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Title: Ma-ra
2010.05.30 人からこう思われたいとか。 自分はこうあるべきとか。 顕示欲とか渇望とかさみしさとか。 真っ当な大義名分を掲げても、字ずらの裏にあるものがじわりとにじむ。 形のないものを形づくることに慣れてしまうと、あたかもゴールがどこかにあるかのように錯覚してしまう。 イメージはあだにもなるし、便利ないいわけにも使えるし、武器にもなる。 それもやっぱりあくまでツールなんだと思う。 それを使ってでも自分が行きつきたいとこは一体どこなのさ。 Title: Rahula
2010.05.30 約束します。君を残して僕は死ねません。 と、300人以上の前で熱唱する彼をみて、素直にかっけ~と思った。 * キリスト教式の結婚式にでて、牧師さんの話がすごくよかったし讃美歌もよかった。仏前結婚に参列する経験の方が多いからすごく新鮮だった。 なんか牧師さんの話をきいていて、なんか職業柄穿った見方をしてやるぜなんて意気込んでいたのに、普通に話に引き込まれたし、なんか主のパワーってすげぇなとか思った。おもわずアーメンですよ。いつくしみ深き友なるイエスよですよ。きっといまごろ立川あたりで仏陀と自転車にのっているんだろうか・・・ なんかキリスト教の伝道ってのは本当にアグレッシブで、なんか人間の心の隙間をふっとつくことにたけてると思う、それに一神教の強みというのは、あまり深く考える必要がないことでもあるのかもしれない。主、絶対、お前許す。みたいなのは、やっぱりわかりやすいし入り込みやすい。 キリスト教の結婚式というのは、一種の宗教儀式なわけで、こんなに教化のチャンスに恵まれてるというのはすごいなと思った。ただ同時に入口が広いということは、それだけ浅く広くで終わってしまうデメリットもあるものの、でももし毎日毎日あれだけ行われている結婚式に参列してる人の中に1人でも2人でも教会に足を運ぶ人がいたのなら、十分な教化なんだろうと思う。 そもそも許されたくない人なんていないし、自分との対比の中で絶対的なものがいることで得る安心というものは誰もが持ちうる根源的な欲求なんだろうとも思う。 でもそう考えると阿弥陀とキリストを関連づけてレポートでも書いたら面白いかもしれない。 そもそもキリスト教は聖道門と浄土門にわけるならどっちなんだろうか・・・それともそういう分け方はできないのだろうか。 なんてことを考え始めたら、数珠つなぎに考えたいことがわいてきて、フラワーシャワーの頃には悶々としてきたのでそこでエポケーして、きれいな新婦さんにみとれてることにした。 * それと、八芳園の池の鯉は。 * 人がつくるものすべて。 家族や友達という関係も、そういう抽象的なものだけじゃなく、 そのすべての本質はとてももろくて繊細で儚いものなんだろうと思う。 すべてが無情にも一過性のもので。 だからこそ、どれもが尊くて、だからこそ人はそこに感情をのせることができるのかもしれないと思った。 結婚式というこんなに幸せな瞬間すらももろくて儚くて、一瞬一瞬に風化する。だからこそこの瞬間にこれだけの人が涙を流したり笑ったりできるんだろうと思う。 なんだろう。難しい表現なんだけど、 どんなに理由を探してもいま目の前にある関係も手の中にあるすべてのものは、いつかは形をかえるし、最後にはきれいになくなる。 それを人は無意識に理解しているのかもしれない。 無常というのはもしかすると、頭で理解してわかったふりしても意味なくて、体が反応して初めてわかることができるのかもしれない。 大事なことは本当は全部そうなのかも。 * 最近大塚愛ききまくってたら、なんか披露宴の途中で、いい感じにワインが回ってきたあたりから、頭の中で「さくらんぼ」が鳴りやまなくなって、愛し合う二人~幸せの空~と口ずさみながら皇居のお濠をぷらぷらとあるいて帰りましたとさ。 * なんかいいじまくんの時にも思ったけどね。 くさくてもべたでも。 誰かを想うまっすぐな気持ちは、人の心になにかを灯すんだと思う。 最後の最後は理屈でもなんでもね。 まっすぐかまっすぐじゃねいか。 最後に人を動かすのはきっとそれだけだ。 Title: 404 Not Found
