Title: 数えきれぬ。
なんかいままで自分が読みあさっていた本とか、これいいこと言うなぁとか、すごいなと思う人とか、そういうものに共通してるのって、結局はあたりまえのことをあたりまえに言っていて、あたりまえことをまっすぐに声を大にして言ってるだけなんだと思う。
でもあたりまえのことを、あたりまえにみれないのが人間で、まっすぐに見ればいいだけだよと言われたらすぐに首をかしげて、ただまっすぐにものを見れなくなるのが人間なんだと思う。
なんか腑に落ちて、体感としてわかったこと、繋がったことが増えてくればくるほど結局はあたりまえのことをすればいいだけなんだなと思う。
あたりまえのことが普通にできるってことが実は一番難しくて、あたりまえだと思ってるものをちゃんと見つめてみると、全然あたりまえじゃなかったりするんだと思う。
あたりまえのことって。
朝起きておはようって言って、ご飯の時には、いただきます。ごちそうさまっていって、ありがとうを口に出して伝えて、目の前にいる人のことを思いやることで、手をさしのべることで、好きなものに好きだということで、いやなことにはいやだといえることで、
言うなれば1つ1つの出来事に丁寧に対応することなんだろうと思う。
それがいかに難しくて、それを妨げる要因が目の前にどれだけあるかとか思うけど、でも世界は自分の力じゃ変えられないけど、心持ちはいくらでも自分で変えられる。
心持ちがすぐには変えられないなら、まずは口に出し続けてればいつか心持ちも変わるのかもしれない。
なんかそう考えたら、形から心へと繋がるのが禅で、心から形へ繋がっていくのが浄土教なのかもしれない。
なんか。
最近みんな言ってること同じじゃないかと思うことがあまりにも多い。
道元も親鸞も仏陀も一休も良寛も蓮如も一遍も石舟斉も孔子も、松下幸之助も岡本太郎もゴッホも、もっといえば、趙州至道無難の第二則も、碧巌録の第三則も、妙好人の言葉も、百丈野狐も、それこそ農業でも教育でも宗教でも、たぶん世の中にあるすべてのことの根底に流れるものは一緒で。
それがなにかと言えば。
世の中には、絶対的に自分の思い通りにならないものがあるということを実感としてしっかり感じるということで次のステップにいくよということなんだろうと思う。
そんで常に流れ流れているんだということ。
POSTED @ 2010.11.28 |
Comment (0) |
Trackback (0)