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![]() Title: 世間の代名詞を捨てること
2008.08.27
末法とはよくいったもので、社会というものの中で生きる上で、内面に目を向けることや宗教というものに触れる機会というのは優先順位ではかなり下のほうに位置せざるをえない。 どうしても生活であったり、仕事であったり、それこそ娯楽であったり。よくみてみればいくらでも選択肢のある中で選ぶこと自体が大きなカテゴリーの枠の中だけにあることで、そこの枠からはずれた選択をするということは極めて少ない。 豊かになることはすばらしいことだと思う。豊かになるというのは言い換えれば選択肢が増えること。 でも選択肢が増えるということはそこから何を選ぶかということが選ぶ側に委ねられる。そんなたくさんの選択肢の中で、あれはいい。こういう生き方は理想。あれは負け組。これは勝ち組。なんて見出しがおどり特集を組まれる。 こないだまでよかったものがすぐにダメになる。それに振り回されて、価値観におどらされて、追われるようにそれについていこうとする。選択肢が増えた分、迷いが増えて、そこから生まれる苦しみは年々増えていくんじゃないかと思う。 犯罪の低年齢化だってその弊害のひとつだと思う。 自分が幼稚園や小学校やだった時にくらべて今の子どもたちに課せられた選択肢ははるかに多いんじゃないかと思う。 そこにかかる重圧や期待にこたえようとする想いは大人にかかるものなんかよりも何十倍も重い。本来は社会からかかるそういう重圧を取り除いてあげるはずだった親はそれに輪をかけるように家でもプレッシャーをかける。 最近でも犯罪をおこした人が口々に言う。親から勉強しろといわれて。親に就職をしないのを馬鹿にされた。親を困らせてやろうとおもった。 親もふりまわされてる。価値観に。子どもはこうあるべき。世間に顔向けできない。そんな言葉の1つ1つがこの世界を少しづつゆがめていく。 職業だってそうだ。 こういう職業がかっこいい。ああいう仕事がしたい。自分に合う仕事はこれ。転職して自分に合う仕事を。そんなたくさんの選択肢と職業選択の自由がもたらしたのは、ニートという言葉とネットカフェ難民ですか。 みんな疲れてるし迷ってるのに。そんな姿にすぐにまた世間は見出しをつける。 GDPに比例して増えていくのは自殺者の数をみて、本当に必要なものはなんだろうと考えることが大事なんじゃないかと思う。 あれがいい。これはわるい。そう判断する自分の感覚がほんとうに正しいなんてことは絶対にない。 くさいものに蓋という言葉がだいきらいです。 くさいものなんだ生きるということは。 そういう価値観の連鎖の中にいるということが社会であり世間であり。さらには世俗であり衆生。そしてくさいものに蓋をするということが人間のものさし。 そんなものを手放していきるということが出家。 でもそんなことできるはずもない。出家しました、はい価値観にふりまわされませんよ。なんてことあるはずもない。むしろ出家をすれば出家をしたのに。出家者だからという新しい枠にとらわれそこにまた1つの苦しみが生まれる。 親鸞はそんな自分をみて僧をやめようとした。自分は僧なのに人を好きになるし。同じようなところで苦しむしという思いが強かったのかもしれない。そこで長いこと仏教にかかわっていながらもまだ自分の中にも僧はこうあるべきで、これなら世俗だという人間の価値観に振り回されていたことに気づく。 僧をやめるとか続けるとか。僧であることとか俗であることとか。そういうものにとらわれていてはだめだと。 そこで非僧非俗という立ち位置を打ち出す。 僧に非ず俗に非ず。じゃぁなんなんだと。 自分はいままでそう思ってた。 でもこれはじゃあなに。じゃなくて。 ない。なんもない。ってことなんじゃないかと思った。 僧でも俗でも、なんでもない。 愚禿釈親鸞 これだけ。 親鸞なりにすべてを手放した結果が「愚禿釈親鸞」にいきついたんだと思う。世間の代名詞の中で生きることを捨てるということが真宗の中ではものすごく大切なことのような気がした。 そうおもえば「ひとへに親鸞1人がためなりけり」という言葉の意味もなんとなく了解できるようなきがする。 Title: 総括終夏
