• PHOTO最終更新日2010年10月11日



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Title: 方便

人間は方便を通さないと真実にはいきつけないなというのを今回三願転入について考えているときに改めてそのことを再確認した。

前にも書いたけど、1つの例だけど、家族のコミュニケーションがぎくしゃくしてるとして、家族会議を開いたらそれで解決するかといえば必ずしもそうじゃない。そもそも家族会議が開けるような家ではそこまでぎくしゃくもしないだろうし。

そこで真冬にエアコンをぶっ壊して、リビングにコタツを1つおくことでなにかが円滑に回りだすということはあると思う。これがある意味方便ということなんだろうと思う。

ベストキッドという映画がある。へなちょこダニエルさんに、日系人のミヤギさんが空手を教えるという映画なんだけど、それをふと思い出した。

ダニエルさんがミヤギにはじめて空手を習うときに、ミヤギさんは、車のワックスがけをしてきなさいという。ダニエルさんは言われるがままにそれをする。そして次には壁のペンキ塗り。そこでダニエルさんは切れるわけだ。こんなんで強くなれるわけないだろと。

そこで悪い奴との戦いになるんだけど、そこでやられそうになった時に、ミヤギが駆けつけて横からいうわけですよ。ダニエルさんワックスかける!ワックスふく!すると飛んできたパンチを軽々とその動作でいなしていくわけです。

そりゃ映画だよ。映画だからだよ。でも方便というのはそういうことなんだと思う。

人間は本当に深い部分にはそれだけをまっすぐに考えて、それだけに突き進んでたら見えないんだと思う。

たかがのらしごとでも。

たくさんの人と1つの作業するとよくわかる。その人の気の使い方、声のかけ方、視野の広さ、つかれてくれば本当の表情とか。それにお互いそういう中でしか育まれないものってあると思う。だから楽しいはだれかが与えてくれるものでもないし、楽しいはなにをするかということよりも大事なことがあるんだと思う。

しかし嘘も方便って、方便の意味がわかるとものすごい深い言葉だな・・・

まわりくどいけど、でも自分はこうおもうぜ!なんでわかってくれないの?はまだまだそこには我執があるってことか。それをどうやったらわかってもらえるか、そのためにはまずどの順序ではいるか。ああなんかドッキリを考えて布石をちりばめてる時ににてるかも。ようは直接的じゃだめな時もあるということか。

そう考えたら少し前に感じたことが今つながった。

少し前まで祈るだけで世界が変わるならもう世界は変わってるはずだ。なんて吠えてましたが、あれもあれからよくよく考えてみたら、祈ることではたしかに何もかわんない。超能力とかないし。

でも何かを祈ろうと思う気持ちを持つことで、手の届くところにいる人や、自分の周りだけにだけでもすこしいろんなことに寛容になれるんじゃないかと思う。

ようは祈るという行為に意味があるのではなく、祈ろうと思う自分に意味がある。だから祈りというのはベクトルは内側にむいてるものなのかもしれないということに気づいて目からうろこが落ちて、いままでの自分の視野の狭さと、みえていなかった世界と感覚があったことにうれしくもなった。

事実だけを、目見えるものだけを捉えるんじゃない。そこから。そこを通して自分が何を得られるかということは無限の可能性で、むしろこれは飛躍しすぎかもしれないけど、一つの事実にすべてがあるというところまで行きつけることもあるのかもしれない。

それこそが拈華微笑の世界か。

しかし深いな。深くて深くて。

しかしこんなことを何百年、何千年の間でたくさんの人が生涯をかけて考えてきて、そしてそういう人たちが一生をかけて、生涯をかけて残した経典がいまの世の中まで残ってるんだからすごいことだよな。人間ってすごいなぁしかし。

ありがたい。お経の本は粗末にできないね。お寺に育つとついつい慣れてしまってその辺がおろそかになってしまうけど反省しなきゃ。

POSTED @ 2009.06.28 | Comment (0) | Trackback (0)

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  • 自己紹介:1980年1月9日生まれ。どこからを趣味と呼んでいいのかは模索中。好奇心は旺盛。