• PHOTO最終更新日2010年10月11日



follow me


Title: 怒濤の一週間
2005.09.27


怒濤のようなここ一週間。こういう時はいつものことながら箇条書きになります。

■22日

イラクに派遣されていたハーフの友達が日本にきた。3日ほどうちに泊まるというので東京駅まで迎えに行くことに。一緒にきた友達はプロのポーカー選手(去年の年収は7000万)その二人と共に酢豚を食いに行く。そして夜にはリアルなイラクの話を聞く。あの馬鹿な外人が珍しく神妙な顔で話していた。やっぱりニュースでしか入ってこないイラクとは違う。生のイラクの話しは壮絶だ。

■23日(秋分の日)

この日は朝からお彼岸の法要があるためお寺に。台風が来ているとの情報もあり延べ300人を越える人が来た。年々来る人が増えている。まぁそりゃ年々檀家の数が増えてるんだから当然といえば当然なんだけどね。そしてこの日は、名古屋・横浜・からも友達が合流して、総勢7名で飲みに行く。ふと学生のノリになれるのがいい。ほんと楽しかった。

暑さ寒さも彼岸まで。この日を境にたしかに肌寒くなったね。こうなるとボードに行くのが楽しみになってきた。

■24日

朝外人2名を東京駅まで送る(2週間ほど日本を旅するらしい、ちなみにまたこの二人戻って来るらしい)そしてもう一人家にいる名古屋の友達。そもそも彼がなぜ東京まできたかというと、この日に山崎まさよしのライブが横浜で行われるからだ。しかも10周年記念の野外ライブということで彼のテンションは最高潮。しかしおれは特に山崎まさよしが好きだと言うわけでもない・・・この温度差を埋められないまま5時半から始まるライブに4時から乗り込んで待機・・・

頃を同じくして空からは小雨が・・・

そして前座に出てきたカジヒデキがもうそろそろ雨もやむよ~!みんな開演までもう少し待っててね~!といって舞台裾にはけた瞬間にどしゃ降りになる・・・

となりで「好きならしょうがな~い!しょうがな~い」という友人を横目におれは今夜何を食うかをひたすら考えていた。しかもあまりに飽きてしまったので、山崎まさよしファンのど真ん中でその友人に向かって「おまえ!山崎まさよしにに似てるなぁ!」を連発して、振り返る周りのファンの反応をみて楽しむという遊びに熱中していた。

おれは生まれて初めて4時間近くたったまま身動きもとれず雨に打たれ続けるという軽い修行の様な経験をして、二度と野外ライブなんかにはいかないと心に誓ったのでありました。

■25日

昨日芯まで冷えた身体で鼻水を垂らしながらも、この日も朝からお彼岸の合同法要・・・少ないと踏んでいたが意外にもこの日もお参りに来る人は多かった。20日から始まったお彼岸一週間で今年は延べにして500人を越える人がきた。これ・・いつかさばききれなくなるんじゃないかな・・・そろそろ対策を考えないと・・・

■26日

そして幼稚園では来週運動会です。来年度の採用にむけての準備も始まってます。はっきりいっててんてこまいです。脳みそがもう一つほしいです。考えることとやることが多すぎます。

■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

しかしまぁ肉体的にも精神的にもハードな一週間だった。ここにも書ききれないほど楽しいことも考えさせられたことあったのにリアルタイムに書けなかったのがくやしい。

しかもいま同時にあるNGOのHPの立ち上げを依頼され期限が10月7日これも同時に進めます。しげちゃん安心してください。絶対に間に合わせます。じっちゃんの名にかけて。

それに付随して。

HPの立ち上げに際してスーダンという国を知ろうといろいろなサイトをみたりしてみた。それとタイムリーにリアルなイラクの話を聞いた。そんな中でいろんなことを考えているときに山崎まさよしのライブにいった。

そこで感じたのははっきり言って日本は平和だ。あたりまえだけど。はっきり言える間違いないことだなと感じた。

今ここにいる多くの人が一生のうちに感じる苦しみとか悲しみとか怒りとか。そういうものを遠い国ではたった一日で感じてしまう子ども達がたくさんいるんだろうなって感じた。ここにいる俺は、そういう経験をしている彼らの境地には絶対に届かないし、本当の意味で理解することはできないんだろうなと感じた。