2008.08.24 あたたかいほうじ茶が夏の疲れがたまった体にほっこりと染み込むような気がする。 ここ数日の急激な気温の変化に比例して夏真っ盛りだった気持もすこしづつ秋へ向けての準備をはじめる。 きっと気のせいなんだろうけど、ほんとこの時期の蝉の声というのはなにか絞り出すような必至さがみえて物悲しさすら感じるのもきっとその兆候なんだろう。 今年の夏はいろんな意味で充実してた。 いろんなことを考えられたし、新しいことにチャレンジもできたし、たまってた本も全部読むことができたし、島にもいけたし、改めて自分の中にある気持ちにきづけたりもした。 ほんとに自分は幸せだなと感じる瞬間がたくさんあった。 やっぱのみながらいろんなことを話すというのはたのしいなぁ。とつくづく感じた。しかしこの夏に飲むビールのおいしさが1年間お預けになるのはかなしい。 夏が終わって気づけばもう28歳も折り返し地点を過ぎた。この残りの数か月はまだ達成できてない目標にむけて全力をつくすとしよう。 さて。 新学期もスタートです。気合はいれずに。いつもどおりでいきますよ。力を入れないほうがことがうまく運ぶということをいやというほど学んできた教訓をいかします。それに対応するだけの地盤はしっかり作ってきた自信もだいぶついた。 あ。ちなみに。 なんとなく夏が終わった風な感じですが、まだ自分の中では終わってませんよ夏。 まだ短パンに雪駄履きますよ10月までは。 まぁもうイタリア料理店にははいては行きませんけど。 ■ こないだ明け方に築地の市場へいった。ひさしぶりにいったんだけど、やっぱ自分はこういう雰囲気が好きだなぁと改めて実感した。市場というのはどこの国にいってもあって、どこの国にっても活気があって、その国の人柄がものすごく出る場所だと思う。 明け方だというのに観光客がおおかったのにはおどろいた。数年前まであんなに外人の観光客なんていなかったのに。 あの雑居感。さいこうだなぁ。日本もアジアなんだなぁって、最近町の中で感じることはなかったけど久々に感じた。 明け方の町には繕いきれず覆い隠せないものがにじみ出る。 ■ 足の甲にひびはいってる。絶対。 おおげさじゃなく。 深夜の路地裏を雪駄であるいてたら明らかにおかしなところから飛び出した鉄パイプを思いっきりけりあげました。 ちなみに、足が腫れてきて左足だけ足袋がきつきつです。しかも正坐すると明らかに左足が大きくなってるのがあからさますぎます。 おれてはないだろうけど。これヒビはいってるって。 大袈裟だと笑ってた人たちにいいたい。まじ。これおれじゃなかったら歩けないって。 ■ 変化するということにだいぶ気持がついてくるようになった。これがほんとうにここ数年の成長だと思う。 世界はいつも変化してて、自分も他人も。 今日とおなじものなんて一つもなくて。人間関係だって昨日と今日が同じではないと思う。今日いま目の前にある現実だって明日には現実じゃなくなる。 一期一会。 これは、出会いを大切にという意味もあるだろうし、袖振りあう縁的な出会いももちろん含まれるだろうけど、この言葉は毎日顔をあわせる人にこそ忘れてはいけない心だと思う。 いまここ。 それだけが現実。 ■ やすみ中にサイトを更新した。DIARYの部分のムーバブルの手直しを全面的にちょこちょこ手直しした。 ほんとひさびさに夢中でHTMLをいじり倒して思った。 やっぱすきだわ。こういう作業。なにかをつくるということ。0からなにかをつくること。 たのしい。ほんとたのしい。3日間いじり倒して、寝てても夜中にああ。あれをこうすればいいのかも!とかああ、あそこはこう書き換えたほうがいいなとか。完全にムーバブルタイプづけになれて最高に幸せだった。 自分にとってサイトというのは城みたいなもんで、ここだけは閉じられないなぁと思う。サイトを手直しして昔書いたものなどもまとめていていろいろ思い出してたら、はじめて自分のサイトを作った時からもう10年たってることに気づいた。はやいなぁ10年。10年ひと昔なんていうけど、ほんといろいろあったなぁここ10年。 ■ プリズンブレイクはもうみない。ときめたのについシーズンⅢの1巻に手を出してしまった。