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Title: 木。
2010.04.30 木のぼりがしたい・・・うずうず・・・大人だけど存分に登りたい・・・うずうず・・・ってなわけで(もちろんしっかりとした大義名分もありつつ)東金まで木のぼり用の木を探しに行ったわけです。 探してみて気づいたんだけど。 これなっかなか木のぼりを存分に楽しめるような木というのはないもんで。 枝ぶりやバランスとか、一番下までの枝の高さ、もちろん木の種類で安全性も違うし、なかなかぐっとくる木がない。ほっんとこれは同じものは2本とないわけで、運命の出会いを求めて造園さんを渡り歩きまわるわけです。 広大な敷地の造園さんを渡り歩くこと3軒目。 ずがんと運命の出会いをしました。 枝ぶり最高。見た目も最高。遊びもそうとう広がりそう。ってなわけで即決です。 木の種類は「やまもも」です。 これでドングリでもなれば最高だったんだけどね。 でもほんとこれ、トトロの木みたいで、ぐっときました。 あとはこれを運んでもらって植栽するだけ・・・しかしこれ運ぶの大変だろうな・・・こんなもんどうやって運ぶんだろうな・・・ えっと、もし木のぼりしたい人いましたらいつでもお声掛けください。 楽しみ・・・うしし。 たくさんの子どもたちがいろんな感覚をつかって、大人が想像もできないような遊びを展開してくれたら楽しいだろうな。まぁ負けないけどね、木のぼり。 写真はコチラ Title: つぶやき。
2010.04.28
文章とは一口いえども、その種類や使い方には、やっぱり多様性があるし、読む対象によってそれを使い分けないといけないんだなということを実感。 文章だけじゃない話すことも、相手のことをよく見ないと適切な言葉は選べなくて、その差をなくして使って相手の受け取り方が違っても、それはきっと相手のせいだけじゃないんだろうと思う。 いやしかし、やっぱり、話をしていて、ぱぱぱっと自分の中の考えてたことがつながってきて、その人の一言や、体験や経験や感性が自分の中の引き出しをぼこぼこ広げてくれる人がいて、そういう人は本当にありがたい。ありがたすぎてホントにその人がいつまでもそうであってほしいとすら思う。 そう考えれば、話をする対象も様々で、自分の為に話している時があったり、相手の為に話してることがあったり、そのどちらでもあったり、完全に誰の為にもなってない会話もあったりする。 カテゴリーを分けるわけじゃないけど、あたりまえの行動の1つ1つにも自分はいろんなラベルをつけていて、頭よりも先にそれを体で反応している気がする。 こないだ。 ある人の話しをきいて、それなりに権威のある職業で結構いい年のお方なのに、あまりの残念さに悲しくなった。 なにがどう残念かは割愛して、きっとその人をそうさせてしまった周りも悪いんだろうけど、同時に周りをそうさせてしまった自分も悪いんだ。もうあそこまでいくと、もうどうにも取り返しがつかないまま死んでいくんだろうと思ったら、絶対にああはなるまいと思った。 人間はいつまでも自分をおもいしる経験をしないといけないんだと思う。 自分がもしそれが怖くなったり、そこに背中を向けるようになったら、ああいう人になっちゃうぜと自分を戒めようと思う。 自分を棚に上げるな、なんでも知った顔するなって。 なにかを正しいと信じこめることの強さは、同時に弱さなんだって思います。
Title: のるかそるか。
2010.04.27 なんでもやりはじめたらとことんのめり込まないと気が済まないので。 ここ数日頭の中がipodtouchとtwitterでいっぱいでしたが、気が済むまでやりこんで、いうなれば一気に無呼吸で走り抜けて、そんでやっとここで一回立ち止まりひと呼吸いれてみるわけです。 昔からこれが自分のいいところでもありわるいところでもあるわけで。 でも100m走をしている最中は、腕の振りや、走ることに意味があるのかとか、呼吸はいまどうなっているんだなんてことは考えないけど、走り終えて落ち着いたときの状態とか、そこで浮かんだことというのは、いうなれば走るということにおいては、実際に走ることよりも大切だと思うわけです。 