Title: 事実が好転するもしないも、そこにあるのは行動じゃない。
じわりじわりと腰と心に疲労が蓄積してくるこの時期に、ほろ酔いですこし冷たい夜風を顔に感じながら、誰もいない静まり返った街を歩いて帰る時に感じる感覚は、なににも代え難く自分にとってやめられない感覚の1つだと思う。
夜の空気が細胞の1つ1つに、じわっとしみ込んで、ふわっとほぐれていくような感覚。
旅にでたくなるのも、そういう感覚を感じるからであり、なんでかわからないけど、お腹の底からなにかがわいてくるような、そんな理屈づけできない感覚を味わうためなら、きっと自分は大抵のことは頑張れるんだろうと思う。
最近自分がラグビーにはまったわけも、こんな風に生きているのも、なんか1つの方向付けができたような気がする。
自分は、苦しんだり逆境にいるときにこそ、なんか生きてる実感を感じることができて、その感覚がたまらなく好きなんだろうと思う。
だから停滞するのが嫌で、落ち着いたり、安穏としてることを、切に願いながらも、そういう自分にジレンマを感じるんだろうと思う。
自分の中には相反するものを、切望する心があって、その心の起こす歪と反作用が、自分をつき動かす大事な原動力でもあるわけで、きっとそれ自体を、裏も表もわかんないくらいに消化しようと躍起になってるときに、副産物としてでる熱が、自分のアイデンティティの1つなんだろうと思う。
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目に見える変化がでるようなレベルの成長とか、そのレベルで受ける評価とかを気にしてるうちは、ずっとそこ止まり。
なんか、この間、誰も気づいていないだろうから、自分が気づいて手を入れなきゃと思って、手に取った何冊かの本にすべて、同じ人が手を加えた形跡があって。
自分が気づく何十年も前にこの本をとって、そこに手を入れてる人がいたことに、感動したのと同時に、自分もその足元の足元まではすこしたどり着けたのかと、嬉しくもあり、まだ超えるには時間がかかるなという悔しさも感じた。
なにかに成長を続けた時に、目に見える部分の成長が止まって、そこから先の目に見えない部分の成長にはいる過渡期には、周りからの評価と自分自身の成長の間にジレンマが生じるものなんだろうな。
でもここでやんややんや、「だれが僕をみて」なんていってるやつは置き去りだ。今立っているところで、きっといままで自分は何を原動力に成長してきて、これからなにを原動力に成長していくのかということが、明確になって、そこに差が生まれるんだろうと思う。
ここから先は、誰かや何かの為だとぬるいこと言ってたら先に進めない気がするんだ。
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宮崎あおいが、1001のバイオリンを唄うCMをみていて。
なんか勝手に、同じ世代の人間が、この画面の裏側にはたくさんいて、
一線でがんばってるんだろうなとか思った。
時代をつくるなんて大げさなことはいいたかないけど。
社会に出てから、なんか妙に同世代を意識するようになった。
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使い回しのボキャブラリーもレパートリーもくそくらえ。
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事実が好転するもしないも、そこにあるのは行動じゃない。
POSTED @ 2010.03.08 |
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