いま自分が日本いることに甘んじていたことにすこしもどかしくなった。

| コメントを書く (0) | Trackback (0)
Title: NOMUSIC NOLIFE
2005.09.21


最近BUMB OF CHICKENの「とっておきの唄」をひたすらリピートで聞きまくってる。

いい音楽を聴いてると気持ちも高い位置で保てるし、文章もすらすら書ける。

前にも書いたけどいい音楽の中にいたら、お腹いっぱいで苦しいことがすごく満たされているような幸せな感覚になったり、雨が降ってても晴れててもその時の気候の一つ一つを噛みしめて感じられたり、テレビを消して何もしていない時間も贅沢に感じたり、なにげない会話を幸せに感じたりできる。

音楽には感覚を一変させるだけの力があると思う。

疲れたときには栄養ドリンクよりもニンニクよりもおれにとってはブルーハーツだしね。

音楽ってすごいなって思うといつも思い出す映画がある。

その映画は「ウッドストック」というドキュメンタリー映画。

ベトナム戦争の色濃い1969年8月15日「平和と音楽の3日間」と名付けられたウッドストック・フェスティバルがニューヨーク郊外で開かれた。リッチーヘブンスの歌で幕を開け、ジミヘンドリックスがアメリカ国歌の「星条旗よ永遠なれ」を最後にステージを降りるまでの3日半に及ぶフェスだ。

運営側の準備不足と予想を超える50万人が集まったことでハイウェイは数十キロに渡って渋滞した為、出演者は全てヘリコプターで会場に運ばれ、さらには予想を遥かに上回る入場者をさばき切れず、急遽会場を囲むフェンスが取り払われて入場無料のフリーコンサートとなってしまう。こんな状態で始まったこのフェスはのちに伝説となる。

伝説となったのは入場者の数だけではない。

このフェスが伝説となったもう1つの理由はこの3日半の間、暴力や犯罪が1件も記録されなかったということ。会場に集まった50万人もの多種多様な人々が、互いに助け合い、食料を分け合って3日間にも渡るこのフェスを成功させた。

この様子はドキュメンタリー映画「ウッドストック」として世界中で上映され、フェスティバルはべトナム戦争下の若者が生み出した社会現象として伝説となった。

この映画を初めて見たときにはホントに鳥肌がたった。

生ギタ-1本で何10万人を相手に歌うリッチ-ヘブンス・・・

すげぇ・・・って思うよ。

そしてこのフェス出演者ももちろんすごいけど客もすごい。

リッチ-ヘブンスが「フリーダム」を最後にギターを弾きながらステージを後に去っていく時にみんなが立ち上がり、だんだん早くなるテンポに手拍子を合わせリッチ-を送るヒッピー達・・・映像だけで胸が熱くなる。

よくこのフェスは世界を平和にしたのかとか、ロックは世界を救えるのかとかいう議論がされることがあるけど、そんなことはどうでもいい。

音楽で世界を変えようとした人間が何人もいてそれに賛同した人間が50万人もいたことは事実だ。

もし音楽が世界を救えないとしても、

間違いなくおれは何度も音楽に救われてる。

ひさびさにまた「ウッドストック」を見たくなった。

| コメントを書く (0) | Trackback (0)
Title: もうひとつの愛地球博
2005.09.20


興味深い話を聞いた。

万博の中にコーサカス共同館というパビリオンがある。

アゼルバイジャン共和国・アルメニア共和国・グルジア3国で共同出展されているパビリオンだ。

世界情勢に詳しい人ならここで、あれ?って思うかもしれない。

アゼルバイジャンとアルメニアはいまでも国境は封鎖されていつ紛争が起きてもおかしくない状態だ。ナゴルノ・カラバフを巡る対立で多くのアゼルバイジャン人とアルメニア人が命を落としている。