2010.05.27 30歳男子、車の中でラジオから流れてきた大塚愛に聞き入ってたら、 だいぶつかれとるなと思った今日。 肉が食べたくなったから、 近所の肉屋さんにいったら、 品物渡されるときに、 はい、だんなといわれた。 ちょいとそこのだんな。のだんなですよ。 サンスクリット語のdanaですよ。 はい、おにいさんとかじゃないんだと思った。 ちぇっ。 書かなきゃいけない原稿の締め切りが目の前なのに、さあ。とパソコンに向かったのに、こんなこと書いてる自分。 しかももう眠くなってきた。 * 酔っている時というのは、 それが酒に酔っている時でも、音楽に酔っている時でも、 その時に見えてる世界はほぼ同じだと思った。 酔うことで見える世界の中では、 自分をどこまでも許せてしまうから、 だからまた酔いたくなるんだろうと思う。 * 1つづつ。1つづつ。 少しづつ身軽になって。 最後は心臓と脳みそだけあればなんとかなるかと思うことがある。 * こけしマッチを擦る。 すぐ消えちゃって。 そんでまた次のを擦る。 スタンドバイミー聴きながら。 こけしマッチ擦る。 目に見えないものばっかり。 ぽっとついてはきえていく。 * 全力逆走。 | コメントを書く (0) | Trackback (0)Title: 八百萬
2010.05.26 眠い。 最近食べるとすぐに眠くなる。 なんか書きたいことや出来事がたくさんあるのに、頭がそれについてこなくて完全におーばーふろーしてる。今月はこれでもかというくらいに、心が揺さぶられるような出来事が次々におきて、本当に色々考えさせられた。 カピラヴァストゥがマガダ国とコーサラー国という列強国に挟まれた小さな国であるというシャカ族の置かれた背景というのはすくなからず仏陀が生まれる要因の1つになっていたんだろうとおもう。 なんか昨日裁判を傍聴してておもったんだ。 環境が人に与える影響というものの怖さというか、その大きさになんかものすごく胸を締め付けられるような気持ちがした。 被告人をみていて自分が同じ環境にほりこまれたら、おんなじことをしてたかもしれない危うさとか怖さを感じた。 でも環境を選んで生まれてくることはできなくて。なんか目に見えない大きな運というか運命というか、人間は生まれながらに目に見えない自分の力ではどうしょうもないもののを纏ってて、そういう中に生きているんだと深く感じた。 じゃあどうすればよかったんですか! と検事にくってかかった被告人の気持ちが痛いほどわかる。 罪ってのは一体なんなんだ。 罪を憎んで人を憎まずとはいうけど、人は本当に白にも黒にも簡単に染まる弱い生き物であって、そのもろさを無条件に慈しみ悲しむ存在というものが本当にありがたいとも思った。
Title: こけしマッチ。
2010.05.23 久々に「それが大事」を聞いたら。 すっげ~いい曲と思った。 さんざんわがままいった後、あなたへの想いは変わらないけど、 そんで、またこれ久々に手塚治の「ブッダ」を初めから読み返す。 これ、昔は気づかなかったけど今になってわかることとか、気づかされることとかあって。これもまた深いなぁとか思った。マガダ国の騎士スカンダのくだりとか、昔はさらりと流してたけど、いまになったらこのくだりに込められたものの深さにぐっとくる。 昔よりも、感情移入できるだけの経験を積んでから見たり、聞いたりすると改めてぐっとくることって多いのかもと思う。 なんか自分の中にあるものとさんざん、戦ったり、拒んだり、逃げたりしてみないとわかんないことってあって、ジェネレーションギャップというのはそういうところから生まれてくるんだろうなと思う。 だからきっと、育てるというのは片時も目を離さずに見守るだけでいいのかもしれない。 ああ、なんか。 今月はたくさんいろんなことがあって、ほんと兎角この世のはかなきことよとか思う。 さすがに疲れたばい。 | コメントを書く (0) | Trackback (0)Title: のら。
2010.05.21 今日は朝からのらしごとをしてたわけです。 緑の中でポツンと、ハナレグミ聞きながら、草刈りして、土を耕して、ハンモックに揺られて休憩して。そんでトウモロコシモロコシを植えたわけです。 なんかぼけっと。いろんなことを考えた。 こういう時間の流れの中にいると、いまここで心臓がうごいてて、息してて、目の前にはそれ以外の事実はなんにもないのかもしれないと思う。現実というのはそれが繰り返していくだけで、それが止まった順番に死んでいくだけなのかもなぁと漠然と思う。 自然の中にいると、どうも時間の感覚も意識も、外へ外へ向かっていたものがぐっと自分の中に凝縮される気がする。 昔の人は、溺れるような情報も、山積みになって追われる書類も、あたりかまわずに飛び込んでくる携帯の音もテレビもパソコンもなくて、意識が外へ向かいようにもなんにもないから、自然と自分の中に向かわざるをえなかったのかもしれない。 