そしてまた見事にスコフィールドマジックにかかりました。 あの話の切り方は反則です。次が気になるじゃん。 思うつぼだけどもう最後までみないわけにはいかないわ。 ■ おもうに人生は昇華の連続だと思う。 満たされないものを何かで補おうとするときに人間の発揮する力ははかりしれない。 おもうに宗教を深めるということは究極の昇華なんだと思う。 ■ 会話をするということはものすごく重要なことで。なにごとも口に出すという行為は大切だ。同時に聞くということも。 無駄な話にみえてもそれについて口をだすと思わぬ発見があったり、自分の中にあった漠然としたもやもやが払拭されたりする。 コミュニケーションは娯楽であり自慰でもありときに手段であり過程にもなる。 たのしいよなぁ。コミュニケーション。いろんな人と話がしたい。 ■ こんどモノポリーの世界大会の東京予選に出場することになりました。11月です。だれかモノポリー好きな人特訓につきあってください。まじで。ただひたすらモノポリーしたいです。できれば秋の夜長にいっぱいのみながら。 ■ 書きたいことが尽きないんですが。もうすぐお彼岸なのでそれにむけて本でもよみます。 Title: 夏も中盤
2008.08.13
いやぁ面白い。もともとああいう仲間が集まってきて力を合わせる系の映画には弱いので見る前からきっとやられるだろうとは思ってたけど。あのベタ加減が最高です。演技の云々は別としても見終わった後の爽快感はまさに今、夏にぴったりです。 ああ。やっぱ熱いっていいな。スポーツっていいなぁ。フットサルで優勝したいなぁ・・・みんなでなんかしたいなぁ。 この映画を一言で言うなら。 「最後になにかに本気になったのはいつですか?」 と。直球で投げかけてくるような映画です。 最近思うのは。仕事も大事だしそれぞれたくさんいろんな事情があるけど、でも今だからこそ全身全霊で遊びたい。大人げなくなんてくそくらえで。 本気でなにかしたいです。大人が全力で遊んだら。子どもなんかにゃまけないぜ。 大人は本気になったら子どもの何倍も純粋なんだと思う。 でもそれにはどうしても仲間が必要なんだな。一人じゃなにもできなから。 だから友達ってのはいいもんです。 まぁまずはフットサルで優勝目指か。 話はかわりますが、こないだ加圧トレーニングしました。 今から書くことはまじで1mmも盛ってません。基本1.5割増なんてよく言われますが、ノンフィクションでお送りします。 先日いきつけのジムで加圧トレーニングを申し込みました。 まぁまずは体験的な感じで。トレーナの方が右手だけまずいきましょうと。そのほうが違いがわかるので。といい。おもむろに右手の付け根をしばりあげて加圧をしました。 たしかにきつい。血管もモコモコしてきたし、動かすたびにきつい。 じゃこれでダンベルを何回かあげてみましょうといい。3kgのダンベルを持ってきた。3kgって。 おばちゃんがテレビ見ながらダイエットするんじゃないんだからなめんじゃないよ。こっちは元ラガーマンですよ。と思いながらレッグカールを開始。 数回。 数十回。 あ。 あれ。 きつい。 これきついわ。 たかが3kgですが30回でだいぶきついです。 しかしおどろくのはここからです。 じゃ減圧しますね。 え。これだけで終わり?と思いながらも減圧してベルトを外します。 するとトレーナー。 じゃ左手と右手を並べてくらべてみてくださいと。 いやいやいや比べるも何も
その後左足を加圧してスクワット。 これまたきつい。 その後減圧して右足と比べます。 あ あれ。 左足がでか!! ってなります。 いやぁみなさん。今度会ったらきっとムキムキになってると思いますがあしからず。 加圧。 いいねぇ。 ちなみに。盛ってないよこの話。 まじで。 むしろちょっと抑え気味位。 まぁやった人にしかわかんないってこれ。 夏も中盤にさしかかりました。折り返しです。 まだ折り返しか。 もう折り返しか。 とりあえず夏満喫。 | コメントを書く (0) | Trackback (0)Title: PC復活