そしてアゼルバイジャンはイスラムを信仰しアルメニアはノアの箱船伝説の残るキリスト教国である。

このように様々な対立のある両国が共同出展をしているわけだ。運営側の話も興味深いんだけど長くなるので。

ここではその各パビリオンで働くスタッフの話

アゼルバイジャンのパビリオンのスタッフの女の人の家族はアルメニアの侵攻の時に家を失い、いまは難民認定を受けいまでも苦しい生活をしているという。

一方アルメニア人スタッフの女の人は直接紛争をしらないがアゼルバイジャンの人間とは口をきくなと家族に厳しくいわれて日本にきたらしい。

そして万博が開幕してはじめは目も合わせず、口もきかなかった二人が、一緒に仕事をし始め一言二言はなすようになり。

少しづつ友情が芽生え、今ではお互いの国のことを話し合い、多くの誤解があったことに気づき、今では深く信頼しているという話をしていた。

彼女たちのコメントでは

「日本に来なかったら私はアゼルバイジャンという国を何も知らずに誤解をしたまま過ごしていたと思う。」

「はじめはアルメニア人と働くのはいやだったけど、いまこういう機会に巡り会えたことを感謝している。」

世界中にはたくさんの国があって、たくさんの国境があって、たくさんの人種がいる。

でもみんな人間なんだ。

人種である前に国民である前に

みんな人間である。

悲しいときにはなにを信仰してても

なに人であっても

涙を流し悲しむ

うれしいときには笑顔になるんだ。

万博の本当の意味はこういう認識をもてるきっかけになれることだと思う。

まえの日記にも書いたけどおれは自分の子供には世界中を旅させて、

その中でたくさんの人と触れあい、その対比の中から日本人であることを認識できる人間に育ってほしいと思う。

| コメントを書く (0) | Trackback (0)
Title: 中秋の名月に決別宣言
2005.09.19


お月見とはよくいったもんだ。見事としかいえないような完璧な満月だ。うっかり見とれてしまうくらい妖艶な月がでていた。月に性別があるなら間違いなく女だと思う。

そんな日にもう2年も使った携帯電話に決別宣言をした。アンテナは歯形だらけでぐだぐだに折れ曲がって全身傷だらけの携帯をみながらよくも悪くもこの2年間この携帯では色んな人と色んな会話をしたなぁなんて哀愁にも似た思いで満月の下を歩いて帰る。

こうみえて意外におれはモノを捨てられない人で、壊れたから使えないからというだけでゴミ箱にはすぐには入れられない人間です。だから人からみたらがらくたみたいなモノがうちにはたくさんある。引っ越しの度に泣く泣く捨ててるモノもあるけどいまだに捨てられないモノもたくさんある。ちなみにいま決別を悩んでいるのは「鼻緒の切れた雪駄」です。

去年の四国の旅の間にずっとはき続けた畳張りの雪駄・・・ついに一昨日鼻緒が切れた。玄関において置いたらこんなもん捨てなさいと言われるが、今はまだ捨てられない。

おれはモノには色んな思い入れがあるんだ。

だから壊れたら捨てるとかそういう問題じゃない。おれにしかわからない色んな気持ちがそこには込められているのです。

そういえば昔、真っ黒になって空気の抜けたドッジボールのボールをうちの母親が勝手に捨てたときに、本気でおれはもうこの家には住めないと思ったことがあった。

周りからみたらガラクタみたいなモノでも自分にとっては大切なモノ。みんな一つぐらいあるでしょう!


| コメントを書く (0) | Trackback (0)
Title: 無条件の自信
2005.09.16


寒い。朝夜の冷え込みが本格的になってきて、タオルケットだけじゃもう限界。こういう朝とかこういう夜には暖かいお茶でも飲みながら、リビングで布団にくるまってひたすらビデオを見たり。ひたすらフィルムの整理をしたり、ひたすらに本を読みあさったり。そういう時間を過ごせたらいい。

最近会った人たちをみて感じたことがある。

それは無条件に動ける自分が自信を生むってことだ。

その人の今の状況とか。心の中ってのは少なからず顔とか話し方とか行動とか。表向きの部分に出てくるってこと。

本当に好きなことをしていたり、毎日が充実してる人の顔は自信に充ち満ちてるし、声にも力があるし、目がまっすぐだ。なんかどんと構えてる感じがする。

はしばしにいい表情を見せる。

よくよく話を聞いてたら、そういう人に共通してるのは損得勘定とか後先とか考えないで無条件に打ち込めるモノがあるってこと、それだけ好きなモノがあるってこと。趣味でも仕事でも恋人でも。

そういう人と一緒にいると安心感がある。

そしてそれがまた魅力を生む。

逆に今の生活に不満を持ってる人の目はどことなく力がない。笑顔だって笑い声だってやっぱり覇気がなくなるんだと思う。

そういう時はその人が決まって小さく見える。

そしてそういう時には頭のどこかで損得勘定をしてる。自分にとって一番はなにか。条件ばかりを気にしたり、いかに楽をしたいかを考えてる。そういうときには大抵無条件に動けるモノがなにもない時だ。

誰かを好きになるってのも同じことなんだと思う。

誰かを本気で好きになってるとやっぱり顔が変わる。恋をするってのはいつも無条件なんだと思う。無条件になにかできることが恋で、やっぱり無条件に動ける自分の自信が迷いのないしっかりとした足取りを生み出すんだと思う。

