ感性だと思う。
感性というのは自分を棚に上げないということで、感性というのはきっと感覚を自分の中に落とすということなんだと思う。その感覚を培うのが経験なんだと思う。経験して得るものはたくさんの感覚と実感、肌触りや質感。経験してもそこになんの質感も得られなければ意味がない。貪欲なまでに質感にこだわりたい。きれいじゃなくていい、ぶざまでもずるくても青臭くても汗臭くてもいい。子どもだといわれてもいい。質感にこだわり続けたい。
質感というのはつまりは、人間はその立場にならないとなんにもわからない生き物なのにわかった顔をするのが恐ろしくうまい生き物だということをしっかりと自覚するということじゃないかと思う。質感のない言葉や議論ほど空虚で建設的でないものはない。一人っ子には大家族の悩みはわからないし、大家族に一人っ子の気持ちはわからないってなもんでその環境立場にならなきゃ絶対にわからない感覚というものがある。細かく言えばまったくおんなじ環境なんかなくて、誰も自分のことをわかってくれないと思うのと同じくらい自分は世界のなんにもわかってないと思った方がいいんだと思う。
大切なものになればなるほど言葉ではなんにも伝わらなくて、言葉で伝えられないようなものを伝えられるのが感性であって、そういう言葉では伝えられない感覚を自分の中にたくさん抱えていくということが人や自分を知るということなのかもしれない。
POSTED @ 2009.02.22 |
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