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Title: 荒野。
2010.09.29
ひれ酒とか飲んで、ほくほくいいながら鍋とかつついて、そんで白い息を吐きながら、家まで酔い覚ましするんだ。 食べたいものも、行きたい店も、会いたい人も、やりたいことも、たくさんあるのに、1日は24時間で体は1つしかない。くそう。 アンコウ鍋たべたい。もつ鍋もたべたい。マツタケご飯も食べたい。さんま尽くししたい、ひれ酒も飲みたい。 それなのに胃袋も1つしかない。くそう。 ぐぐっとこらえた分だけ、秋の味覚はおいしさを増すのさ。と呪文のように唱えながら、今日もエレカシを聞きながら乗り切るわけです。 ああ。温泉にいって、紅葉の見える露天風呂につかって、ちびりちびりと飲みながら、秋の夜長に時間を追いかけたいのです。 くそう。 秋め。なかなかいい季節じゃないか。
Title: 12月の扇風機
2010.09.28 清沢満之は35歳で「臘扇記」を書き終えた。 自分はあと4年と3か月くらいでその年になる。 それまでの時間をどうやって生きていたらこれだけの洞察をもって生きることができるのだろうかとか思ったけど、でもそれを思うことが間違っていたのだと思い直す。 追いつけるはずもないし、同じ場所には自分の探す答えもない。 出会いも答えも一期一会。 誰かを追いかけようとするのはいいことだと思う。 でも同じ道を歩もうと思っている限り、同じ視点には到達することはできないんだろうと思う。その人がその環境、その状況において得たものを、自分が再現するなんてことは不可能で、自分は自分の周りにある要因よってしか前には進めないから、誰かから学ぶべきことは、答えでもプロセスでもなく、その人の言葉の視点であり感性であり、にじみ出る感覚なんだろうと思う。 文字や言葉を追いかけるのではなく感覚を追いかけていけば、結果としてその背中に少しは近づくのかもしれないと思う。
Title: やぶれた襖。
2010.09.28
みんながみんな日々は何気ない日常であって、それをどう感じるか、どう見せるか、それが大事で、むしろ、自由はどこだ、楽しさはどこだ?なんて言って、それが、さも降ってくるみたいに、突然現れたり、状況や環境が変われば自分もそうなるんだ、なんて思っていたらそんなもん一生見つけられないんだろうと思う。 自由も楽しさも、幸せも満足も、自分が何気ないものを自分で彩った結果であって、決して自然発生的に湧いてきたようなものじゃない。 自分にしっかり目を向けもしないで、状況が悪いとか、環境が悪いとか、今はしょうがないとかいいながら足を動かさなかったら何にもかわんない。 そういう人が、誰かを指さして、あの人は楽しそうでいいね、恵まれてるよね、自分たちとは違うよね、とかいうのにはもううんざりだ。 それと、意識的でいることと自虐的でいることは違う。意識的でいればいるほど、身の程を知ることはあるけど、それは決して自虐的なわけじゃない。 こないだ読んだ本に書いてあった、やぶれた襖の穴から、隣の家の襖が破けているのを笑うのが人間であると。 ほんと、つまりはすべてそういうことなんだろうと思う。
Title: 晴れ渡れ。
2010.09.26 気温が下がると比例して、空気が澄んできた。なんか景色がどこまでもクリアにみえて、空が高くなってきて、ああ秋になってきたなと思う。 空気が澄んでクリアになると、なんか気持ちとか、心とか想いとか、物理的じゃないものの深度まで深くなっていくような気がする。 そんで鼻水がとまらない。 ブタクサのせいだそうだ。 そんなお彼岸の終わり。 最近、ほんとつくづく自分の根底で真宗っぽさというか、他宗の人が「でた真宗」と言っちゃうくらいに、あたりまえのように、真宗の考え方が根付いているんだなと思う。 きっと仏教や宗派を学んでなければ、そういう人なんだと思って終わりなんだろうけど、仏教や宗派を学んでる人たちと話すと、それぞれの中に流れているものや中心においてる仏教や宗派の教義の違いと、そこから繰り出される思考の違いや、その思考の違いが生み出す生き方の違いが結構顕著で、そしてなによりもそこからあぶりだされる自分の姿が、間違いなく真宗に依っていることに、時間や習慣とというものは、間違いなく自分の中に蓄積されているんだなと感じる。 * 10月3日から天一(天下一品)のキャンペーンで、くじを引いてあたると、その場で特製ボールペンがもらえるそうだ。