Title: 正義の味方はだれの味方だ
昨日ラジオから正義の味方って言葉が流れてきて、なんか妙に心に残った。
最近正義って言葉をきく度になんかもやもやがのこる。
なにが正しくてなにが正しくなくて、何が正義で何が悪かなんて誰にもわからない。おれの思うことはだれかにとったら正義でも、だれかにとったら悪かもしれない。物事には両側面があるし両方とも表なんてものはない。
正義って言葉はすごく偉そうで、あつかましくて、残酷だと思う。
この世の中に正義っていうひとくくりで片づけられるモノなんてひとつもない。
ここ最近感じるのは色んな立場で色んな意見がある中でいちいち全部の人に100%満足してもらうことなんてできない。だから何をもって一番とするかであってすべてに正解なんてものはない。「正義」なんてまるまるぜんぶ正しい単語を使える場合なんてそうそうないはずだ。
歴史問題だってそれぞれがそれぞれの視点で主張するからこじれる。歴史なんてただのその瞬間の現実だし、その時代その時代でにうまいように書き換えられてるだけだと思う。正義っていうのはただの大義名分であったり都合のいいつくりばなしに使われる決まり文句みたいなもんなんじゃないかと思ってしまう。
自分が正しいと思うことを信じるだけだ。
だれかとか何かとか歴史とかじゃない。
なによりも自分を灯火としていきていくことが大切なんだと思う。自分が正しいと思ったことを信じるだけ。それが正義なのかもしれない。正義だから信じるじゃなくて信じるから正義になる。
そう考えれば正義の味方はいつだって自分の心が生み出すモノなのかもしれない。
でもそれが独りよがりで身勝手な正義にならないためにはいつだって自分だけの目線をしっかり確立しないとならないし、そのためにはたくさん経験してたくさん見てたくさん感じないとだめなんだと思う。物事にはたくさんの角度があるってことや、自分の見ている世界がすべてじゃないってことや、世界は広いってことを肌で感じることが大切なんだと思う。ましてや苦しみや悲しみを知らない人に苦しみや悲しみは理解できないし、なによりも守るべきモノをもっていない人間になにかを守りたい気持ちがわかるはずがないから、たくさんそういう経験をするべきなんだと思う。
道に迷ったときにたよりになるのはずばりいっちゃうおばさんでも、だれでもすくってくれる宗教家でも神様でもない。
いつだってぶれない自分の信念だ。
POSTED @ 2006.07.23 |
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