立ち止まって初めて、それを自分の中に取り込めるかどうかが浮き彫りになって、そこで初めてそれが自分の中に居座れるかどうかがわかるんだと思う。 でもそれを頭で考えようとして、そこにあるデメリットとか、自分の気持ちの置き方や、小さな習慣の変化に無理な負荷がかかってないかとか、それが、負荷のない程度にとどめられる範囲なのかとか考えみても、それっていうのは理屈を探しているだけで、いうなれば、自分の状況を正当化できる大義名分を考えているだけで、本当はそれが正解かどうかなんてことは頭ではわかんないと思う。 体に聞いてみる。というと変だけど。 なんかそんな時には、正しいことは頭よりも体の方がよくわかっているような気がするわけです。 人間いくら理由づけができても、いられないところにはいられなくて、続けられないことは続けられなくて、逆に理由づけができなくても、続けられることは続けられて、できることはできるもんで。 やるだけやったら、さてあとはのるかそるか。 無呼吸で走り抜けたら、肩を弾ませながら。 と、自分にいえるくらいの余裕をいつももっていられたらいいのにと思う。
Title: なう。
2010.04.25 いくら処理スピードが上がったって、それに伴って作業量も増えてりゃ世話ないわけで。 分野の違う仕事を抱えていると、たまにすごい勢いでいろんなものを切り替えていかないと追いつかない時があるわけで、まさにいまがその時なんだということです。 田植えと、かぼちゃ畑のことを考えながら、伝道とはなにかを考えて、ご遠忌に伴う実務的なスケジュールを頭の中で組みながら、寺報の原稿を準備しながら、サイトのリニューアルの構想を練るわけです。 返事しなければいけないメールと締め切りの迫っている書類と原稿が山積みなのに、いまなにをしているかというと、毎日毎日Ipodtouchをいじり倒しながらツイッターばっかりしてるわけです。 いままでパソコンでやってる時は面白さがいまいちわかんなかったけど、端末になるとこの面白さが十二分に発揮できる気がします。 若干「なう」というにまだ若干の恥ずかしさがありますがすぐになれるんでしょうに。 あ。もしツイッタリストがいたらよろしくどうぞ。リアル友達がたくさんいたほうが楽しいし。 さあて、いまからちょいと仕事なう。 おれなう。
Title: コラーゲン。
2010.04.24 人に言われて自分のことが見えるということは本当によくあることだと思う。相手が自分のことをよく知っている人ならなおさらで。 たしかに。 いままで自分は食べるものにも生活にもこまらず、友達にも恵まれ、何不自由なくぬくぬくと育ってきていて、それに生まれた時から周りから必要とされていたし、ちゃんと自分で自己肯定できるような環境の中にいたと思う。 その点で、日常に切羽詰まって悩んだこともなければ、八方ふさがりになったこともない。すくすくぬくぬくときたもんだ。 もちろんその中でしか生まれない悩みだってあったし、注目されて育ってくるには、それなりに痛みを伴うこともあったし、求められるものと自分の能力のギャップに悶々となったりしながらも、その痛みの種類は、生活とはかけ離れたものであることは間違いなかったと思う。 そんなところで生きてきた自分は物理的な部分で悩まなかった分、その時間を自分とか、生きることとか、人間関係とかそういうことを冷静に見たり、考えたりすることに使えていたのかもしれないと思う。 (環境の違いの中からでてくる苦しみに種類の違いはあれど、大きさの大小に差はないはずだという理論は通用することを前提に) それと、今までの人生の中で、自分の人生の岐路とか選択肢は、普通の人に比べて少なかったと思う。 生まれた時から職業も決まっていたし、その点で、将来なにになろうかとか、そのためにはなにを勉強しなきゃいけないんだとかどこどこ大学にいきたいなとか、あんま考えたことなくて、当たり前のようにとはいえ、時に小さな抵抗なんかかわいいことをしながらも敷かれたレールの上を着々と歩いてきたわけで。 