• PHOTO最終更新日2010年10月11日



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Title: 言葉

hpのminiPCの使い勝手にもキーボードの大きさにもだいぶ体が慣れてきた。若干性能的にやっぱ気になる部分はあるものの持ち運びを考えたら十分な性能。

言葉というものについて最近考えさせられることが多い。

まえにオールウェイズ3丁目の夕日を見たときにも感じたけど、「くそばばば醤油のんで死んじまえ!」というのをそのおばあさんにいえるということは、お互いの信頼関係あってだし、言葉尻をとらえればひどいことみたいだけど、でもそれは愛情があるやりとりだと思う。逆に「おばあさんいつまでもお元気で」という言葉をかけたからと言ってその人に関心がなければ全然意味がない。

大事なのは言葉なんじゃなくて、言葉を発する人の中にあるものなんだと思うし、本当に中にあるものは言葉に頼らなくても伝わるものなんじゃないかと思う。

そりゃそうだよ当然じゃないか。なにをいまさらと思うんだけど、でもそれを自分がちゃんと質感をもって感じていたかというとそうじゃなかったと思う。

吉本隆明さんの講演をきいて改めてそう思った。なんていうか言葉が先に出てるのではなく、言葉に心をおいつかせるのではなくて、心に言葉を後付けでさがすような絞り出すような感じがした。

言葉ありきの心ではなく。心ありきの言葉を使えるようになりたいと思った。質感をもって。

すこしそこから話はずれるけど、言葉は大切だけど、それはあくまで一つの手段であって、それ以上でもそれ以下でもないという事実は間違いないと思う。その事実をちゃんと直視するかしないかで心にかかってくる負荷もだいぶ変わってくるんじゃないかと思った。

言葉にしてほしいときもあるんだよとか、言葉にしないとわからないことというのはたしかにそれは間違いないからそれはそれで大事にするんだけど、でも言葉はあくまでなにかを形容する1つの手段であって、いくら自分のほしい言葉を引き出せたからといって、その瞬間安心できたからといってもその瞬間にいつまでもつつまれていることはできない。心というものはいつだって変りうることを考えれば言葉は無常だ。そういう意味じゃ本当の意味での安心というのは言葉によってもたらされるものじゃない。

そう考えれば本当の意味での安心ってのは言葉とかそういうものに左右されるところにはないわけで、じゃあどこにあるかといえば、その言葉をとらえる自分の解釈の問題になってくるんじゃないかと思う。矢印を内側へ。どんな言葉をかけてもらえても、自分がだれかにどんな言葉をかけたとしても、それは1つの事実に対する手段であり形容であって、自分が必ずしもいつもその言葉を生み出せるかというとそうじゃないし、それは相手も同じだということ。そういう瞬間を大切にしつつもそれは無常であると思えることに幸せっていうのはあるんじゃないかと思う。なくなりうるから価値があるのであって永遠なんてものには価値はないと思う。

そう思ったらいまかけてもらえた言葉や人にかける言葉にものすごく質感がともなうんじゃないかと思った。

この事実を間違いないと思えたらものすごく楽になれるような気がする。口にだすだけでそのつもりにならないように、何事にも質感をもって。

言いたいことがうまくまとまらないけど。

いつまでもあると思うな髪の毛と命。ということです。


POSTED @ 2009.01.22 | Comment (0) | Trackback (0)

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  • 自己紹介:1980年1月9日生まれ。どこからを趣味と呼んでいいのかは模索中。好奇心は旺盛。