ボタンを押すとこってりラーメンの写真が、プロジェクターでうつしたみたいに浮き上がってくるそうだ。 ほしい。 ほしい。 絶対ほしい。 * 最近結婚したばかりの友人が、唐突に、「最近ものすごく孤独を感じることがある」といった。 なんかすごくわかる気がした。 人は必ずしも1人でいるときに孤独を感じるんじゃないんだろうと思う。 孤独っていうのは、物理的な要因よりも精神的な要因が大半を占めているわけで、たとえば、自分の中にあるものと、自分の置かれた状況の中にあるものとのギャップが生み出すんだろうと思う。 そういう意味では、ほんとはギャップのない場所なんてなくて、人間はいつだって孤独を潜伏させているんだろうと思う。それがいつ顔を出すかはわかんないけど、ふとひょこっとそいつが顔を出してきたときに、隙間風が吹いたりするんだろうと思う。 なんか、孤独は毒にも薬にもなるようなもので、孤独だからこそ蝕まれるものもあれば、孤独だからこそ見える世界や視点もたくさんあって、たいてい自分を根底から押し上げてくれるものの多くは、使い方を間違えると、諸刃になるようなものなんだろうと思う。 そういうものをどう扱って、そういうものとどうつきあっていくかを体で覚えていくことが、生きるコツを学ぶということじゃないかと思う。 * 一生という時間は、意識をして過ごすには長すぎるけど、意識しないで過ごすには短すぎる。 * 「書く」ということは、階段を作るような作業なのかもしれないと思った。
Title: いわずもがな。
2010.09.16 北千住で一杯飲んだ帰り道。 路上で歌う二人組がいて。 なんかふと足を止めて、ガードレールに座って聞き入っていたら、 「ケセランパセラン」という二人組。 この人たちの曲を聴いていたら思い出す人がいて、 その理由を探しながら聞き入っているのです。 ひさしぶりに聞いてていろんなもの湧いてくる曲にあったきがした。 なんか、歌うことととか、弾くことがすごく好きで、 響く。 こういう出会いが、いろんなところに落ちているから、生きてるのは楽しいと思う。 * 「いわずもがな」でしょ。 といわれて。 なんか、「いわずもがな」って。 すごい優しいし深いし、時に厳しい言葉だなと思った。 でも「いわずもがな」なんだよ。 * 「借りぐらしのアリエッティ」をみた。 すごいおもしろかった。かなり好きだと思った。 なんかいろいろ思うことがあって、きっとアリエッティだけで、5時間ぐらい話せそうだけど、でも一番ぐっときたのは、それこそ「いわずもがな」なところだと思った。 超えられない壁であったり、滅び行く種族であったり、病気のことであったり、命のことであったり、2人の気持ちであったり。 きっと言葉で表現したら、安っぽくなりそうなところがほとんど言葉で交わされてなくて、でもなにも言葉になっていないのに、そこには「いわずもがな」で成り立つものが確実にあって、そういう曖昧さと、不確かさとか、そういうおぼろげなものが、あちらこちらに落ちていて、なんだろう、一言でいえば、すごい愛おしい映画だなと思った。 壊れやすいものを、壊さないように扱うということは、いつだって人の心を揺さぶるんだと思う。 * ほしいものとか、手に入れたいものは。 きっとその場所にあるから、自分にとって魅力的で、 きっとその場所にあるから、手に入れたくなるんだろうと思う。 それをこっちに引っ張ってきて、自分のポケットに入れるんじゃなくて。 こっちからそこまでいって、その横に座り込めるような人になれたらいいなと思うことがあって、その魅力的なものを作る環境まで全部に寄り添えるような覚悟のできる人間になりたいと思う。 それには程遠く、器はいつまでたっても大きくならないのだけど。
こないだぽかりと時間が開いたので、平日の新宿を徘徊していたのです。 みんながみんな、なにかを見据えてカツカツ歩く中で、ぼんやりと目的も決めずに。 職務質問にだけ気を付けながら(ちなみに今年もう2回されているので) なんか、ぼけぼけして歩きながら、きっと堕ちようと思ったらどこまでも堕ちれそうな世の中だなと思った。 どこを見ても巧みな意図ばっかりで、こんだけどこかの誰かの考えた、利害や意図にさらされてたら、いろんな感覚とか、麻痺しちゃうんだろうし、そこにどっぷりつかっちゃえば、みるみるうちにおちてって、自分の力で浮上するには深すぎるところまでいっちゃうんだろうなと思った。 