• PHOTO最終更新日2010年10月11日



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Title: 夏におきた事件の話 後書き


今回久々にまとまった量の文章を書いた。

やっぱり書くのはおもしろい。

>>つづく と書いた以上は間を開けたくないし
みんなが興味をひかれてるうちに書き終わりたかったから
俺にしてはだいぶ速いペースで書ききった。

当時のことを久々に思い返してみて
すごく懐かしくなった。
思わずF君やA君に電話をしたり
当時のメモを引っ張り出してきて読み返したり。

思い出せば出すほど
あの頃に思ってたことや考えてたことは
いまのおれの中枢にしっかり根付いてるなぁと感じた。

今回これを書くにあたって
当時のメモを引っ張り出してきたんだけど
その中で思わずこんなこと
書いてたんだって思った一文がある。

いま俺の中にあるのは

絶望に近い希望と
希望に近い絶望だ

という一文だ。

この時の感性のうち何%が今の俺の中に残ってるんだろうか・・・・

あの頃はつねに何かが欠けていて何かが足りなかった。

いろんなことに不条理を感じていたし
いろんなことに矛盾を感じていた。

今思えば感じていたというよりも
ここにきてやっと生きるということの
不条理や矛盾とかそういうモノが見え始めたんだと思う。

自分で生きると言うことを意識しはじめて
生きると言うことを考え始めた頃で
そこで初めて見えてきたグレーな部分にとまどい
それを認めたくなかったんだと思う。
その結果がいつも心の中に何かが足りない
錯覚を生み出していたんだと思う。

あの頃はどこかが病的に欠落していたと思う。
満たされることを知らなかった。

食べても食べてもお腹が一杯にならなくて
眠っても眠ってもまだ眠りたいと思うように

こころが満たされることはなかったように感じる。

だからいつも目新しいモノや刺激を求めてて
自分がどこまでできるのか試したり
そんなことばかりしていた気がする。

今回の話もそんな中から生まれた一つのエピソードだ。

あの頃の書いた文章の中に
こんな一文もあった。

幸せは自分との戦いの終わりを意味する。
幸せという響きがこわい。

今思えばなんて陰な響きなんだろう。
禍々しさ満開だ。

いつもどん欲になにかを探して
いつもなにか刺激や目新しいモノを求めてた理由は

立ち止まることで自分の中の何かが淀んでしまう。
立ち止まることでなにか大きなものに取り込まれてしまう。

そう思いこんでいたからだと思う。

欠けてた部分は大人になり
自然と埋まってきたんだろうか。

そこが満たされることで失った代償はなんなんだろう。

感性ってのは衰えて失っていくモノなのか。
それとも年を重ねるごとに育まれるモノなんだろうか。

後者であることを願いたい。

POSTED @ 2005.06.30 | Comment (0) | Trackback (0)

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  • 自己紹介:1980年1月9日生まれ。どこからを趣味と呼んでいいのかは模索中。好奇心は旺盛。