• PHOTO最終更新日2010年10月11日



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Title: ジブリ美術館
2006.11.25


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かねてよりずっといきたかった「ジブリ美術館」に行って来た。

一言でいうならやられた・・・完全にもってかれた。

おもってた以上に完成度たかいし、決して子どものためだけにあるところじゃない。表向きは子ども向けの施設だけどむしろなにか大切なものを忘れかけてる大人に向けて作られてるような気がする。

まずジブリ美術館のパンフレットには施設の案内ってものがない。館内はものすごく入り組んでるのにパンフレットには宮崎駿館主の書いたイメージラフ図みたいなものが書いてあるだけでもうどこになにがあるかわかんない。

はじめは、案内図とか順路とかないの?って思ったんだけど、ここの美術館のキャッチコピーをみてああ、また一つやられたと思った。

ここの美術館のキャッチコピーを見ると

「迷子になろうよいっしょに」

不思議な建物、趣向を凝らした展示物、ここでしか観られない短編映画、くつろげるカフェ。この美術館には様々な楽しみがあります。でも、決められた順路はありません。順路を決めるのは、あなたなのです。三鷹の森ジブリ美術館では、この空間を心から楽しみ、「迷子」になってくれる主人公を、心より歓迎致します。

迷子になろうじゃないか。

しかしやられた。と思ったのはここだけじゃない。

館内には色々写真を撮りたいスポットがあるんだけど、撮っていいのかわかんなかったし、どうなんだろうなって思ってたら、こんな看板があった。

*美術館内での写真撮影、ビデオ撮影はご遠慮下さい。

ここまでは普通。その下に。

ジブリ美術館は物語の入り口です。物語の主人公になるには、カメラをむけるのではなく、この空間をご自分の目で見て、体で感じてください。そして思い出は心の中に大切にしまって持ち帰って欲しい。これが私たちの願いです。宮崎駿

これ書かれたらだれもとらないよ。隠れて撮る人も一人もいないと思う。

それと驚いたのが展示品の一つ一つがちゃんと手に取れるしさわれるし、正直持って帰っちゃおうと思えば持って帰れちゃうものばっかりなんだ。普通に。ディズニーランドにいくとすべての展示品はしっかり固定されてて、カリブの海賊の金貨とかがっちり固定されてて、ちくしょう!って思ったことあるんだけど、ここにあるものは全部が本物で全部が本気だ。

ただの子ども向け施設っていうだけじゃなくて宮崎さんの本当の気持ち、伝えたいことが細部に渡ってこだわり抜かれてて、その想いが来る人にはしっかり伝わるんだと思う。残念なところが一つもなかった。完璧だ。

なんか人ってものの暖かさとか、ぬくもりとか包み込んでくれるようなおおらかさがあふれてて、そしてなによりも一番感じるのが、宮崎駿っていう人は本当にアニメが大好きで、好きで好きで、もうそれがあふれ出てる人なんだろうなって。素直にそう思える。

そして今回一番感動したのがここでしかみれないジブリの短編映画、今回は「星をかった日」という映画が流れてたんだけど。わずか16分という短い映画の中に込められたメッセージというか想い。ってほんとおれの中では完璧な作品だった。内容はかかないけど、この作品は一生忘れないと思う。ってか近い物語をおれも思ったことがあるんだ。っていっても後の祭りだけど本当におれの頭の中に漠然とあったものが目の前にほら。ってだされた感じだった。なんかたった16分だったのに。映画館からでるときに、もう何時間もぐっすり寝たあとの様な。朝起きて冷たい水で顔を洗ったような、なんかものすごく心地よくてすっきりした気持ちになった。

ここにきて感じたのは。

大切なのは目に見えるモノだけじゃなくて、手に触れられるモノだけじゃなくて、そこに込められた想いとか、ひたむきさとか、カタチにとらわれたら見えにくくなってしまうところに隠れた心とか、人はそういう目に見えないものをしっかり感じ取ることで豊かになれるんじゃないかということ。

そしてそれを見つけだすのはいつだってやっぱり子どものほうがうまいのかもしれない。

※写真は屋上にあるラピュタの機械兵です。ちなみにここは撮影OKでした。ただ後ろから撮ったら、新宿にいる疲れたサラリーマンの後ろ姿とかぶってなんだか切なくなりました。

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Title: あれからもう15年近くたってるんだ
2006.11.24