だから、その分昔の人は、今の人よりも生きざまも死にざまも潔かったのかもしれない。 それと。 なんか、着替える前に畑や草むらの様子をみに、シャツを着てきれいな靴をはいて、はいっていこうとすると、汚れるのが嫌だったり、虫がつくのがいやだったり汗かきたくないなとか思っちゃうんだけど、でも作業できる格好に着替えて、よっしゃやるぞと思うと、汚れるのも汗をかくのも、虫をみつけるのも、全部受け入れられて、むしろそういう1つ1つに心地よさまで感じる自分がいて。 そう思ったら、大抵のことはそうなのかもしれないと思った。 腹くくるというと変だけど、気持ちの持ちようを変えるだけで劇的に変わるものもある。 でもそれは本当は格好の問題とかじゃなくて。いまここによっしゃと思えるかどうかの問題で、いつだってこの瞬間に腹くくれるかい?ってなもんで。 いつでもそれができる人間は強いなと思う。 さて。 半日作業しただけで、真黒。 やけたのと土で。 午後からはデスクワークです。ああねむい。
Title: hands up
2010.05.20
殺処分に際して、いずれに肉になるんだといえども、手塩にかけて育てた子が、違う形で殺されてしまうのは苦しい、せめてお腹いっぱいにしていかせてあげたいといっていた。 どういう形であれ、命にじかに手が触れる仕事をしている人たちの言葉というのは、重くて響くなぁと思った。 なにが正しくて何が間違ってんのかわかんない。 それが正論かとか、感情的だとか理論的じゃないとか。 ただ悲しいんだよ。 命に触れてると、理屈じゃなくてただ悲しいしただ嬉しいし、 ただただなんだと思う。 ただ悲しい。この感情が湧く底にどれだけの力があることか。
Title: だれのせいでもない。
2010.05.19 思い残すことはなかったと思います。というのを聞いて、 きっと自分は、 やりのこしたことはないか?ときかれたら、 あれもこれもやりのこしてるとおもう。 でも、 きっといま思いつくあれもこれも全部やっても、 また、 やりのこしたことはないか?ときかれたら、 またあれもこれも思いつくんだと思う。 そんできっと、やりのこしたことだらけで死んでくんだろうと思う。 でも、そのほうが中途半端な自分らしくていいと思った。 * 自分がいいなと思える人の多くは、きっと自分の弱さを素直に認められる人か、それを絶対に認めない人のどちらかなんだろうと思う。表と裏くらいに両極端でも、そこにあるベクトルはまったく同じ方向を向いてるんだと思う。 * 性善説か、性悪説、どっちだと思います?と聞かれて。 なんとなく最近思うのは、 人間のむき出しの欲望とか、抑えきれない感情をむき出しにすることは、人間本来もちうることで、創造も破壊もどちらの動機付けも自分の中に抱えているのが人間で、それを理性でカバーしながら生きていると思う。 でも、そもそも人間のむきだしの欲望や、感情のままに他者を排する行為も、それが必ずしも悪かどうかは分からない、子どもたちを見てれば思うけど、むき出しの感情で他者を傷つけたり、自分の主張を押し通したりすることを悪だと決めつけることはできないし、その経験がなければ、人は優しさもいたわりも、慈しむこともわからない人になってしまうかもしれないし、どうしても他者を排さなければいけない時もある。 なんかまだごちゃごちゃしてるけど、 いうなれば、性善説も性悪説もどちらでもなくて、両極端に答えを求めること自体が本質とはずれていたのかもしれない。 そもそも善にも悪にも定義がないのに、本来から備わっているのはどちらかという問題に取り組むこと自体が間違ってたかもとか思う。 つばはいてゴミ箱蹴っ飛ばしたあとに、花を水をあげるようなもんで。 どっちが先に備わった感覚ですか?って。 そんなのはどっちでもいいのかもしれない。どっちが先かよりも、そのどちらもが自分の中にあるということを知っておくことが大事なんじゃないかと思う。 人間の中にあるものは、0とか1とかじゃない。 * ごちゃごちゃとまとまらないものを、そのままだしてもいいんだと思う。 それをちゃんと紡げる人がいると思う。 そういうのが得意な人が。 * たいした理由なんてないよ。なんて言ってみるものの。 なにかにとらわれたときの自分の思考のなんと閉塞的なこと。 簡単に深みにはまる自分を嫌というほど体感として感じるたびに、 * 昨日から鼻水がとまんない。 * | コメントを書く (0) | Trackback (0)Title: 双六。