だから誰かを好きになって迷うこともあんまりなくて、頭の中ではいつでも、その人を好きであること、自分の為であることが、イコールでその人とずっと一緒にいる理由にはならなかったし、そういう意味じゃ恋愛に対しては割り切っていることも多かった分、迷いも少なかったんだと思う。 (周りで恋愛に悩んでいる人をみると、いつも自分の人生と相手がイコールであることが多いという点においては特に) 選択肢に消去法が使えたということが、いいか悪いかは別として、時にそれを理由に楽をしていたことは確かだと思う。もちろんそれは今もこれからもそうで、ここ1番で消去法にかけた時に消える方ははじめから決まってる。 (最近は選択して生きてきた人を羨ましく思う反面、自分にはできなかったかもしれないとも思う) だから人よりも物理的な迷いに割く時間を違うことに使えたという事実はあると思う。 そんな環境で育まれたものは、与えられた環境(消去法で残った方の理由)の中での自分の身の置き方とか、心の置き方であったり、自分の居場所を確保する方法(人からどう見られるかとか空気を読むことも含めて)であったり、いかに同じ環境にモチベーションを保つかとか、そこの中でいかに幸せをみつけるかとか、今を楽しもうという姿勢でもあると思う。 それはいうなれば、「まあいいか」でもあるし「考えてもしょうがないよ」でもあるし、「やるしかないでしょ」でもあるし、「とりあえず一杯のむか」でもあるわけで。それは同時に選択できなかったこと、可能性にかけずに、結局は恵まれた楽な環境に身を置き続けるしかできなかった自分をどこかで保つためにはそういう思考が必要であったということだろうと思う。 一般には、20代のときには、あきらめとか、開き直りとか、お前それでいいの?と区分されてしまいそうなものに、後ろめたさを感じながらもそこに自分で価値をつけるのがうまくなったということでもあると思うし、究極に自己肯定をできる能力もそこから身についたんだと思う。 そうすることでしか保たれないものが、自分の生き方の中にはあったおかげで、育まれたものがたくさんある。 だから、思い返せば、いままで多々言われてきた、あなたに私の気持ちは絶対にわからないとか。恵まれてる人にはわからないことが世の中にはたくさんあるんだとか。勝ち組だとか。ブルジョワ思考とか。いいよね安定しててとか(すべてが悪い意味ではないのもよくわかっている) そういうのは全部その通りで、間違いなくて。それはよくわかってて。でもその分そこにいるから向かうことができた矢印の方向とか得たものが、たくさんあるのも事実で、違うからこそ見えるものと、感じることができたそれを武器にすればいいんだろうと思う。というよりもそれを武器にするしかないんだと思うとかなんとかいって、また自己肯定をして、今日も生きているのです。てへ。 でも30代になってみると、自分と同じようなところに答えを求めようとする人って意外と多いんだなとか思って、いままで自分の育んできたものが、今になってああ、結局は誰もがそこ通るんじゃんとか思うし、なまじ20代のころにふてくされたり、後ろめたさを感じながらもそれを肯定しようとする反作用を発揮できるような環境で育んだものは無駄にならないんだなとか思ったりすることがあるわけです。 なにがいいたいのかまとまりきらないうえに、つっこみどころも満載で、こんなに書いても書いても自分の中にあるものと、ぴったりしっくりくる文章にならないのはひさしぶりで、なんかいいたいことがあぶり出しみたいになって結局は最後にこうやって言いわけをしなきゃいけないような状況はなんとも決まりが悪いけど、でも備忘の為に残しておこうと思う。 でもこれが今の自分。以上でも以下でもないと思う。 前に前に。 | コメントを書く (0) | Trackback (0)Title: te su to