よく恋するとキレイになるとかいうけど、それってホントにあると思う。おとこもおんなも。とくに女の子は顕著だけどね。全然違うよほんとに。

正確にはキレイになるというよりもしっかりとした足取りが人から見て魅力のある人間にみえるんだと思う。

そう考えたら好きなことをおもいきりしていつもいい恋をしてる人間は無敵だ。

最近その両面を見ることがあって。リアルにそれを感じた。やっぱり何かをまっすぐに見据えてる人は魅力的だ。

無条件ってことはある意味捨て身だ。

全身全霊でぶつかってる人間ほど強いモノはない。

それだけ必死になにかに向かってる人間が魅力的じゃないわけがない。

揺るがないモノが一つあるってことはそれだけで足取りを狂わせない。歩幅を乱さない。

なんでもいい。無条件になれるものは自信を生む。

| コメントを書く (0) | Trackback (0)
Title: 秋の空気とふがいない自分
2005.09.12

もうすぐ秋のお彼岸が来る。

暑さ寒さも彼岸までとはよく言ったモノでホントにこの日を境に気候が変わる。最近じゃ朝と夕方の空が間違いなく秋に向かっているなと感じる。

仕事帰りの高速からほぼ一年中夕焼けを見てると、夕焼けを見ただけで季節を当てられるような気になってくる。

そんな初秋の今日この頃。

週末にラグビーの合宿があった。

ラグビーの聖地といえば菅平、ここに行くのは大学の合宿以来だから4年ぶり。4年ぶりの合宿ということもあって気合い十分。10月の大会を前に社会人を中心にしているため普段なかなかそろうことが難しいチームにとっても今回の合宿はとても重要な意味を持つ。

自分自身その貴重な練習時間をしっかりわかっていたし期待に応えなければという気持ちで、少なくとも合宿の練習に耐えられるだけの身体を作ろうと何ヶ月も前からトレーニングを続けてきていた。

1日目のミーティングで自分が絡むサインが作られて(大谷でいう大畑のサイン)2日目の練習試合でそれが試されることとなった。

試合開始20分、敵陣22m目前、左オープンの絶好のチャンス。でサインが出された。

ブレイクと同時にブラインドサイドからオープンサイドに走り出し、スタンドから2線をとばされたボールが俺の手元に飛んでくる。

キャッチすると同時にあいてを抜き去りフルバックとの一対一も軽く抜き去りトライ。

ゴールに飛び込んだ瞬間だ。

ぶちっ・・・・


鈍い音とともに足に激痛。

左太股裏肉離れ

うまれてはじめての肉離れだ。

正直こんなに痛いと思わなかった。

そのまま交代してグランドの外で激痛に耐えたまま試合は終了

結果は俺のトライのあともう1本トライを決めたうちのチームの勝利。

1ヶ月のトレーニングで持久力もスピードも瞬発力も現役まで行かなくとも社会人4部リーグでは十分に通用する位まではもどっていたのは間違いない。

ただ1つの誤算だったのはそれに身体がついていかなかったことだ。

本気で生まれた初めて身体が衰えてきてるのかなって真剣にへこんだ。いままでこんなに自分でベストコンディションを整えて臨んだ試合はなかったのに。

ふがいなさとくやしさで怒りというよりも悲しさすらこみ上げてくる。

でも本番はこれからだ。むしろここでよかったと納得することにして10月の本大会で借りを返してやる。


| コメントを書く (0) | Trackback (0)
Title: 愛地球博
2005.09.08

万博行ってきました。

聞いてたほど混んでもなく。台風もおれをよけて迂回してくれたみたいで、天気はいいのに風が気持ちのいいまさに万博日よりでした。

噂のパビリオン(TOYOTAとかマンモス)はやっぱりすごい人で、大きな企業パビリオンは2つしか回れなかったけどやっぱりすごいよ。映像も音も、最先端技術ってのは鳥肌が立つくらいすごい。

特に三菱主催の「もしも月がなかったら」というパビリオンでみた映像あれはすごい。震えたね。

もし月がなかったら、なぜ月ができたのか。それを最先端の映画館(天井は鏡張りの巨大スクリーンで最新の音響設備)で紹介してくれる。

昔からこの手の話(宇宙の不思議系)を聞くとこわくなる。本当に天文学的な奇跡の中から地球ができて、アメーバみたいなものが今の世界や社会。目に見えるモノすべてを作ったのかとおもうとおれの理解の枠を越えててモヤモヤしはじめる。

そもそも宇宙ってなに?

宇宙の外側にはなにがあるの?