2010.05.16 理屈じゃ押さえきれない感情にこれでもかと揺さぶられて、自分の真ん中にあるはずのものですら無意味に思えて、人間はこんなに簡単なことでぐらつくんだという事実とその無力さに泣きたくなる。でもそんな無力な自分がここに存在できていることの事実にまた別の意味で泣きたくなったりもする。 * なんとなく人よりも長く続けられることが、少しづつ自信に変わってきて、それが時間をかけて確信に変わる。確信に変わって初めて、その力をどう使おうか考えれるんじゃないかと思う。 * おとこってば。ちっぽけな自尊心のために、むきになってみたり、まっすぐにつきすすんでみたり、時に平気でうそをつく。 男の行動のほとんどは自尊心という言葉で片付けられるんじゃないかと思うくらい。 * こりゃ抜いたら斬れるなと思えば、抜かなくても相手は死んだも当然なのかもしれない。 最近ではそうではないこともあるけど、日本人の美学だなと思うことの1つは、死んだ人間に鞭打つような真似をしないことだと思う。 そう思えば鍛錬の意味は、相手を倒すことが最終的な目標ではないということなんだろうと思う。 * しかしずるいな自分は。 だからずるい人間に救われたりもする。 | コメントを書く (0) | Trackback (0)Title: ふくだ先輩
2010.05.14 高校の時にふくだ先輩という人がいた。 あるとき、部活で先生に怒られて、部のみんなが全員走らされることになった。 ひたすらグラウンドをぐるぐると。 自分は長距離が苦手だったから、30分くらい走ったところでつかれちゃって周回遅れになっていた。何度も自分のことを追い抜いていくのが、トップを走るふくだ先輩だった。 筋肉むきむきのふくだ先輩は、いつも笑顔で走っている。にこにこにこにこと。 結局その日は1時間くらい走らされて、くたくたになって、みんなへたりこんで座っていたのに、ふくだ先輩は笑顔で牛乳を飲んでいた。 そんな先輩に、走るのつらくないんですか、なんでそんな笑顔なんですか?と聞いたら、先輩は、走ってて辛いなぁ~と思ったら、親指をまっすぐ上につきたてて、まっくす!!!と叫んだら楽になるし笑顔になるぞ~!といっていた。 最近夜走っているんだけど、今日は調子がよかったので、目標をいつもよりも長く設定して走り始めた。 4キロ超えたくらいでだいぶきつくなってきた時にふと、ふくだ先輩のことを思い出した。 そんでそうだ。あれだと思って。 握りこぶしを緩めると、おもむろに親指を突き上げてみて。 まっくす!!!と叫んでみた(もちろん心の中で) そしたら。 全然楽にならなかった。 | コメントを書く (0) | Trackback (0)Title: 葉
2010.05.14 どこかにその人がいる。その事実だけで自分の中になにか化学反応が起きたみたいに、いろんなことが結びついたり、いろんな言葉がわいてきたりすることがある。 点と点はほおっておいても線になるのかもしれない。 網状脈のように広がる線はどこまでいくんだろう。 地球はとても足が速い。 振り落とされないようにいこう。 のらりくらりと。 | コメントを書く (0) | Trackback (0)Title: いろめがね。
2010.05.13 あの時食べた味の1つ1つとか。 あの時いった言葉の無責任さとか。 あの時にみた映画館の窮屈な席とか。 とけたチーズの感じとか。 自分の記憶の中で色あせず鮮明に残るもののほとんどは、感情と直結している。 脳みその中でなにかがはじけてる時に、体感したことの多くは、なんか深いところに刻み込まれてて、ふとしたときにふわっと匂ってきたりする。 そんな小さな粒みたいな記憶の積み重ねと、色眼鏡でみえるこの世界が自分のすべてであることがありがたいと思う。 | コメントを書く (0) | Trackback (0)Title: はしる。
2010.05.13 雲ひとつない日にぷれんてぃ聞きながらはしる。 はしる。 はしる。 なんではしってんだっけとかおもいながら。 はしる。 ここのところ毎日雲の中にもぐってたスカイツリーのあたまがみえた。 展望台みたいのができてた。 それをながめながら。 はしってるときに浮かんでくることのほとんどは。 余計なものがそぎおとされたような。 シンプルで原始的なものばっかなだとオモッタ。 | コメントを書く (0) | Trackback (0)Title: ボンブ