2010.04.20 夜風がふわりとなってきて。それだけを感じるだけで、のらりくらりと歩けるようになる。 * 本来、人には共感とか同調とか、無意識にでも他者と自分の境界をなんとか、あいまいにしようとする機能が備わっているんじゃないかと思うことがある。 朱に交われば赤くなる。 きれいなものに触れた自分を自分もそうであるかのように思ったりするし、汚いものに囲まれている自分を無駄に過小評価したくなったり。 ほんと自分の身の置く場所って大事だと思う。 でもそれは属してる場所とか物理的な問題じゃなくて、心の置き方の問題。蝉しぐれの中では静寂を感じられるのに、都会の雑踏で静寂を感じられないのは、環境だけの問題じゃない。 意識や心の置き方の問題だと思う。 物理的な違いは、ようは難易度の問題なんだろうと思う。 * 技術的な高まりは、針の先みたいに鋭くなっていって、もうこれ以上先にはいけないというところまでいけるのかもしれない。でも大事なのは、それをどう使うかであって。 何事も最後の最後は発想なんだと思う。 どっちも同じくらいに重要なんだろうと思う。 技術がないのに、頭の使い方のうまいやつを要領がいいという。でも歩をわきまえないと調子がいいねといわれれ、化けの皮がはがれちゃうし、逆に技術力があるのに、頭の使い方がうまくないやつは、自分よりも評価される人を小馬鹿にして、あいつは口だけだといいながら自分を納得させる。 でも一握り、どちらももっている人がいて。 そういう人は、いつもにこにこしてるのに調子がいいわけじゃなくて、化けの皮もはがれずに、だれも小馬鹿にしなくて、ちゃくちゃくと我関せず、淡々と生きてる。 そういう人を脅威だなと感じる自分の器の小さいこと。 自分もいつか人に脅威を与えるくらいに実力の伴った人間になりたい。 * 大多数の賛成と大多数の反対で決まったものに、本当にいいものなんてないんじゃないかと思う。賛否両論、真っ二つにわかれるくらいのものの中からしか、本当にすごいものは生まれないんだろうと思う。 でも自分がそれを提唱するには勇気がいるし、胃が痛くいなっちゃうから、そんな自分にはまだまだなんも変えられないと思うわけで、だからまずは、賛否両論わかれた時に耐えうる自分をしこしこつくんなきゃなと思う。 迎合するのは嫌だけど、でも孤独も嫌なんていうジレンマをなんとも思わないような人間にはなりたくないけど、でもその二極性が人間のかわいいところだとも思う今日この頃。 * あの人っていい人だよね。そういう自分がその人のなにをみてそう感じたのかがしっかりわかれば、自分が誰かからいい人だと思われることは簡単なんだろうと思う。 あいつ嫌な奴だよねという自分も、あの人と会いたいなという自分も、好きだなとか楽しいなと感じる自分も全部そう。 なんでそうおもうのさ自分てば。っていう探求は時にいろんな発見につながるなと思う。 * おまえだけだよ。なんてのは自分の弱さを覆い隠した器の小ささを象徴するような台詞だと思う。 とはいうものの、そういう言葉を口に出せることが人間のもっとも愛おしい部分でもあるわけで。 どうしたもんか。 * ミスチルをきいてて。 OverとかReplayとかLOVEとか、星になれたらとか、抱きしめたいとか、なんかあの頃よりも今の方がそこにある切なさとか、なんかぐっとくる感じを質感をもって感じられる気がする。 とくにLOVEは名曲だと思う。 * ワンピースが面白すぎて鼻血がでそう。 * 両極端と二面性を1つのものとして許容することが必要か必要じゃないか。 そんなことを考える必要があるのかないのか。 そんなもんもふわり。 そんでふわりと浮かれてipodtouchかっちゃうもんね。 poketwifiとセットで。むふふ。 無駄使い万歳。 人生から無駄をとったらなんにものこんないんだ。ニーチェもいってたさ。たぶん。 | コメントを書く (0) | Trackback (0)Title: おもさげなす。
