Title: おりかえし。
夏がどこで終わるかっていうのは、きっと自分の心が折れたときなんだろうと思う。
昨日ほろ酔いの帰り道で、顔にあたる風に、夏の匂いが少し薄れている気がして、不本意ながらふと、ああなんか夏ももう終わりに近づいてるななんて思ってしまった。
でもまだ気持ちは折れてないので、きっと昨日で折り返したってことで納得することにした。
しかし昨日は、まっすぐにぶつけられる想いとか、疑問に、なんか久々に、熱くなって話をした気がする。帰り道で、話したことを何度も反芻して、あんなこといわなきゃよかったとか、もっと話を聞くべきだった、しゃべりすぎた・・・とか、ちょっと反省もしたけど、でもなんか、ああやって実感を持って、話をできる場はほんとうにありがたい。
やっぱり会話というのは大事なんだと思う。何をするにも、会話の中から相手を見つけるし、自分をさらけだせるし、会話だけじゃない。発信することには、それ相応の労力とも時間も、時に勇気も必要だけど、そこからしか創造はできないし、何かが動き出すことはないんだと思う。
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この夏の間に抜けるような青空と入道雲がでている日がどれだけあったろうか。そう考えて、どれだけこの夏、自分は空を見上げる余裕があったっだろうかと思った。
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智慧と知恵について、話す機会があるので、それについてここの所、その違いを頭の中でこねくり回している。
知恵というのは、見方によって変わるものであり、背景や時代や、置かれた環境によっていくらでも価値の代わるもので、智慧というのはどの時代だろうと、どんな背景だろうと、置かれた環境でも変わらないものであると思う。
たとえば、愛や恋や平和や正義も、それは人が生きる上で必要な知恵だけど、それはあくまで知恵であり、いうなれば、自己防衛にもなりうるし、あくまで主観的な妄想みたいなもんなんだと思う。
智慧というのは、人はあくまで人である(嘘もつくし裏切りもする、でも感情的に涙も流すし、人のために命を投げ出そうと思ったりもしちゃうことがある)という不確かであいまいで、ふわふわしたもんなんだという前提を知ることであり、すべてのものごとは色眼鏡でなりたっていると思うことであり、そして、誰もが死ぬということでもある。
智慧というのは、いうなれば、どこまでも客観視することであるんだと思う。でも人間が自分を客観視するということは難しい、あくまで脳みそのはじき出すことのすべては主観にしか過ぎないわけで、それをどこまでできるかという範囲を広げていくことがなによりも大事なんだろうと思う。
そうすると簡単に自分を棚に上げたりしなくなるだろうし、誰かを許せる幅も広がるんだろうと思う。その範囲を広げるだけで、自分の行動や使う言葉や、見える世界はきっと明らかに変わるんだと思う。
悟りなんて自己申告じゃんって思ってたけど、きっと自己申告なんかしなくても、その範囲がどのくらいかなんてことは、その人のすべてをみればきっとはっきり言葉や行動や目に見える形で出るのかもしれないと思う。
そんでそこにいる人たちにはきっと、とくに経典とか難しい話をしなくても、二言三言言葉を交わせば分かり合えるのかもしれない。
馬じゃげな。
そうじゃげな。
って。
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あれやせました?とか、体重が増えたときに限って言われたり、体重が2キロも落ちているのに、ちょっと太りました?とか言われたり、前よりも髪の毛短いのに、髪の毛伸びたねとかいわれると、なんか妙に安心することがある。
きっといろんな要因があって、
体重が増えてても、焼けたのでやせて見えたとか、体重は落ちてるけど、前の日に飲みすぎて顔がむくんでいるとか、前にあった時には帽子をかぶっていたので、髪の印象はそんなになかったはず。とか。
印象なんてものはそんな些細なことでころりとかわるし、人は自分が思っているほど自分をみてない。
これは事実だと思う。
逆を返せばあたりまえのように、そんなに見ていない中で、印象というものをつくりだしているわけだから、そんなものになんの信憑性もない。
一見すると、あんたのことなんか、たいして誰も見てないよ、それに印象だってみんな都合のいいようにつくりだしてるだけなんだから。
といえば、ひどい・・・そんなのひどい。と思うかもしれないけど、でもそれは事実だし、その事実ほど優しいものはないんだと思う。
だからこそ、自分は自分の道を歩いて行けるんだって思う。
最近その事実にものすごい安心したり、ここ一番でその事実に背中を押されたりする。
もちろん、かまってほしい、自分をみてほしい、おれはここだ!と思うこともあるし、そういう時には、それが満たされないと寂しくもなるんだけど、ここでもメリットとデメリットは混在していて、自分の中にパラドックスがあることが浮き彫りになって、そんな自分に気づいてまた安心したりもする。
こんなことを考えていると、仏教は、もともとの状態に、なにかをプラスさせるようなものではないのかもしれないと思うことがある。
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ネガティブな意味ではなく。
人間が孤独なことは、既存設定なんだと思う。
だからそれを埋めるために、社会を生み出し、夢や希望や愛や恋を生み出そうとしてできあがったのが、現実というものなんだろうと思う。
それをまんまみると、無常だし味気ないし、理屈っぽいし、人間そんなんじゃないでしょと思う。
でも、味気ない現実を見つめなきゃ、本当の意味でそこにある生を味わうことなんてできやしないんじゃないかと思う。
いうなれば、日本人は米でしょといいながら、白米の味がわかないようなもんで、昨日の白米の味をはっきり覚えていますか。というようなもんなんだろうと思う。
例えが雑だけど。
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POSTED @ 2010.08.21 |
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