2010.05.12 くだらないおもちゃとか、雑誌とか漫画とか本とか。月に1万くらいは軽く使っちゃうかも、多い時だと2万位いっちゃうときもあります。といったら。 ある人が、いやぁ自分にはそんな余裕はないなぁという。 でもその人は1日2箱煙草を吸っている。 金額に換算したら対して差はないはずだ。 ものの価値というのは、本当に人それぞれだと思う。それぞれがそれぞれに無駄でないならそれでいいし、優劣もないだろうと思う。 (昔パチンコ狂いのぼうさんが、ぱちんこをしているときに、パチンコ台が曼荼羅に見えて、おれはさとったのかもしれんといっていたし、禁煙できないぼうさんが、凡夫であることを心から悟るかもしれない。可能性として、日々掃除だけをしていて、悟りを開いたシュリハンドクの話もあるしそれは否定できない) 話しがずれたけど、ただそこにある価値を、お金という単位で換算した時に感じる気持ちは、あくまで自分の主観であることを忘れたくない。 つい自分も、なんでそれにそんなにお金かかるの?!とか。もったいな!と感じることはあるし、事実完全に無駄だろそれと思うものはたくさんあるのは否めないけど。 なにはともあれ、お金の使い方を考えるというのは大事なことだなと思う。 兎角お金は目的ではなく手段であるということを忘れないようにしたいものです。 * つねに変化するの。なにごとも。 気持ちも想いも距離も形も。 それをそうじゃないとか、そうあってほしくないとか思うからしんどいわけで。そこにすがるから悲しくもなるわけで。 日々は変化してるのは事実で。 変化するのは生きてる証拠で、変化しないのは死んだものだけなんだろうと思う。 今を生きてりゃ変化するのが当然で。 事実を事実としてしっかり受け止めるのが、次へのステップじゃなかろうかと思う。 諸行無常かぁ。たしかにねぇ。わかるわぁ。 といいつつも、つい自分のこととなると、都合のいいところだけ諸行無常をわかったような顔してるのに、いったん口をひらけば、あいつは変わったとか、いつまでも一緒にいたいねとか、あの時の気持ちはどこにいったの?とか、あの時はああいったじゃないとか、言いたがってしまうわけで・・・ 変化は生きてる証拠だよ。 それに理屈で逆らおうとするのは、エスカレーターを逆向きにかけぬけようとするようなものなんだろうと思う。 仏教にこうやってもともこもないようなことを、冷酷につきつけられたときに、そんなもんわかってるよ、そんなこといったってできないんだもん!と言い返すと、そこにちゃんと答えが用意とかしてあって、いやぁ仏陀抜け目ないなぁとか思っちゃう。 たまにそのストレートさに悲しくなったり耳と目を覆いたくなる時があるけど、でも事実は事実。 | コメントを書く (0) | Trackback (0)Title: いいあんばい。
2010.05.11 今日は野良仕事の予定だったのに雨・・・ちぇっ。 とつぶやいたら、晴耕雨読だねだって。 なるほど、まさに。と思って本を読むことにした。 * ひいばあちゃんは、昔からお腹が痛いというと、じゃあお腹を干してなさいといっていた。だからあたりまえのように今でもお腹がいたとお腹を干さなきゃと思うわけで。 干すといっても、布団干すみたいな干すじゃなくて、要は一回食べるのやめて、お腹をからからにしなさいということらしい。つまりは、食べるのやめなさいということなんだけど、不思議とちょっと意識してお腹を干すと、お腹がリセットされる気がして調子が良くなる。 このリセットという行為は結構自分の中で大事で、一回まっさらにしてスタートするというのは、結構すきだったりする。 いままでの人生の中でそのリセットの方法をたくさん学んできて、その中には、あきらめだったり、逃げだったり、破壊だったり、別れだったり、たくさんの方法があったけど、でも最近リセットというのは物理的に何かを変化させなくてもできるもので、リセットはしようとおもえばいつでもどこでもできるんだということがすこしわかったような気がする。 なにごこもいまここから。 * こうみえて、昔から足が速かったのです。それだけは自分の中で胸を張れるところなのです。 なのでたまに全力疾走をしたくなるのです。そんで最近夜走りにいっているので、近くの公園で、短距離走を全力でやってみるのです。 たぶん、いまもそれなりに速いです。日本中の30代男子を全員集めて走っても速いと思われる部類に入れると思います。 でも、面白いなと思ったのは、手の振りやフォームも自分ではまったく変わってないと思ってるし、ぐんぐんスピードが上がってくる感じも変わんないのに、でも最高速度になった時に、自分の頭の中にある速さが、体感速度についてきてなくて、そこのズレがあからさまなわけです。 いくら腕を振っても足をあげても、違う日にチャレンジしても、頭と体がぴったりくるようにスピードにのれなくて、なんかむしょ~に気持ち悪いのです。