Title: 法縁
ダライラマ法王の話をきいて。
きっといろんなことを感じる人もいるかもしれないけど、自分の感じたことをそのまま書きます。
今回はじめてダライラマ法王の話をきいて、とくにめあたらしい言葉もなければ、目から鱗が落ちるようなこともなかった。でもそれがかえって深く自分の心に響いたし、あれだけ単純な言葉であれだけ確かなものを感じさせられたのはすごいと思った。感応道交っていうんだろうか、言葉尻ではなく力のある言葉だった。
話をきいて一番に感じたのは「ああこれで間違ってなかったんだ」っていう感情だった。
えらそうになにをわかった気になってるんだと思うかもしれないけど、でも本当に自分がここ数年でかみしめてきたこと、文章にしてきたこと、もやもやしてきたこと、その一つ一つにそれでいいんだ。と言われたような気がした。だからこそ、あの話をきいても自分の中でなんの違和感もわかなかったし、むしろ当たり前のことをものすごく確かなものとして受け止められたし、その言葉に確かな深みみたいなものを感じることができた。
ものすごくレベルを下げて話をしているのも十分に伝わったし、あの時間で通訳を通してでは限界があるのもわかる。でもその中で完璧な位置で難しくも噛み砕きすぎずも仏教というものの本質をとらえていたと思うし、あの語り口やたとえ話は本当にわかりやすく入りやすかった。そしてなによりもすごいなと思ったのが話の導入の仕方と前置きだった。
自分と同じものを読んでる。自分と同じものを扱っている。ダライラマ法王も自分でいっていた通り自分も同じなんだ。という言葉がものすごく意味をもっていた。遠い人じゃない。なにか不思議な力を持っているわけでも神格化されるような人でもない。一言でいえば、こんなこというのははばかれるのかもしれないけど、自分とおなじ一求道者で宗教者なんだということがひしひしと伝わってきた。今回の話をきいて、ダライラマ法王の言葉に新たなことを吸収したり、学んだりということではなく、いま進んでる道にどんと自信がもてたというか、背中をどんとたたかれた気がしたと同時に自分もあんなふうに宗教を扱えるところまで行きつけるんだろうかとおもった。
自分にはあれだけ確かな言葉で宗教を語れない。あれだけ強いものを言葉にのせることはできない。同じ言葉にのっている重みの違いっていうのをまざまざと感じた。あれだけ仏教を、哲学的に論理的に語れて常識の枠の中からはみださずに真実を伝えることができる人はきっとほかにはいないと思う。あれが仏陀の資質みたいなものなんだろうか。
最後の質疑応答である禅宗の僧侶の質問に対して、法王は竜樹の中論の中の18章24章26章にあなたの答えが書いてあるといった。それがものすごく気になって中論を読んでみようと思った。
今回感じた一つは竜樹の中論もそうだけど、宗派の垣根をこえて宗教を扱っていくことの重要性というか、宗派の違いはあれど自分たちの扱っているものは同じであるという認識を宗教を扱う人間は持つべきだと思った。
真宗の人間はすべてではないけど宗派に偏っている人がおおいと思う。もちろん自分の知っている人の範囲だけだけど、親鸞教団を連発する人とか、親鸞によりすぎて本質を見失っているんんじゃないかとすら感じる人もいる。真宗はピラミッド構造で頂点に親鸞がいると、しかし禅宗というのは何かに頂点があるわけじゃない分幅もあるし、解釈に余裕もある、ピラミッドというよりは台形に近い。といった人がいた。それを言われた時にはよくわからない言葉だったけど今になってすこしその意味がわかったような気がした。
宗教の本質は自分の中にある。宗教の本質は単純でいてシンプルなもの。ということがものすごくよくわかった。
本当に話がきけてよかった。この法縁に感謝。
POSTED @ 2008.11.06 |
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