2008.08.11 なにげなく書き始めたらどうも自分の中にいろいろ溜まってたみたいでだいぶながくなりそうです。 PCがないということがこんなにも自分の心や生活に影響するとは思ってもいなかった。だれになんていわれようと自分をつくる要素の数%はパソコンによってもたらされる。 この利器は人類史上最高の発明だといっても過言じゃないと思う。人間が進歩する上で情報の共有、伝達というのは欠かせなかったはずだ。 シルクロードを渡って命をかけて手にしていた経典がググればでてくるってことは、よくもわるくも一長一短で一言ではいえないけど、間違いなくそこにあるものが与えてくれるものの恩恵は大きい。 パソコンの使えない1週間でなにが一番つらかったかって、思ったことや感じたことやまとめなきゃいけない原稿をかきとめておく術がなかったこと。手書きでいいじゃんと思うかもそれないけど、ここまでPCで文章を書くことに慣れてしまうと手書きで書くことのもどかしさに心がついていかない。 それに文章や活字は生ものだと思う。その瞬間その時に沸いてきた言葉や文章は時間が立つとおなじ字ズラでもその意味は全然違うものになる。だから書くことはおもしろくもあるしやめられないんだな。 最近その感覚は写真を撮るときにも同じなんじゃないかと思う。 写真はただの記録かもしれないけど、間違いなくそこに想いはのるとおもう。だからおもしろい。その人の目線や想いや考えや、1枚の写真には目に見えないものがたくさん写りこむ。 さらにいえばそれは茶室にある空気とも同じなんだと思う。 そこから何を読み取るかということを楽しむということ。 数週間前から半分アメリカ人とメールのやり取りをしていて宗教や民族性の違いについてやりとりしていて感じたけど。いまうまい表現がみつかった。 そこからなにを読み取るかということ。 これが日本の民族性の美学だ。 はっきりしない日本人といわれるが、日本人は、YESかNOといわれなくてもそこにある本意、真意を読み取ることに美学を感じる民族なんだ。 これだけは絶対に欧米の人間にはわからない。日本の誇るべき民族性なんだと思う。 よく外人がワビサビを口にしたり茶道や華道のまねごとをしてるけど、それは浅草で「神風」とかかれたハチマキしながら「一番」とかかれたTシャツきて浅草寺を参拝してるのとなんもかわらないと思う。 どうぞおはいりください。といわれなくても自分がそこにはいっていいかどうか、どのくらいの時間いたらいいかというところまでを考えられるのが日本人なんだよ。 おまえはいやそれは違う。そういう人がすべてではないというかもしれないが、これに関しては本当にどう感じているかどうか、感覚の違いを数値化できるわけでもないから平行線になるからどうしょうもないんだけど。 でもおもしろいよ。違う民族のリアルな感覚を話し合えるのは。こんどとことん話し合おう、まぁ最後には殴り合いになるだろうけど。 話をもどすと。 ここ数週間、PCがなかったのでひたすら本読んでDVD観て、モンハンやって、写真を撮りにいっていてその中で自分の中で確証をもって再発見したことがたくさんあった。 そういう意味ではPCから離れたのはよかったのかもしれない。 人からしたらどうでもいいことだけど。 自分は横で撮る写真よりも縦に撮る写真のほうが好きだということとか。 あとDVDは非現実的なSFが大好きだということ。社会派だったり歴史物やサスペンスなんかよりも、「魔法にかけられて」とか「ジャンパー」とか戦争ものを除けばそういうのが好きだということ。 ここんとこいろんな本やDVDをみていて感じたのは。 人間というのはなにかにならないといけないんだと思うということ。 なにかになるというと漠然としてるけど。なにかになるということは、役職や職種ではなくて、自分の中にある個性や能力を存分に発揮してなれるもの。 胸をはって自分の中にある独自性を惜しみなくだしきれるものに。 多くの人があこがれる人間像やヒーロー像や、かっこいいという対象の先には十中八九そういうものがある。 あと大乗仏教と小乗仏教という分け方はあまりすきではないんだけど。 でも真宗とは反しているかもしれないけど、どちらかといえばおれの思想は小乗仏教側に偏っているということにも気づいた。 この一週間の中でどうでもいいけど改めて見直すとなるほど自分はこういうものが好きなんだなということに気づかされるくらい自分に向き合う時間がとれたということか。 