例えるならば、エスカレータを逆に向かってダッシュするようなちぐはぐさが残るのです。 頭はおもしろいもんで、一番早かった時の感覚を鮮明に覚えていて、あのぐんぐんスピードにのってきて自分のマックスがここだぜ!とがつんとくる感じを忘れてないんだなと思ったら、夜の公園で30歳男子、なんか妙にセンチメンタルな想いがこみあげてきて、きょうしろうを聞きながら、いろんなものがこみあげてきてむしょうに悲しくなったわけです。 でもくそっとおもって、ちょっとそのちぐはぐさをなんとかしてやると思って、いっちょやってやるぜとか思っているわけです。 それでなにがかわるわけでもないけれど、でもきっとそのちぐはぐさが消えて、ぴたっと思い通りのスピードにもどれたら、なにかが変わるような気がするわけです。 * 何十年も同じ失敗を繰り返して学習できないこと。 お腹がすいてる時にマックのドライブスルーでメニューを頼み過ぎてしまうこと。 なんで何度も同じ失敗をしてるのに、ナゲット頼むんだおれ。 いい加減自分のあんばいをしれ、といいたくなる。 なのにできない自分。 にんげんだもの。
Title: 相性の合う人。
2010.05.10 人と人の相性というのはなんなんだろうかと考えて。 同じような経験をしてきたか否か、その差ということは大きいと思う。そんで経験の多くを生みだすのは、自分の感性であるわけで、興味が向く方向や、好奇心の根本には感性が大きく関わっているのは間違いないと思う。 感性が近ければ、同じようなことに矢印が自然と向くだろうし、結果同じような経験をしていくことになるんだろうと思う。 そんで、同じような経験が多ければ多いほどに、お互い行間を読める幅は広がるわけで、行間を読める幅の広さは=で相性がいいということになるんだろうと思う。 そういわれてみれば、居心地がいい人というのは、いい意味で多くを語らなくてすんだり、ニュアンスで話しが進んでいける人のような気がする。 「旅から帰ってきて日本の空港に降り立った時の気持ち」というえもいわれぬ感覚を、言葉で説明するのは難しいし、言葉で理解し合うのは難しい。それを頭でなんとか理解しようとしても、それはわけわかめになるだけなんだろうと思うし「声の調子がいい時の伽陀の発声をしたときの気持ち」とか「田んぼに裸足で踏み込んだ時のにゅるにゅるしたときの気持ち」とかいう抽象的なものを、笑顔で流していけたりする関係にも居心地の良さを感じたりもするわけです。 自分はそういう感覚やニュアンスでやり取りできる引き出しや経験をもっともっと増やしたいし、居心地よく生きていたいと思うのです。 だから今はまだ自分は誰かに歩幅をあわせてる場合じゃないし、まだまだ世界は広いぜとか青臭いこと言ってつっぱしりたくなってしまうことがあるわけです。(最近はこれでもすこし自重してますが) 停滞したくなくて、次から次に自分の興味のままにつきすすんでいきたいとか思ったりするわけです。 そんで、その人生の中で、合うときに合うべき人同士が点で交わっていけばいいと思うし、それが人生だと思うのです。だから人生は一期一会で、諸行無常なのかもしれないとおもうわけです。 Title: 紙一重
2010.05.10
側面的な部分に惹かれて、側面的な部分で相反する。それを一緒くたにして、自分の中にあるものと共存させようとしたら、自分をしっかり見つめて、自分の欠けている部分を十二分に理解して把握しないとあるラインから先には進めないと思う。いうなればそれができなきゃそこが別れなんだろうと思う。 惹かれる部分の比重が、ほんの少しでもいいからデメリットを上回っている状態というのが、お互いの距離を保つ要因なわけで。 でもその惹かれる部分のしめる割合が感情的なもので保たれていればいるほど、そのバランスが崩れるのも早いんだろうと思う。感情だけでデメリットを補えるのは、その人に関わる頻度にもよるが、そんなに長いものじゃないだろうと思う。 * たっと1つの楔で、自分の世界はいつがらがらと音をたてて崩れてもおかしくないんだと思う。 たった一本の電話で穏やかな朝の空気が簡単に書き消えるみたいに。 気分次第でここは、極楽にも地獄にでもなるようなもんだ。 それは考えようによっちゃ最高で、考えようによっちゃ最低だ。 最高と最低もまた紙一重。 | コメントを書く (0) | Trackback (0)Title: なんとでもいえる世界だ。