小学校卒業以来の友達と昨日15年ぶりに会った。

2人とも全然かわんなくて、すぐにわかった。

おれは変わったらしくて誰かわかんないといわれた。太ったよね?大きくなったよね?ってそりゃそうだ。あの頃は12歳とかだから。

あって話をしはじめたらああいよいよこういう日がきたんだなぁ。なんてしみじみ思った。

あのりょうくんがねぇ・・・と声をそろえていわれ。しかもあんなことされたよ。とかあんなんばっかしてたよね。って確実にいまやったら逮捕されるようなことから本当に理解不能なことばっかりしてた自分の幼少期にああおれの原点はここだと・・・と再認識する。

そのうちの一人とは幼稚園の年中から小学校6年生まで8年間ずっと同じクラスだったのでほんといまさら何をいってもあの頃のイメージはかわんないだろうし、きっと自分自身もそのイメージとあんまかわってないんだとおもう。

自分だけのほんとに小さな思い出のかけらでもこうやって共有できて、実はあの頃さ。とか。自分の覚えてることも覚えてないことも話をできるのはホントにおもしろい。あの頃の思い出が共有ができる人ってのは本当に貴重な存在だとおもった。

そしてあの頃の担任の先生はいまの自分よりも年下だったんだなって思うとほんとになんか時間の流れの重みを感じる。

あの頃にいたみんなを全員探し出して一同に集めて話をしはじめたらきっと数時間じゃたりないだろうな。

あの頃に書いた25年目のこんにちは?だったかな、あの頃25年後の自分を想像して書いた文集。帰り道に思い出してたら自分がどんなことを書いたか思い出してきた。残念なことにその文集はもうどこにあるかわかんないけどきっと現存するおれがちゃんと向き合って書いた最古の文章なんだと思う。あの頃にどんな言葉をつかってどんな事を書いていたのかほんと読みたくなってきた。

文集もそうだけど、写真とかアルバムとか、今度実家に戻ったら物置を掘り返してみよう。

幼稚園でも小学校でも中学でも高校でも大学でも、どの時代にいてもその時の自分を知ってる人いて、思い出を共有できる人がいて、そういう友達は今からはもう二度と手に入れることはできないし、本当に大切で貴重なんだと思った。

なんかありきたりな表現なんだけどさ。
やっぱ友達ってのはいい

そんな中でも幼稚園や小学校の時とかはとにかく日々全力で、なんにも考えてなくて目に見えてるだけの小さな世界がすべてで、そんな中で包み隠せないくらいむきだしだったと思うし、みんな持ってるけどいまは奥の方にしまってあるそれぞれがいろんな色だった元素みたいなものが一つの部屋の中にまとめられてて、そんな中で感じた気持ちとか、思い出とかってのは他には絶対にかわりができないし、いまからは絶対に手に入れることができない心の財産みたいなものだと思う。

いま書いてて思ったんだけど、あの頃のむき出しの心にたれながしの情報が入ってきて、たくさんの選択肢があふれてて、誰かにぶっとばされなかったらおれだってもしかしたらニュースになってたかもしれない。そう考えるとやっぱり子どもを取り巻く環境ってのは著しく変わってるんだから、学校や家庭や、体制だけじゃなくて、みんなの意識自体を変えていかないといけないんだと思う。きっと自分で思っている以上のスピードで世界は回ってるんだ。


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Title: いい天気だいい天気だ脳天気だ
2006.11.22


どうしょうもないときにはやっぱり自然に身体がブルーハーツを欲してるんだと思う。今日も朝からブルーハーツ全開で高速を走らせる。すこし早めに家を出たからちょうど高速の正面あたりから太陽が昇ってくる。朝焼けの中からゆっくりのぼってくる太陽をみながら最大音量で情熱のばらを聴いてたらからだの芯からなんかがわき上がってくる。今日は朝からテンションがあがった。っていうよりも朝からテンションでもあげてないとやってらんない。

少し前に買ったNiconD80をいじり倒す。やっぱNikonいいわぁ・・・を連発する。しかしカメラをやればやるほど人間の目ってのはすごいなぁ。とかどうでもいいことに感心したりする。最先端の技術でも瞬時にどこにでもピントをあわせるのはなかなか難しい。意識にあわせて勝手に絞りもかえてるし。ほかにもあげたらきりがないくらいの機能が生まれながらに備わってる。カメラをのぞいて周りを見回す。次に自分の目で周りを見回す。そのたびにおれの目すげえ。とかくだらないことに一人で感動する。

マリアさまの寓話と、キリスト教のレポートを読んでたら、キリストもマリアさまもお釈迦様もアラーも、根本的には全部一緒なんだと思った。人がなにかに救いを求めることがその根源でその時代その空気、その場所、その人種など様々な条件の中でその教えぴったりあって人々の間に浸透する。人は弱い。そして人はいつだって救われたい。これはいつだってかわらない。宗教までもいかなくなって、自分を許してくれるなにか、自分を包み込んでくれるなにかを本能的に欲しているのが人間なんだと思った。