2010.04.18 長く助走をとったほうがより遠くに飛べるって聞いた。ってミスチルもいってたさ。 最近それがじみじみよくわかる。 いつか自分がいろんなことができるようになって、そのタイミングがきて、それなりの力がついたら、あれをこうしてやるんだとか、絶対あそこをこうしてやるんだとか。 ずっと思ってたことが実際に少しづつ動かせるようになってきて、それについて考えてた時間が長ければ長いほど、実際動かしてみて、思うようにさくさくすすんだり、およそ浮き彫りになる問題点ももう考え済みだもんねってなもんで形になってきたときの快感はやめられないと思う。 そこで経験をつんでるうちに、またさらにもう少しして、タイミングがきたら、これをまた進化させてやるぜ、あそこをこう変えたらきっともっと円滑にことがはこぶようになるはずだぜとか思って。 その時にそれを動かせるだけの力を蓄えて、それに耐えうるだけの自分をもくもくと作っていきたいと思うわけです。 そのステップごとに、必要なものと不必要なものがでてきて。 いままで必要だったものをさくっと捨てて次に必要なものを得る。 そこに生じる摩擦に時にいろんなところが歪んで、痛いときもあるけど。 でも、先を見据えた時に、どうしてもやりたいことと、どうしても立っていたい場所を妄想して、むふむふするたびに、目の前の小さな痛みなんておちゃのこさいさいだと思う。 少し先をみて、視線をぐっと広げて十分にむふむふしたら、今度はぐっと視点をズームして次に足を出す場所にピントを合わせる。 それをあと何度繰り返したら、満足するところまでいけるのだろうか。それか何度繰り返してもいけないのだろうか。 やってみにゃわからんけど。 間違いなくずっと立っていたい場所はここではないことはたしかなのです。 ふぉみれどーなっつ。
Title: 諸子百家
2010.04.11 今年は桜がいつまでも咲いていてうれしい。 いつでも花見気分。 * 士農工商をはじめに考えついた人ってすごいなと思った。 本当の意味で、人間のメリットとデメリットを知ってなきゃ思いつかないし、それを社会のシステムの中に組み込んだという発想はすごすぎる。 人間の動機付けなんてものは、結局は士農工商みたいなもんなんだと思う。誰もが自分が一番下にならない士農工商。 * すべての出来事には必ず反作用の力が働くなぁと考えはじめてから、いろんなことに当てはめてみるけど、やっぱ間違いないと思う。 だから大抵のことは中途半端にそれを止めるくらいならとことんまでいけば、自然と元の位置に帰ってくるんじゃないかと思う。一番よくないのは、中途半端にいったり来たりしてることなんだろうと思う。 * * 仏に遭うっていうのは、いうなれば省みることであって、結局仏がどこにいるかといえば自分の中なんだろう。 青い鳥みたいなもんで。 * 自分の手の届くような身近にいる人をみてると、なんとなく日本はまだまだ大丈夫なんじゃないかと思うことがある。 * 浅く考えること、と深く考えることには、それぞれがメリットとデメリットを兼ね備えてるわけで、使い様なんだろうと思う。 * どきどきしたり、たくさんぐっとくるような会話をした次の日は、どんなに体がつかれても、なんかすごく体の調子がいい。 気分的なものだけで、片付けられないくらい、確実に違う。 逆に消耗するような会話をして眠った次の日の体の調子はあんまよくなくて。 今週はどっちもあったから、間違いなく物理的な部分で体の変化をつぶさに観察できてよかった。 * しょうがない。で片付けられることなんて本当はなんにもなくて。 でもしょうがないで片付けないと、けっこう生きにくい。 * 胸くそわるい資本主義の弊害をまざまざとみせられると、ほんとにわびもさびもあったもんじゃないと思う。 いつから日本人はそんなに行間を読めなくなったんだ。 行間を文化にまで昇華させた民族性も、そこにあった素晴らしい価値観も簡単に消し飛ばせるような世の中になってしまって。 たちあがれるのか日本。 でもきっと反作用な力が働くさ。ぶっこわれるまでつきすすめばいい。あと一息だよきっと。 * その人とまた会いたいかというのは。 自分がなにを話したかどうか、というよりも、自分の話しをどう聞いてもらえたかということなんだろうと思う。 うまく話すことよりもうまく聞くことの方がずっと難しくて、きっとそれがうまい人に、人は安心とか信頼とかそういうものを抱くんだろうと思う。 * 夜中の丸の内で誰もいない町のビルの谷間を歩いていたら。 すげえな人間。 こんなもんをぼこぼこたてれるなんてと思って。 でもなにをそんなに意固地に主張するんだとも思った。 * 気分転換の方法やが多ければ多いほど、それはそれで、フラストレーションになるんだ。 叶えたいものが多ければ多いほど、それはそれだけの苦しみを抱えてるということとイコールだったりもするんだろうと思う。 * | コメントを書く (0) | Trackback (0)Title: けんさくごく。