2010.05.08 トトロのあばあちゃんの声をしていた北林谷栄さんがなくなったそうだ。トトロの中であの役はなくてはならない絶妙な役だったと思うし、あの人を抜きにトトロはなりたたないくらいの最高のおばあちゃんぷりだったと思う。 * ネットで毎日だらだらとながれてくるニュースとか、テレビのニュースをみていると、さらりと表をなでただけような程度の情報が、自分の世界のすべてになってしまいそうでこわくなる。意図的で側面的で表面的で、みんながみんな自分を棚に上げて表面をなでては捨てていく。 それがあたりまえになって、物事をふかくことを掘り下げようともしないことは知らずのうちに習慣化する。そうはなるまいと思っていても、気を抜けば自分もいつでもそこに落ち込んでしまうわけで。鈍感になって、そこにのうのうにいられるようにならないと、ずっと踏ん張らなきゃいけないし、どこかをあきらめなきゃこのスピードにはついていけない。 その点自分は手をはなしたり、ひらきなおったり、あきらめるのは比較的得意だけど。 たまにどっちが正常でどっちが異常なんだかわかんないなとか思う。ニーチェは晩年鞭打たれる馬を見てそこへ駆け寄り、その首を抱きしめながら泣き崩れて昏倒したそうだ。 それは狂気なんだろうか。 * きっともうすこししたら、コアでディープなことを取り上げる傾向の世の中になるだろうと思う。そういう番組やそういう特集や記事が目立つようになるだろうと思う。実際少しづつだけどテレビも雑誌も、狭く深くの傾向が出てきたような気がする。反作用が少しづつ動いてると思う。 * なんか昨日も今日も電車にのった。そしたら2日続けて人為的な理由で電車が遅れているのを目の当たりにしたら、毎日毎日だれかが生きることをあきらめたくなるこの国は本当にこのままでいいのかと憂いたくもなる。 自分にはなにができるかはわかんないけど、毒矢の例えみたいなもんで、もちゃもちゃ考えるまえに、自分は自分にできるところで足を進めるしかないなとか思う。 * なんか。自分の方向性と矢印がびっくりするぐらいに先がとがって収縮して1つの方向に進んでいってる気がする。 やりたい仕事とやりたくない仕事の白黒があまりにもはっきりしすぎてきて、それがいいのか悪いのか考えようとしたら、ふと何かで読んだ黒柳徹子さんの言葉を思い出した。 「自分の好きな事だけおやりなさい。好きな事なら疲れても寝れば治る。いやな事をやっていると、あとに1つ悪いものが残り、さらにまた1つ残り、という風に身体を壊していく」 ほんとその通りだと思う。さすがトットちゃん、だてに窓際で外ばっかりみてたわけじゃない。 * ずっと話しがしてみたいと思ってた人と話ができて。 話した内容もさることながら、話し終えた後の自分の中にあるものがここちよくて、また話したいと思った。相手のなにをみて自分がそう感じるのかといわれればきっと感性なんだろうと思う。 相手と自分が合うか合わないかを左右するもののほとんどは感性なんだろうと思う。 そこにお互いの環境とか立場とか趣味とか年齢とか、後付けでいろんなものがついてくるけど、後付けをいくつか重ねてつながった人よりも、感性でつながれる相手をみつけたときに、自分の中にのこる心地よさはなににも代え難いと思った。 のらりくらり。 * なんかはしゃぎすぎて家に帰って反省するたびに、まわりが多めに見てくれてるからここまでこれたんだろうなと思うと、ありがたいことだとおもう。 そんで反省したのにまたすぐわすれてはしゃぎすぎちゃう自分。 * いまここ。 * あ。そうそう今日からワークアウト開始です。 ベトナム帰りのそこのお方どうでしょうか。 | コメントを書く (0) | Trackback (0)Title: 親鸞展
2010.05.08 日本橋でやってる親鸞展にいってきた。 展示の内容のことはさておき(もちろんすごく面白かった) でも今回の展示にいって一番感じたのは、これだけの人が親鸞に興味をもって足を運んでるんだということに対して素直に嬉しいと思ったことで、南無阿弥陀仏がこんなにスポットをあびていているということに、なんか特に、うち寺だからとか、真宗だからとか坊さんだからとか、意識してなかったのに、気づいたら浮かれてる自分がいて、大きな声で、真宗すごいっしょ!と言いたくなった。
Title: BBA