空気のない世界に浮いてる地球にわいたアメーバがいまパソコンに向かっていろんなことを思考したり書いたり。

仕事をしたり。社会や家族をつくったり。

時間とか空間とか人の考え得る概念すらきっとそこではまったく意味がないんだろうけど、そういうことを考えると果てしなくモヤモヤしはじめるのでいつも途中で考えるのをやめる。

また各国のパビリオンそれぞれすごくおもしろかった。特にガラガラのキューバ館にネガからプリントしたゲバラの写真が売っていたのは驚いた。

そんな中、大小様々な出し物のなかから一番印象に残ったのがあるNGOが主催する本当に小さな会場の隅にあった出し物。

その辺は本当に学園祭の延長線上みたいな規模なんだけど、そこでやっていた写真展が強烈に印象にのこった。

写真展においてある写真は、

世界中の小児病棟に入院する小児癌や白血病の子ども達が自分の入院する部屋の窓から撮った空の写真。

そこにある写真を見ていたらカメラっていうのは、風景だけを切り取る道具じゃなくて、そこにある思いとか気持ちも一緒に切り取るんだって素直に思えた。

言い過ぎかもしれないけど、そこに写ってる空はまさに彼らがそこに生きている証拠であって、彼らが生きている限り毎日眺めている空。そう考えると一枚の写真が命とか生きるってことに直結してる気がした。きっとおれが撮る空は自分の生きてることには直結しない空なんだよね。ただの日常風景。やっぱりそこに乗ってる気持ちは違う。

構図もピンも大事だけど、そこにあった構図もピンもぼやけた写真はどんな有名な写真家の撮る写真よりも印象に残った。

改めて写真ってのはすごいもんだなぁって感じた。

愛地球博。宣伝する訳じゃないが、おれは自分の子どもにはきっと見せてあげたいと思った。いままではただのエンターテイメント的なお祭り騒ぎでしかないと思ってたけど。ここにはたくさんのきっかけがあると思う。

いろんなパビリオンをみてて、世界にはいろんな国があっていろんな人がいる。いろんな立場の人がいる。

自分の生きてる世界がすべてじゃないんだって教えてあげられるいい機会だと思う。

世界は広い。愛は地球を救うね。

間違いない。

| コメントを書く (0) | Trackback (0)
Title: 若いとは正論に胸を張れることだと思う。
2005.09.02


知らないからこそ正面切って
堂々と正論に胸を張れるってことがある。

正論ってのはそういうものだと最近感じる。

そして時に正論ってのは人を傷つけるし追いつめもする。

それは人はまっすぐにむいてだけは
生きていけないってことだと思う。

人間は弱い。

人が生きる上での指針としてもちろん正論は必要だと思う。

でも若いっていうのは時にそれが机上の空論
だとしても正論に胸を張る。

本当に追いつめられたことない人
本当に挫折をしたことない人
本当に迷ってきてない人
本当にだれかを好きになったことない人

理論武装したり
弱さを隠したがる人ほど

そういう正論を使いたがる。

なんでもそうだ。経験こそが人を作る。
ピンからキリまでどんな経験もしてみなきゃ
物事の本質なんて見えない。
いろんな角度で物事をみなけりゃ
なにも本質なんて見えない。

そうしてみえる本質がいつもまっすぐだとは限らないってことだ。

本質ってのはいいところも悪いところも含んでるから本質なんだ。
表面しかみてなかったらキレイに見えるモノもね。

本質を丸ごと感じてみなきゃ堂々とそれについてなんて語れないんだよ。

おれは自分の目で見て身体で感じたことしか信じない。

そのうえで机上の空論じゃない
自分なりの正論をつくっていくべきだと思う。

きっと今持ってるおれの正論もいつか覆るかもしれない

そういう出来事があるかと思うと

人生ってのは楽しいし。深いと感じる。

経験つながりでもう一つ。

おれは何度も言うように経験至上主義です。
経験こそがすべてです。

どんなに長く生きていようと、どんなにたくさん本を読んでいようと
経験に勝るモノはない。

自分より経験値のある人間を目の当たりにすると
その人が何を話してても何をしてても
おれは絶対に勝てないと感じる。

逆に、どんなに偉そうなこといってても
そんなに権威があっても

普通に生きてたらできる経験しかしてきてない人間には
負ける気がしない。

そしてその自信がいつも自分を支えている。

| コメントを書く (0) | Trackback (0)

  • 自己紹介:1980年1月9日生まれ。どこからを趣味と呼んでいいのかは模索中。好奇心は旺盛。