あと。 面白い話がひとつ。 先週少しお洒落でいいところのイタリアンレストランにいきました。待ち合わせの時間に遅れてしまって一人であとからお店に向かいました。 お店はすこし照明がおとされていて広いラウンジからは夜景がみえて、黒人が生歌でジャズを歌っているようないい雰囲気のお店。 一緒にいった友達はもう中にはいっていたので、入口で予約の●●ですけど。と友達の名前を告げました。 すると店員さん。 おれの身なりを上から下までなめまわすようにみると一言こういった。 「お客様・・・申し訳ございません。短パンの方は入れないのですが・・・」 おれはあまりの出来事でおもわず。 「え・・・」 正確には 「ふぇ・・・」 というしかありません。 店に入れないといわれてももうどうしょうもないわけで。 すると店員さん。 「長ズボンの貸出ありますので着替えてきていただいてもよろしでしょうか」 おれはいやいやいや!と思いながらも 「は・・・はぁ・・・」 というしかできず。明らかに従業員用のズボンを渡されトイレまで案内される。 そしてズボンをはくと、丈は若干ながいし、挙句の果てにウエストのボタンは締まらないし最悪だったけど背に腹は代えられない。ウエストを抑えつつ、店に戻り事なきを得てみんなの待つ席へ案内された。 恥ずかしさとやっちゃった感で若干にやにやしながら席につくと。 先にきていた友人の一人が。 おれと同じ従業員用のズボンをはいていました。 しかも丈が短くてつんつるてんでした。 おもわず。 おたくも?! といって笑いあいましたとさ。
おかげでおいしいお酒のんでいい気分なのに帰り際に、またトイレで着替えなきゃならないかと思うと酔いもさめたわ! みなさま TPOというのは大事ですね。 なんてこんなくだらない話でもこうやって書き出して吐き出して自分の中で刻み込んでいくことでいい思い出にあっていくわけですよ。 でも生で黒人のうたってた「WONDERFUL WORLD」が本当によくてルイアームストロングを彷彿とさせる歌い方で、かなり最高でした。もうそれだけで全部が帳消しになるくらい心に染みました。 ああしかしPCなおってよかった。 まだまだ書きたいことがあるんだけど。夜にまた書こう。 PHOTOにUPした写真は早起きして上野散歩した時に咲いてた蓮の花と、ベンチで寝てたねこ。この時期の早起きはほんとに三文以上得しますよ。間違いなく。
Title: ただいま。
2008.08.02 照りつける太陽。 まっ白な砂浜に透き通るような海。 抜けるような青空に一筋の飛行機雲。 湧き上がる入道雲に鳴りやまない蝉の声。 どこまでも寛容に流れる時間。 島にいっていつも思うのは、島には「夏」という形のなくて抽象的なものが凝縮されてこれでもかというくらいに詰め込まれてる。 そこからしぼってしぼって濃縮還元されたような一滴みたいなものがすっと心に沁み入ってきてお腹の底からなんかわきあがってくる。 深く腹式呼吸して体中に流れ込んでくる熱気に体の境界線が一気にぼやけてわきあがってきたものがあふれだしそうになるのをあわててのみこむ。 うれしいとも解放感とも違う。なんなんだろうねこの感情は。きっとこの感覚がものすごく気持ちがいいから夏になると体が自然にそれを欲するんだと思う。 やめられないわ。これだけは。 この海や空や風や音や匂いや。この島にあるすべての事柄がここにいる人を育んでこの島の空気を育んでいるとしたら。育むということはおおらかで寛容でどこまでも深い。 もしかしたら育むということは甲斐甲斐しく手を出したりなにかをするのではなく、自分と何かの対比の中で成り立つものなのかもしれないと、鬼岳のてっぺんから心地よい風に吹かれながら360度に広がる島を見回しながら思った。 なんにもないから何かを得られる場所っていうのがある。島はまさにそいう場所だと思う。 やっぱ旅はいい。 でも自分探しはしてないよ。自分は探さなくてもここにある。 さてまだ夏ははじまったばっかなんだなこれ。 まだどっかいけちゃうかな。
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