弱い人とか、素直な人とか、まっすぐな人とか、そういう人のアイデンティティがあまりにも簡単にお金に変わりすぎる。 でもそれを何とかしたいとかは思わなくて。 人間が人間である以上、この仕組みは変わらないし、戦争もなくならないし、悲しむ人がいなくなる事はなくて、それをなんとかしようとするのは、結局人間をやめるということしかないんだと思う。 だから、自分勝手かもしれないけど、そんな中で生きている自分がどう生きていいけばいいかということだけを考えていたいし、思うとおりに頭も体も使えるようになりたいし、そうやってもがいているうちに死ぬ時がくればそれでいいと思う。 でも願わくば、自分がそうやって生きていく姿勢でどこかに種をまけることが、理想であり願望であって、それは同時に欲望であり自己顕示欲であって自我なんだと思う。
Title: 一期一会。
2010.09.10 最近、一期一会、その瞬間というのはその瞬間しかない。ということは、言葉にすると当たり前のようだけど、その意味がストンと落ちてきた気がする。 人間関係もそう。友達とか恋人とか家族とか、そういうくくりで囲っちゃうと公約数ができちゃうけど、でもほんとはそうじゃなくて、その瞬間の目の前にいる人との時間はその瞬間にしかないもので。 いうなれば、同じ言葉や、同じ行動が、必ずしも同じ影響を及ぼすことはないという事実でもあるんだと思う。 とか考えてたら、ある話を思い出した。 ある茶人が、とある大名を茶席に招いたという。 その大名は、堅物で知られていて、その日も大きな調停の真っ最中で、ぴりぴりとした状況の中での茶席だったという。 案の定、しかめ面をして怖い顔でやってくる大名。しかし、なんとこの茶人、茶室の前に大きな落とし穴を掘っていたわけです。 その落とし穴には、たっぷり泥水を入れて。 そして、見事に大名は落とし穴に落ちるわけです。 そして、それを助け上げた茶人は、ちょうど入り頃のお湯を沸かしてあるので、すぐに風呂に入れという。 大名は怒りを抑えながらも、しぶしぶ風呂に入り、さっぱりと風呂か上がると、茶人はにこにこしながら、大名の前にぬる茶を差し出したという。 大名はその一杯を一気に飲み干すとと大きなため息をついて、大笑いしたという。 そこで、大名の心は一気にほどけて、こんなに大笑いをしたのは久しぶりだ。といったという。 難しい調停の合間に、いろんなストレスにさらされていたであろう大名の状況と、その人の人柄(ここまでやっても大丈夫だろう)とか、その人のことをよく観察してなければ決して成功しない茶席だったんだろうと思う。 ある意味そこまで相手を思わなければできない、最高のおもてなしなんだろうと思う。 もちろん、そこにはもともとそこにある信頼関係も作用しているわけで。 これを誰かが真似しても成功するはずない。 一期一会だから。 そりゃそうでしょうよ。と頭ではわかるけど、この方法を成功論として、あたかもどこでも通用するんじゃないかと思ってしまうのが人間なんだと思うのです。 一期一会。 この一瞬は、この一瞬にしかないし、あくまでこの一瞬でしかない。受け取りようによれば、常にチャンスはあふれていると思うのです。 | コメントを書く (0) | Trackback (0)Title: いんぷるーぶ。
2010.09.07 もともとメモリーの少ない頭なので、同時に何個ものタスクを開くとあっぷあっぷなのです。 一体自分はなに屋なんだろうかと思いながらも、そんな状況にも笑えてる自分にちょっとはバージョンアップできたんじゃなかろうかと自画自賛。 こないだ、2003年に自分の書いたメールがでてきたので読み返したという人から、我々の書いていることは、間違いなくいんぷるーぶしているよ(笑)というメールがきて。 お互いの成長をこうやって赤裸々に見つめあえる人がいるのはありがたいと思った。 いやしかし、いんぷるーぶしていてよかった。 あの頃のほうがまぶかった。なんて言われなくて。 * 最近、つくづくコミュニケーションは大事だなと思うし、コミュニケーションと一言でいうものの、その行動の深さは計り知れない。意思疎通の中で言葉の意味の占める割合のなんて微々たることかとも思う。 言葉で理解できることなんて、所詮言葉で理解程度できる程度ってことさね。 * さて。 こないだ友人の恋愛話(エジプト君と、いと君の話)をきいて。 恋人に求めるものは、自分のマイナスの補完材料だとしたら、結婚相手に求めるものは、プラスαなんだと思う。