少し前から自分のサイトをリニューアルしようと思って時間を見つけてはセコセコと作業にとりかかってる。それに付随していい機会だしいままで書いた文章を全部整理してまとめようとおもって、2003年からの日記をまとめはじめた。やっと2005年分まで終わった。っていっても毎日書いてる訳じゃないし1ヶ月に1回なんてこともざらだからそんなに大変だった訳じゃないんだけど。でも間違いなくその時に真剣に思ってたことは今みえることの数分の1だったり、ああ若い。おれ若いって思う。

おもしろいのはここ数年なんだかんだ目の付け所も違うし、書いてる文章も全く違うけど、でもぜんぶ同じところでひっかかってて、形は違えどここ数年おれはいつも同じところでなにかにつまづいてるし、ひっかかってるし悩んでる。でもその答えが年々少しづつだけど明確になってきてるんだと思った。たまには足下を確認。

いい天気だいい天気だ脳天気だ。
いい天気の午後には脳天気で笑おう。
ビールでも飲みながらげらげら笑おう。

空が晴れてる日には
どうでもいいきがする
あれじゃないこれじゃない
すこしは忘れる。
空が晴れてる日には
意味もなく遠くまで
いきたい気持ちがする。
みんなおいといて。

ブルーハーツの歌詞にふと肩の力が抜けたりする。
そして深くため息をついてよしって気合いを入れる。

いつだってこの作業の連続だ。



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Title: 一寸先は闇。
2006.11.17

寒い寒い。しかし寒い。冬はテンション20%ダウンになる。一年中夏ならいいのにとこの季節になるといつも思う。終日雪駄終日短パンがここちいいのに。

寒いと外に出るのがおっくうなので本を読んだりビデオを見たりしてすごす時間が増える。最近大江健三郎の「伝える言葉」プラスを読んだ。大江健三郎の本はこれしか読んだことないからわかんないけど、これを読む限りこの人の文章はある意味ではフラットでニュートラルで、なによりも平和的だ。でもおれがその領域まで行き着いてないのか行間が読み取れていないのか、具体的に進みたい方向がみえない気がする。どちらかといえばリベラル左派な人なんだと思う。きっと保守右派な人はノーベル文学賞はとれないだろうな。世界で認められるにはどこかに偏ってちゃだめなんだと思った。

あと和尚に便乗した訳じゃないけどついに買っちゃった。
デジタル一眼。Nikon D80

「いやぁやっぱNikonいいわぁ」ってキムタク風にカメラをおもむろになぜる。

なんやらごちゃごちゃ色々ついてるし完璧にピントのあった写真ばっか撮ったっておもしろくない。シンプルなのがいい。なんて言ってたのに。いざ使い始めたらこれはやめらんない・・・ほんとに自由自在だ。これ1台あればなんでもできるし納得のいくまでシャッターを切れる。

もちろんなかなか切れないシャッターに込められた気持ちやピンぼけでも想いののってる写真にのせられた味わいはなににも代え難いんだけど、やっぱり銀塩が押されてしまうのはもうしかたがない。機能面では戦えないよ。これとは。

でもデジタルでもなんでも、どんなに便利になってもなんでもカメラがやってくれても、でも最後はやっぱり腕なんだと思う。露出もシャッタースピードも、慣れ親しんだ感覚やその人にしか出せない色は間違いなくあるわけだし。

デジタルだからってみんな同じ写真がとれるかと思ってたら大間違いだなこれは。

カメラを片手に上野でも散歩にいきたくなる。

そして浮かれるなかれ、いつだって一寸先は闇だ。
と寒空に自分に言い聞かせる。

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Title: 温泉はいって文章書いては感謝する。
2006.11.13


今年もきましたあの企画。

今年は温泉サークルin熱海。ということで全国から集まった猛者5人で箱根~熱海へ日頃の癒しの旅に行ってきました。

いやぁ色々あったな、金曜の晩から3日間濃い時間を過ごしたような気もするけど思い返してみると話してる内容はずっと同じことを繰り返し繰り返しだったような気がする。結局男なんてそんなもんですよ。なにはともあれ秘宝館には一度行くべきだね。

やっぱり年に一度はこういうの必要だ。

いざこうやって日記に書こうと思ってみると意外にこれといってここに書くこともないんだなこれが。それなのにものすごい充実感があったのはやっぱり心がみたされたからなんだと思う。まぁ正確にいえばここに書くことがないんじゃなくて、ここに書けることがないっていうほうがただしいか。。今年の無念は来年晴らす。しかしスマイル茅ヶ崎はかわいかった。