2010.05.08 昨日はひさしぶりにたくさんの若いおぼうさんたちと話す機会があって、いろいろと熱いものをもらえた。 自分よりもずっと若いお坊さんたちが増えてきて、彼らが今日はテンションあがった!とかいってるのをみると純粋にすごくどきどきするし、わくわくするし、まけてられないなとか思う。 そんで、まだまだ甘いなとか、それにおれのほうが仏教好きだもんね。とか心でつぶやいてニヤニヤする。 しかし、ほんと坊さんもすてたもんじゃない。 こんだけふつふつとしたものを抱えて、仏教を武器にこの世の中なんとかしてやるぜ、とか真剣に思ってる坊さんがこんだけいたら、なんとかなるんじゃなかろうかと思う。 この社会の中に、そんな坊さんがたくさんいることで仏陀をびっくりさせてやりたい。 でも今回のワークでよくわかった。 自分は布教とか伝道に関しての意欲が他の僧侶に比べて著しく低い。僧侶たるものすべからくアウトプットを磨くべきというのはよくわかるし、自分自身インプットにあまりにこだわり過ぎているとも思う。 でもきっといまの自分がアウトプットに重点を置いてしまったら、きっとそれなにりこなせちゃうし、たぶんうまいことまとめて、こぎれいな法話もできると思う、そんでそこに甘んじて、それを習慣化させてしまったらなんかそこでとまっちゃうきがする、というのも言いわけなんだろうけど、いまはそう思う。 100人にうまく伝わらなくても、1人でも2人にでも質感をもって伝わるような言葉を使えるようになれればいいと思うし、そのためにはどうしてももっともっとインプットを磨かなきゃだと思う。 話すのはうまくなりたいし、たくさんの人に仏教のよさを伝えたい。でもそれが自分の仕事だとはどうしても思えないこのジレンマ。 きっとどっちも大事なんだろうけど、その比重がどうしても内に内に向いてしまうのは、どうしたもんなんだろうか。僧侶として、誰かのため働くべきとか、布教や伝道がなければ僧侶じゃないとか、南無阿弥陀仏のセールスマンとかいうのはすごいわかる半面、自分は違うんだ、なにが違うのかわかんないけど、いまはそうなりたくないんだと抵抗する何かが自分の中にある。 布教や伝道に心が向かうには、まだ自分の中で何かが足りてない。 ものすごく身勝手だけど、今も今までも、自分は結局仏教で救われたいのは自分で、自分の為に仏教を学んでいて、自分の為に真宗をもちいてるんだと思う。 それに、これすげぇよ!まじすげぇよ。仏教で楽になることあるよ。と思うし言いたくもなるんだけど、でもそれを簡単に人に進められるほど、仏教って優しくないとか思うし、毒にも薬にもなるというか、諸刃だと思うことがある。 こんなもんオブラートに包まないで差し出したら、そうそう簡単に受け入れられるはずなんてないと思うし、でもきれいにオブラートでくるめるほど自分の中では消化できてないし。 まず力不足の一言に尽きる。 30になってみて、少しづつ他の人たちの目指している姿と、自分の目指している姿のギャップがなんなのか、いままでもやもやとしてたものが明確に見えてきて、進むべき方向性に迷いは少なくなったものの、ここから先はほんと自分の足でしか進んでいけないんだなと思うと同時に、立ち止まりそうになった時に、灯となるような人がいてくれたらどんなにありがたいかと思う。 舎利佛さんに唯円さんはほんとに幸せ者だな。
Title: 終祭
2010.05.06 少しづつ夏の匂いがしてきて、いろんなものに過度に期待をしてる自分に気づいて、まだはやい、まだやるべきことは残ってると自分を戒める。 しかし、このGWはやりたいことをたくさんやって、好きなことを好きな人たちとたくさんして、無駄に泥だらけになったり、無駄に笑って、無駄に緊張して、無駄に文句言ってみたり。無駄ばっかの満ち足りた時間だった。そんななくても全く困らないような時間をこれからもたくさん積み重ねていきたい。 いまになって祭りのあとのような物悲しさがあるものの、祭りは終わるからこそ熱を帯びるんだろうと思う。 * 生きていくということは、生きてることを確認する作業の繰り返しのことを言うのかもしれないと思った。 それぞれが色々な方法で生きてることを確認して、生存を確認しながら、そこにいろんな意義を見いだしながら、足を前にだして言っているんだろうと思う。 意識的にでも無意識的にでも、それをしていかないと人は前には進んでいけないんだろうと思う。 * この世界に、肯定できないものは1つもなくて、否定できないものも1つもないんだと思う。 なにが正解でなにが不正解かなんてことは考えてもしょうがないんだろうと思うし、どっちが正常でどっちが異常かとか、どっちが幸せでどっちが不幸せかなんかわかんないんだと思う。 その境界はつねにあいまいだ。 * ああ完全に寝不足。 * あ。地味にサイトがマイナーチェンジされたのです。 | コメントを書く (0) | Trackback (0) |
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