ようは恋人は自分を0に近づけてくれるものであり、結婚相手は0から先をくれるものなんじゃないだろうか理論 というものが頭の中でぐるぐるとまわっている。 一人で生きていても全然生きていけるし、無問題。でもその先に、パートナー的な要素であったり、いまある自分にその人がいることで、なにかが余剰にプラスされるということが結婚だとして、 たとえば、この居心地の良さがなくなったら一人は辛すぎるとか、この人といなくなったら、交友関係が減っちゃうとか、見えなくなっちゃう世界があるとか。自分の中のなにかを補完するために相手がいる場合は、それは結婚には至らないんじゃないかと思う。 自分は大丈夫と思っても、少なからず男は補完しあう関係に安住はできないような気がする。 結局男なんて言うのは、のほほんと自分のペースで生きていくことしかできなくて、恋人の時は、相手の力になりたいとか、補完したいとかそういうことには、雄的な本能で力を発揮するけど、その雄的な本能は、結局最後は自己実現に向けられるんだろうと思うのです。 もう少し実証と考察をしようと思います。 * 人は現状を否定するときに、図らずも大きな夢を描く。 でも大きな夢を描く時に人は力を発揮できるってなもんで、自分で自分の目の前にニンジンをぶら下げながら走り続けるようなものなのかもしれない。 大事なのは、そのニンジンには手が届かないという事実に直面した時に、次にどうするかってことなんだろうと思う。 * 戦争と平和を考えるときに、やっぱ無条件に戦争はよくない!平和が一番!仏教徒なら当然そうでしょう。戦争反対に断固として意思表明すべきだ! なんていうけどさ。 そういう話をきくといつも思いだす逸話がある。 コーサラー国の軍隊が、カピラ城(ブッダの祖国)を攻め落とそうとしたときにブッダは、行軍する途中の道で座して軍隊を止めたという。 そして2度目の行軍の時にも、3度目の行軍の時にも、ブッダは、行軍する間の道に座していたという。さすがにブッダ゙を無視して行軍するわけもできず、コーサラー国は何度もその道を引き返すわけだけど。 でも4度目の行軍の時にはブッダはそこにはいなかった。そして軍をすすめたコーサラー国はしシャカ族(ブッダの祖国)を滅ぼしたわけです。 この時弟子の目連さんが、神通力で行軍を止めようとしたら、ブッダはそれを制して、もういいのだ。といったという。 この3度しか座っていなかったことから、仏の顔も3度までということわざがあるわけだけれど、この逸話の真意は、すべての物事には因果があるということであり、因果といういうのは、人間の手におえるほど単純なものではないということなんだろうと思う。 ブッダが無条件に戦争は反対!仏教は平和が一番!だと思っていたのなら、神通力だろうとなんだろうとつかってでも、行軍を止めたんだろうと思う。 戦争とか平和を考えていると、本当の意味での仏教徒のとるべき姿勢とはどうあるべきなのか悩むし、その時に、この話はいつも自分の中でひっかかる。この話は現代でもそのまま通用する教えじゃないかと思う。 仏教は時に厳しい。そして優しい。 この3度だけブッダが座っていたというのが、なんていうか自分が仏教を好きな大きな理由なんだろうとも思う。 * 悟りとは、悲しみや怒りがなくなったり、苦しくなくなることじゃなくて。 そういう感情に飲み込まれて、我を忘れたり、自分を見失ったり、押しつぶされたりしなくなる要素みたいなものが自分の中にできるってことなんだろうと思う。 その湧き上がる感情を制御するでも目を背けるでもなく、感情自体に対する感覚が変わるんだろうと思う。いうなれば一種のパラダイムシフトみたいなものなのかもしれない。 * 阿弥陀には誠の慈悲はなかりけり 頼む衆生をのみぞ助くる。 と一休さんが詠んで。 阿弥陀には隔つる心なけれども 蓋ある水に月は宿らじ と蓮如さんが返す。 この二人の間に流れているものは本当にぐっとくる。
Title: たまねぎ。
2010.09.06
一瞬でその文章が消える。 いままで何度もこの経験をしているが、そのたびに言葉は生ものだなと痛感する。 本当に世界は無情であり無常である。 もう。 煮詰まった頭をほぐすために、とりあえず玉ねぎをみじん切りにして炒めようと思う。 | コメントを書く (0) | Trackback (0) |
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