• PHOTO最終更新日2010年10月11日



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Title: む。

いつもは、ヘッドフォンをつけて、好きな音楽を聴きながら文章を書いたり、本を読んだりするんだけど、夏だけは違う。自分の世界に入り込むことよりも、蝉の声や、匂いや、風鈴の音、夏を味わっているほうが、いろんなことがすらすらとはかどる。

だからというわけではないんだろうけど、夏はものすごくゆったりと時間が流れてるように感じる。意識が前に前にいかないからかもしれない。

先日ふと思ったことがある。

自分の書いたものを、つらつらと読みなおしてて、この頃の自分がこんなこと言えちゃうのは、まだまだ見えてなかったことがあったからだなと思うことがある、いうなれば若気の至りともいえるし、視野の狭さともいえるし、正論に胸を張っていたともいえる。きっとそれは「いい」「悪い」の価値観では分けられないけど、明らかに、知らなかったからこそ言えるという言葉だ。

脳死の問題に触れた時にも感じたけど、自分の身内に脳死者がいる人といない人で、脳死について使える言葉の数はそうとう違うはずだ。

知らないからこそ言える。ということは知ってしまうと言えないことがあるということだ。

人間立場変われば、言葉も変わるもんで、知らなかったから言えたよね・・・知っちゃったらいえないよね・・・ということは多々あると思う。

そう考えた時に、いろんなことをつきつめていって、その立場を経験せずとも、たくさんの立場があるということが、しっかりとお腹の中に落ちた時に、自分が使える言葉というのは、きっといまの半分よりも少なくなってしまうんじゃないだろうか。むしろ突き詰めた時に、自分が口から出せる言葉なんてものは無くなってしまうのかもしれない。

ニュアンスが難しいけど、言葉で表現できることなんて、本当は1つも無いはずだ。ってことは表現されている言葉はすべて、いうなれば最大公約数なのかもしれないし、もっと突っ込めば「如し」でしかない。

そこでふと思った。

「無」

という言葉がある。事あるごとにそれを考えるけど、いままで腑に落ちたことも、分かりかけたこともない、けど、今回感じたのは、やっぱりそれは相対的なもので、知らなければ使える言葉があるのと同様に、知ることで使える言葉は減っていき、さらに深く突き詰めていく時に、言葉の存在自体の意味というのは、仮のものでしかないと気づかされるかもしれないということ。

その状態を「無」というところにあてはめることはできないだろうか。

前に外人に「無」は「nothing」ではなく「no personal」のほうがいいんじゃないかという話をしたことがあるがいま思うと、それもちょっと違うかもしれない。英語に直すというのは本当に難しいが、この作業はけっこう頭の整理になると思う。いまの感覚でいうと、「no category」とか「no distinction」とかのほうが近いかもしれない・・・嘘という意味ではなくて、「no truth」とかでもおもしろいかもしれないけど、これは説明をつけないとダークサイドにされてしまう危険性がある・・・「無」の英語化はほんとなにげに奥深い。再考に再考を重ねる必要があるけど、この作業はなかなかおもしろい。

無とは相対的な中に生まれるというのは、最近なんとなくだけどわかるような気がする。

今、「在」るものは、すべて結局「無」くなるわけで、さらに言えば、いま在ると思ってるのは、そこに在ると思い込んでいるにすぎないわけで、存在とは物理的な概念だけを指すわけでないということはなんとなくわかる。

そもそもプロセスの中で、なにかに依ること、それが言葉でもなんでもいい、それは必ずしも必要なことだけど、それを突き詰めていったときの、その存在を根本から疑える感覚というのが、次のステップなのかもしれない、そこにきて初めて、自分の存在そのものが「利他」となれるんじゃないかと思う。

「在る」ところに、「自利」があって「無い」ところに「利他」があるというのもなんとなくだけどつながってくるような気がする。

むずかしいけどおもしろい。

でも外国に友達がいてよかったなと思うのは、言語を変換する時に生じる摩擦の中で無駄なものがそぎ落とされて、自分自身がああなるほどと気づかされることがあるということだ。


POSTED @ 2009.08.10 | Comment (0) | Trackback (0)

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  • 自己紹介:1980年1月9日生まれ。どこからを趣味と呼んでいいのかは模索中。好奇心は旺盛。