Title: おひがんはいります。
年度末の怒涛の事務作業もだいぶ落ち着いて前代未聞のどたばた卒園式も終わりほっとするまもなく明日はお彼岸入りです。
みなさんたまにはお墓参りでもいかが。
暑さ寒さも。
こないだの大雨を境に急にここちよい気温になった。
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お彼岸の法話の原稿もまだ書き終わってないのに、ひたすらDVDみて現実逃避。いやぁ北八先生おもしろいなぁ。劇団一人最高だな。
こないだ借りた「大日本人」は・・・すこし残念だった。途中まではなかなか深くて伝統とか文化とかそういうものを考えられそうな流れだったのに・・・落ちがね・・・きっとおれのレベルがまだまっちゃんに追いついてないんだきっと。
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今年夏に最南端を目指そうかという漠然とし旅への欲求がむくむくわいてきた。気候のせいだ間違いなく。あとは時間と後ろめたさとの戦いに打ち勝つだけです。いくぜ最南端。
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「ほんとの瞬間はいつも死ぬほどこわいものだから逃げ出したくなったことは今まで何度でもあった」
ほんとの瞬間はいままでたくさんあったのに。いろんなことができるようになっていろんな経験をしていくなかでどうやらほんとの瞬間を感じるということににぶくなったみたいだ。
最後にそれを感じたのはいつだったか。
焼肉かけてフットサルの試合をしたとき以来か。。。
終わらない歌を歌おう。声を大にして。
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「信心」とはなにかということを考えいてふとおもった。
信じるという言葉。それを使う場面ではそれは100%の確信がないときだ。むしろ多少なり疑う心があるときにしか出てこないんじゃないだろうか。
あなたを信じる。明日が晴れると信じてる。信じるは希望的観測にすぎないんだろうか。信じているという言葉は自己暗示みたいなものなんだろうか。
100%の確信があるときに信じているは使わない。
間違いなくここは地球だというように。
ここが地球だと信じてるという人はいないはずだ。
疑いようのないものには断定をつかうはずだ。疑いのあるものにしか信じるを使わないんだとしたら。
一体信じるとはなんなんだろうか。
信じるというものにはまじりっけがないとなりたたないのだろうか。信じるは逆説を抱えた単語なんだろうか。でももしその疑心もひっくるめたものが信心だとしたら信心は純粋なものではなくなるわけで。まじりっけのない信心に結びつくためには確証のある何かが必要なんだきっと。それは脆弱な自己なのかその自覚なのか。
そもそも疑うから信じるのか。信じるから疑うのか。
深みにはまって言葉遊びをはじめたらそれはそのまま宙ぶらりんにして放置するということを学んだので、もう考えるのやめた。
これこそえぽけーです。
うっすいカルピスのんでお風呂でお坊ちゃま君でも読もう。
ともだちんこ。
POSTED @ 2008.03.16 |
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