• PHOTO最終更新日2010年10月11日



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Title: BBA

昨日はひさしぶりにたくさんの若いおぼうさんたちと話す機会があって、いろいろと熱いものをもらえた。

自分よりもずっと若いお坊さんたちが増えてきて、彼らが今日はテンションあがった!とかいってるのをみると純粋にすごくどきどきするし、わくわくするし、まけてられないなとか思う。

そんで、まだまだ甘いなとか、それにおれのほうが仏教好きだもんね。とか心でつぶやいてニヤニヤする。

しかし、ほんと坊さんもすてたもんじゃない。

こんだけふつふつとしたものを抱えて、仏教を武器にこの世の中なんとかしてやるぜ、とか真剣に思ってる坊さんがこんだけいたら、なんとかなるんじゃなかろうかと思う。

この社会の中に、そんな坊さんがたくさんいることで仏陀をびっくりさせてやりたい。

でも今回のワークでよくわかった。

自分は布教とか伝道に関しての意欲が他の僧侶に比べて著しく低い。僧侶たるものすべからくアウトプットを磨くべきというのはよくわかるし、自分自身インプットにあまりにこだわり過ぎているとも思う。

でもきっといまの自分がアウトプットに重点を置いてしまったら、きっとそれなにりこなせちゃうし、たぶんうまいことまとめて、こぎれいな法話もできると思う、そんでそこに甘んじて、それを習慣化させてしまったらなんかそこでとまっちゃうきがする、というのも言いわけなんだろうけど、いまはそう思う。

100人にうまく伝わらなくても、1人でも2人にでも質感をもって伝わるような言葉を使えるようになれればいいと思うし、そのためにはどうしてももっともっとインプットを磨かなきゃだと思う。

話すのはうまくなりたいし、たくさんの人に仏教のよさを伝えたい。でもそれが自分の仕事だとはどうしても思えないこのジレンマ。

きっとどっちも大事なんだろうけど、その比重がどうしても内に内に向いてしまうのは、どうしたもんなんだろうか。僧侶として、誰かのため働くべきとか、布教や伝道がなければ僧侶じゃないとか、南無阿弥陀仏のセールスマンとかいうのはすごいわかる半面、自分は違うんだ、なにが違うのかわかんないけど、いまはそうなりたくないんだと抵抗する何かが自分の中にある。

布教や伝道に心が向かうには、まだ自分の中で何かが足りてない。

ものすごく身勝手だけど、今も今までも、自分は結局仏教で救われたいのは自分で、自分の為に仏教を学んでいて、自分の為に真宗をもちいてるんだと思う。

それに、これすげぇよ!まじすげぇよ。仏教で楽になることあるよ。と思うし言いたくもなるんだけど、でもそれを簡単に人に進められるほど、仏教って優しくないとか思うし、毒にも薬にもなるというか、諸刃だと思うことがある。

こんなもんオブラートに包まないで差し出したら、そうそう簡単に受け入れられるはずなんてないと思うし、でもきれいにオブラートでくるめるほど自分の中では消化できてないし。

まず力不足の一言に尽きる。

30になってみて、少しづつ他の人たちの目指している姿と、自分の目指している姿のギャップがなんなのか、いままでもやもやとしてたものが明確に見えてきて、進むべき方向性に迷いは少なくなったものの、ここから先はほんと自分の足でしか進んでいけないんだなと思うと同時に、立ち止まりそうになった時に、灯となるような人がいてくれたらどんなにありがたいかと思う。

舎利佛さんに唯円さんはほんとに幸せ者だな。


POSTED @ 2010.05.08 | Comment (0) | Trackback (0)

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  • 自己紹介:1980年1月9日生まれ。どこからを趣味と呼んでいいのかは模索中。好奇心は旺盛。