2010.04.07 こないだからいれたアクセス解析で検索語句をチェックしていて、えらいことに気がついたわけです。 「おっぱいがさわりたい」 とYAHOOで検索をかけるとこのブログが1ページめに表示されるわけです。しかもその単語検索でこのサイトにたどりついた方が何人かいるようです・・・ ごめんなさい期待に添えなくて・・・でも志は同じです。 しかしそこに並んで 「三願転入」 で検索をして辿りついてきたおそらく真宗関係者が何人かいることにも戦々恐々です。 他にも 「物事にやたら首をつっこむ人」 とか。 世の中にはほんといろんなことを調べようとしている人がいることと、そういう人が自分のサイトに流れ着いてきているということが大変興味深いです。 Title: 史実というフィクション。
2010.04.07 後悔するぐらいなら、言わなきゃいいのにとか思うものの、でもきっとこれから先も後悔してでも言わずにいられない自分とつきあっていかなきゃいけないわけで。 これが自分ですからね。というしかないもんね。 * その人と話したり会ったりすると、自分の中にある言葉とか断片的だった点がつながって、自分の中で思いもつかなかったところへ結びついていけるような人がいて。そういう人は自分にとってすごく重要だったりするわけで。でもじゃあその人はなんなんだといわれれば、自分の頭は既成概念の中から一番近いものを探そうとするんだけど、おもうに、人と人との関係において、同じものはどこにもなくて、それこそ大きくカテゴリー分けしてしまうことで本質を見失ってしまうものの1つじゃないかと思う。 * 人間は理解不能なものにしか感情や心を揺り動かされないんじゃないかと思う。いうなれば、自分に近い相手に興味を持つということも、同時にその相手の中に、理解しきれない自分自身を見ているからなんだろうと思う。 ただその揺り動かされた感情が、愛情なのか、、畏怖なのか、尊敬なのか、そのカテゴリー分けも同じで、その感情のカテゴリー分けにしたがって、関係や呼び方を決めてしまうということは、よくよく考えればなんてもったいないことかと思うし、それぞれは紙一重で、どこにでも転がりうるものであると思う。 これが言葉のデメリットであり、限界でもあると思うし、自分の足を引っ張る大きな要因でもあるんだと思う。 好奇心が湧くというときにそこの根底にあるものはきっと理解不能であり、理解不能な感覚を自分で楽しむということが好奇心の根底の部分になんだろうと思う。 自分がだれかに興味を持つ時には大抵、相手に投影する自分への興味がそうとうな割合で含まれてるんじゃないかと思う。 子どもをみていてもそうだし、親が興味を持って、感情が揺り動かされるのはきっと理解不能だからで、理解できてしまうものに人間は本気にはなれないんだろうと思う。 * その人はなんでそんなことをいったんだろうとか。なんでこの人はこの人と付き合っているんだろうとか。なんでこのタイミングでこういうことを言ったのだろうかとか。 誰かを見ていてそこにある要因を何度か反芻しながら線でつないでいくと、小さな言葉の使い方や、行動や、物事の考え方とか、そういう要因の1つ1つがきれいに結びつくことがあって、そこからこすり絵みたいに、浮き彫りになってくるその人の人間性や方向性を一個一個掘り下げていくことではじめて見えるものがあるなと思う。 そういうものが見えてくると、人と関わることはやっぱりおもしろいなと思う。 * 皮一枚ひんむいたらみんなぐろてすく。 とある人のブログに書いてあって。そういう感覚を持ってるか否かっていうのは大事なことだと思った。 * 切り口として、念仏と祈りを結びつける方向性は間違っていないんだと思うんだけど、でもそれは決定的に違っていて。 