Title: ぶっし
仏子という言葉いい言葉だなぁ。
実の人間の親にはどうしても謙虚になれなかったり素直になれなかったりするのに、本堂でお経をしながらあみださんを仰ぎ見てるとこりゃちょっと子どもでいいかなと思ったりする。素直にきょとんとしていてもいいんだなと思う。わがままいったんねん。だだこねたんねんとか思う。こりゃ勝手な解釈だけど、きっとイタヅラ心が湧くくらいがちょうどいいんだ。
腕組んでたのしいことをウズウズしながら我慢して横目でみたり、そんなの子どもだぜなんてさめたこといってるよりもずっと素直で自然で人間ぽいと思う。
いまの自分の立場になってみると、自分が責任を取らなきゃいけないことっていうのがたくさんあって、愚痴るわけじゃないですがそういう立場自体につかれるということもあるわけです。
そうすると必然的に保守的にもなるし、温存したりもするし、なによりもたち振る舞いを大人にならなきゃとか、しっかりしなきゃとか、外側を装飾するのがうまくなってくるわけです。でも中身なんて清小のときとなんもかわってないんだ。
いっぱしの顔して理屈っぽいことばっかり思いつく頭なんかくそくらえだ。そうやってやわらかい部分が奥の方へ奥の方へおいやられちゃう。
最近自分よりも責任とってくれる人がいる場所ってすこし安心するんです。無責任なようだけど、自分が責任者じゃないところの方がのびのびいきいきいろんなことができたりするもんなんだ。そういうところの居心地のよさって、なんだろう安心感なんだろうな。ただ大事なのはその責任者を心から信頼できてなんだけど。
そうおもえば仏子というのは究極いつだってどこだって責任とってくれるあみださんがいてくれるわけで、いいんだよあとはまかしとき。なんだよね。
だから無邪気に生きてさえいればいい。
と思うんだ。これは曲解ですかね。曲解でもいいんだ。
ようはいつだって自分の力でなんでも解決したんねんを離れるところに安心があるってことかね。
へけけ。
POSTED @ 2009.06.30 |
Comment (0) |
Trackback (0)