あと全然関係ないけど、高速のSAとかPAとかの食堂ってのは、ほんとに多種多様な人が居て、老若男女がこんなに一同にかいして色んな分野の人間が肩を並べて食事をしてるとこなんて他にないんじゃないかとおもった。

ビバ熱海。

ものすごい長い文章を気持ちのままに書き出して、気持ちも全部文字にのっけて全部すっきり空なるまではき出した文章を保存し忘れて消えてしまったときの虚無感ってのはなんども味わってるけど最悪だ。自分の中では無形文化財の消失くらいにくやしくも悲しくもあり、自分のバカさ加減に腹立ちすら覚える。そして同じ文章は二度と書けない。逃がした魚は大きいというけど、そういうときに限って渾身の一文だったのにとかいう思いがぬぐい去れなかったりする・・・

もうすぐおじいちゃんの7回忌ってこともあって最近ことあるごとにおじいちゃんの言ってたことを思い出す。

感謝をわすれちゃいけない。

あたりまえなんだけどそれを頭じゃなくて心でしっかりと捕まえるのはものすごく大変なことだ。

感謝の心を忘れないようにしようっていくら心に決めたって、食べ物には不自由してないくて、着る物にもこまってなくて、当たり前のように明日も生きてることを疑えない自分を含め今に生きている多くの人たちはどう考えたって意識をしなければ自分は自分一人で生きてるんだって錯覚したっておかしくない。

口先だけじゃなくて何かに感謝することがどれだけ難しいことなのか肌をもって痛感する。よく目をこらさなければ本質が見えない事ってたくさんあるもんだ。

おじいちゃんが生きてるときに、誕生日ってのは、おめでとうを言われる日じゃなくて。ありがとうを言わなければいけない日なんだって言ってた。自分がそこにいるのは一人でいると思うなって。

子どものときには意味がわかんなかったけど今ならその意味ははっきりわかる。

ちょっと考えればわかるけど、自分自身では気づけなかったことだと思う。

いまその言葉を思い出すとものすごい真宗的で、ああやっぱ自分の中にはそういう宗教的な思想がたくさんながれてるんだなと思う。

自分が生まれたことに感謝をすることなんて意識しないでできることじゃない。

でもそれを意識することが生きるってことで、生きるとか自分とかそういうものをしっかりと自分の中で浮き彫りにさせることが全部の答えの入り口になる。特別じゃない。ただの人だおれは。って。

感謝することとか、なんで働くのかとか、なんで自分がここにいるのかとか、なんとなく浮かぶ問いにもはっきりした答えは絶対にある。でもそれは誰も教えてくれない。だから自分でそこにスポットあてて頭を使わなきゃ死ぬまで見えないことがたくさんある。

ましてや幼稚園にいると自分自身がそういうことをいつだってしっかりと受け止めて見つめて痛感してなくちゃ何も育めないと思う。

自分が食べ物に感謝してないのに子ども達に食べ物を大切にしようっていったってなにも伝わらないし、自分が命ってのはすごいなって感じてないのに、子どもに命の大切さを伝える事なんてできないわけで。

なにかを育むっていうのは、自分の体温でみんなを暖めるようなほんとうに気の遠くなる作業なんじゃないかと思う。


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Title: それでもいいのはわかってる。
2006.11.04


それでもいいのはわかってる。
考えないよりはましだから。

戦争反対とか世界平和とか。

声を大にしててもしてなくても真っ当な意見をまっすぐな目で訴える人がいる。

でもいったいどれだけの人が世界のために何かを犠牲にしてて、どうして戦争が起きるのかを知ってて、自分が同じような状況でもそんな過ちを起こさないといえるんだろう。

知ることは1つのきっかけにすぎない、たった目の前の1側面を知っただけで満足して、自分の中に何かを得たみたいに思って、立ち止まったままただ声を大にして自分の思いを伝えることだけに満足してしまうような人間にはなりたくないと思う。

共感しあうことが目的じゃないし、共感しあうことだけで自分たちがなにかをかえられるとおもったら大間違いだ。

きっかけを育てるのはいつだって自分自身の養分。

思いを伝えるのは誰でもできる。平和ってのは最後はたった1人で向き合う問題なんじゃないかと思う。知るべきは自分自身だ。

狂気はいつだって人間が生み出す。

目のまえにいて手の届く範囲にいる人たちですら幸せにできるかわからないし、最後まで守り抜く事なんてできないかもしれないのに。

簡単に世界中の人たちと手をつなごうなんていうな。

まずは目の前にいる人たちと手をつないでみたらいい。

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  • 自己紹介:1980年1月9日生まれ。どこからを趣味と呼んでいいのかは模索中。好奇心は旺盛。