それがなにかと説明を求められた時に、真宗的にいうなれば、「如来よりたまわりたる信心」ということだと思うわけで、じゃあそりゃなんだと、その感覚をもっとかみ砕いて言葉で伝えるには、まだまだ自分には、言葉に体感が追いついてなくて、なんて説明していいかわからない。 こういうときに、自分は仏に出遭うのかもしれないと思います。 * みんながいいというと、そうじゃないものの中に理路整然とした価値を見いだしたくなるひねくれた性格なので、なんか相手が真っ向からであればある程、大勢であればある程わくわくする自分がいるわけで、でも最近、これはすこし直した方がいいと思うことがある。 * みんな一緒にありたいと思うのは、ただ自分が安心したいだけで。 はなから平等なんてどこにもない。 生まれた瞬間に優劣にさらされてて、人間は口ではなんとでもいえるけど、優劣をちゃんと判断してからじゃないと行動できない生き物だと思う。 * いい感じの疲労と寝不足でふわふわとしたところに湧いてくるものに感謝。 * 言葉でこうやってなにか悶々と書くのも好きだけど、これはあくまで備忘のためであって、やっぱり会話しながらいろんなものがつながりつながってくる感覚を得ることは、自分が生きていくうえでの優先順位でかなり上の方にあるなと思う。 * ああねむ。 | コメントを書く (0) | Trackback (0)Title: 気づけばいつでも。
2010.04.04 ここ数日は桜を満喫。これでもかというくらいに今年は桜三昧。 昼間からいっぱい飲んで、ごろんと寝転んで桜の木をみてたら、幾重にも折り重なる桜の花に、宇宙みたいと思った。 ほんとうにたくさん笑った次の日は体の調子がいいなと思う。 やっぱ。好きなものを片手に、好きなことを好きな人達としているときに湧いてくるものは、なににも代えがたい。 そんで好きなものがこんなに手に届く範囲にたくさんあることもありがたい。 オリジナリティというのは、きっと他の人からみたら無駄みたいなものの中に詰まっていて、そんな無駄なことに使ってきた時間がいまの自分や、好きな人たちを形作っていて、無駄を省いたら、自分のいいところや、好きな人の好きなところを省くようなもんじゃないかと思う。 もちろん本当に無駄なものというのもあると思うし、必ずしも無駄がいいわけじゃない。 ただ、それが無駄であるかどうかということは、思っている以上に、見えている以上に、深い部分につながっていて、本当に相手をみなければわからないってこと。 誰かに関わるということはそういうもんをひっくるめて関わるということなんだろうと思う。 巷では、この新しい節目にあわせるかのように、さあいこうぜムードがぷんぷんしてて、戦意高揚させるような曲ばかりが流れまくってるけど。 そういう音にさらされてヒロポン状態でこの1カ月をやりすごすから5月になってがくっと糸が切れちゃうんだぜとかひねくれてる自分。 自分てばほんとにあまのじゃくだなと思う。 最近エイプリールフールにつく嘘が雑だといわれて。 たしかに。 ほんとなんかやっつけみたいな嘘をつくことで、ただ行事の形式を貫こうとする姿勢をすこし反省しつつも、それでも辞めずに続けることで、なにか自分の中でエイプリールフールは次の次元へ変化をするのかもしれないのです。 何事もコツコツと。 ということで正論ぽく自分を擁護しておくことにします。 やっぱ、使わないものは衰えるだけで、使ってるところは鍛えられるんだなと、なんか最近、いろんな人やいろんなことに照らし合わせてそう思う。 だからそうありたいこうありたいとおもう姿があるなら、自然とそこを鍛えられるような日常に身を置いて、その中で習慣にしてしまうしかなくて、その中にいさえすれば、ただ淡々に日常をこなすだけで、自分の磨きたいものが磨かれていくような場所に身をおくべきなんだろうと思う。 そんでそんな場所を見つけるなり、つくるなりして、そこに身をおけるということが、才能でもあり、できるやつとできないやつとの差なのかもしれないと思う。 口だけで頭だけでわかっても、そこに身を置けなければ、身を置いてるやつには絶対に追いつかない。身を置くまでが大事なんだろうと思う。まごまごもごもごしてて足を踏み出さなきゃなにもしないのとたいしてかわんない。 突然なにかができるようになることもなければ、ずっと使わないもののレベルを維持できることもなくて、使ったら使ったところが、使っただけ鍛えられるんだけど、使わなければまたそれは曲線を描いて衰えていくだけ。 それが事実なのに、鍛える段階で、一緒にくっついてきた自負とかプライドとか、見栄とかそういうものが、過去の栄光を語るだけの大人にさせて、腕を組んで足を動かさないようにさせるんだ。 自分はそうはなるまい。そうなるまいと言い聞かせながらも、楽な方へ楽な方へと流れがちな自分をいましめてたまには足元を確認。 桜は。 やっぱり散り際がいい。 散り際というか散りざまがいいとかかんとかいいながらも、でもほんとうは桜はただ散っているだけで、ホントはそこには、際もざまもなくて、ただ淡々と終わっていくだけなのに、その姿になにかを照らし合わせたがるのが人間の悪い癖であり、でもそれが人間の愛すべき側面なんだな、とかまたもちゃもちゃしたことを考えそうになるけど。 でもまあいいか。 きれいだからそれだけでいいやと、深追いするのをやめた。 気温の上昇に比例して思考は浅く浅く。 | コメントを書く (0) | Trackback (0)Title: 帰り道で。
2010.04.01 急なんですが。わけあってしばらくサイトを更新できません。 身近な方には改めてメールします。 誰にも相談せずに黙って決めてしまいましたが、よく考えたことなので。 レベルアップして帰ってきます。 * この時期桜の写真ばっかりとってて、ふと毎年毎年変わり映えしない自分の写真のアングルや視点に、ああ自分は無意識にこういう視点で凝り固まってるんだなと思い知らされる。 もう30年も、この目線の高さで生きてきていて、いつもの視線で物事をみて、いつもの視点で物事を判断してるんだ。自分の目線が1cm高くても1cm低くても、世界はぐっと新鮮で鮮やかに感じられるものなのかもしれない。そのたった1cmを変えることができない自分。 なんかそうおもってみてみると、文章や言葉の使い方、や言い回しや書き癖も思考も行動いたるまで、無意識に凝り固まりまくってる自分の狭さよ。 それをオリジナリティだなんていうのは、ただのいいわけで逃げる口実みたいで嫌だ。 もっと新しい目線や視点がほしい。もっとたくさんのものを見て、たくさんの経験をして、いろんな人の側面をみたいと思った。 あれもほしいこれもほしいもっとほしい。もっともっとほしい。 春いちばんの風に吹かれ。 * ものすごくよく切れる刀があるとして。 もしそれを帯刀することが許されたら。 きっと自分はいろんなものを斬りたくなると思う。 ぶんぶん振り回したくなると思う。 でも刀は斬り手の力量がないときれるものも斬れないもんで。 きっと腕があがるまで、斬って斬って斬りまくって。 ある程度斬れるようになってきたら、きっと無駄に抜かなくなって、でもまだ、ここ一番、斬らなきゃやられると思ったり、ここは斬るべきだと思えばためらいなく抜くんだと思う。 でもそれを繰り返して、刀の使い方に自信と実績がついてきたら、めったに抜かなくなるんじゃないかと思う。ここ一番でも柄に手をかけるくらいかもしれない。 ここ一番で柄に手をかけて、いつでも斬れるぞと思えば、柄に手をかけずとも腰にぶら下げてるだけでもよくなって、もしかしたら最後はぶら下げなくてもよくなるのかもしれない。 そんなバガボンド的な妄想をしてたら、なんでもそうなのかもしれないと思った。 技術も知識も仏教もなんでも。 刀はなににでも置き換えられるのかもしれない。 はてはて。 * うちのかわいいバイオさんが、いい加減よれよれしてきたので、この春に新しいものに入れ替えようと思っているんだけど、問題はOSで、ウルトラ兄弟の3男がいまいちまだ心配で、新しいOSに乗り換えるのにはいつも勇気がいる。なかなか踏み出せないシャイな自分。 * 1つ大人になって。 2つ大人になる。 * そうそう。 今日はあの日ですよ。 | コメントを書く (0) | Trackback (0) |
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