• PHOTO最終更新日2010年10月11日



follow me


Title: CE-C
2009.09.30

なんか重なるときはいろんなことが重なるもんだ。

天気一つで右往左往と振り回されてバタついてる自分に追い打ちをかけるように、いろんなことが起きる。ほらここにも他力だよ。と言われているような気がする。ほれほれ。自力でなんとかなると思ってるかい。これでもかこれでもか。ほれなんとかしてみ。と試されてる気がして、そんなことを考えながら、1人、むむむ、よっしゃやったろうとか思ってる自分に、やれやれとか思う。ほれまたいったりきたり。

なにくそ。いまにみとれ。まだまだ。

3歩進んで2歩下がる。

予定表を書き込んでいておもったけど、今年もうあとちょっとじゃん。

いよいよ30歳になっちゃう。

| コメントを書く (1) | Trackback (0)
Title: 深炒り。
2009.09.29


旅にでて、初めての街にはいるときの感覚と、昼休みに、昇降口で靴紐結んで、校庭に飛び出す時の感覚は結構似てるかも、と突然思った今日この頃。

もうすぐ寒露だってのに、この首の皮一枚みたいな暑さが、せつなくも嬉しかったりする。

最近なんか楽だなぁと思う。

物理的な部分じゃなく、気持ちの部分で。

なにをのほほんと。と言われても仕方ない。

なんか耳たぶの最後の皮の一枚をプチっと安全ピンが貫いた時のような感じ。

いまだ気を抜くといろんなものの期待に答えたくなる欲や、評価してよ、自分をみて欲がむくむく頭をもたげるけど、でも比較的その辺の折り合いもうまくつけられるようになったし、所詮自分のできることなんて自分のできること。以下でも以上でもないもんね。

そんな自分を続けながらも、自分の周りに人が増えていく方がよほどありがたくて、謙虚でいられるような気がする。

手を抜くのも自分でなんで、がんばんなきゃ維持できないものはポイです。

でも、がんばんなくてもできることを増やすのは怠らないようにしなきゃ。

頑張ってできることが10個あるよりも、頑張らなくてもできることが3つでも4つでもあるほうがいい、という価値観にシフトするようなもんで。その3つ4つがきっと自分にとっての適正で、それを仕事につかえるなら天職とよべるんじゃないかと思う。

頑張るという言葉には、我を張るという意味もあるんだろうと思う。我を張らなきゃいられない場所よりも、我を張らなくてもいられるこの場所がここちいいもんね。ここちいいい場所には、いつまでだっていれるわけで、そこでできることを探せばいい。

失望も期待も、それにこたえようとしたくもなるけど、そもそも希望も期待も、そもそも、そんなもん相手の欲求であり願望にすぎないわけで、答えなきゃいけないというのもまた自分の願望で妄想みたいなもんだ。

しかしこの気持ちを言葉にするのは難しい。

似たような話をなにかの折りにある人に話したところ。

頑張って、我を張っても、そのプロセスで人は成長したり、そこから学ぶことがたくさんあるじゃないですか。頑張るのをやめたなんて、怠け者のいいわけですよ。

わかんないとか、あきらめるとか、そんなのは逃げです。

逃げて逃げて、そこから得るものなんてなんにもないです。

そもそもあんたは、のほほんと生きていけるから、そんなこと言えるんですよ。私はがんばっていきていくんです。そうやってがんばることに意味があるんです。

と言われました。またこれピシャリと。

その気持ちはわかるんだけど。自分はお爺さんじゃないけど。そういうのは若さゆえにいえることだと思います。若さゆえにいえる言葉はものすごく熱いし大好きだから、そういう気持ちは大事だけど。

これからもっといろんなものを見て、いろんな経験する中で、力の抜きかたとか覚えてくれたらいいなと思う。

そしたらきっと、「こんなに頑張っているのに」とか言わなくて済むようになると思う。

こんなに頑張ってるのに、なんであの人はわかんないんだろう。こんなに頑張っているのに、社会はバカばっかりだ。自分はこんなに頑張ってるのに評価されない。

自分が頑張ってるから、誰かを許せなかったり、誰かや何かを許容でないということは、もったいなくて切ないことだと思うし、誰かを許せないで生きてくよりも許せていきてくほうがよほど穏やかで安穏だと思う。

誰かを許せない自分で、生きてくのは苦しみを生むだけだと思う。そんなの頑張っているという言葉で、自分の首を絞めてるようなもんだと思う。

例えば、いくら頑張っても、不条理にも、誰かに誤解されてしまったり、旦那や奥さんが痴呆になったり、突然癌にもなるし。そんな極端な!といえばそれまでですが。

頑張っても乗り越えられないことはたくさんあって、まだ自分が、頑張って我慢すれば、乗り越えられることにしかぶつかっていないだけなんだと思えればいいんじゃないかと思う。

頑張ることやは前へ進む力だということ自体がもう、既成概念にとらわれてるだけだ。

ちなみに我慢も全く同じだと思う。我慢なんて我の慢心とかいて我慢だとはよくいったもんだと思う。

我慢してる人に限って、私はこんなに我慢をしているということを口にする。

いやしかし伝えることの難しさ。

ほんと仏陀ってすごいよなぁ。

きっとこんな議論をばしばしぶつけられて、きっとたくさん誤解とかされて、あいつバカだとかいわれまくって、堕落したとか、逃げ腰とかいわれたりしたんだろうなぁ。

中道を解くというのはほっんとに誤解を生みやすく、水掛け論に陥りやすい。

仏陀の、議論もしない、論破もしない。くるもの拒まずさるもの追わず。

無言をもって答えとする。という姿勢の重さと、腹の底にある強さみたいなもんはすごい。

人間は自分の意に添わなきゃ、あいつはバカだとか、わかってないとかいうけど、そもそもそこで簡単にわかるほど仏教は単純なもんじゃないし、それでもあの手この手で伝えながらも、決して媚びるわけでも、へりくだるわけでもなく、芯をずらさずに説くこと。

これって並大抵じゃできないし、そもそも教学どうこうとか、知識どうこうだけじゃないプラスαの部分の占める割合が相当大きいと思う。

長く遠く。遠く遠くへ。

前に前に。

| コメントを書く (0) | Trackback (0)
Title: あなかしこ。
2009.09.27


感情的に誰かにを言葉をぶつけるとき。

その言葉はそのまま自分がいわれたくないことだったりする。

口を衝いて出た言葉に想いと感情を素直にのせるということは本当に難しい。

多くは、感情を言葉に変換するときに、芯の部分がぽろぽろとこぼれて、大事な部分の抜け落ちた形骸化されたものだったり、または裏腹なものなんだろうと思う。

人は自分の中に湧いたもの的確に言葉にできるほど、自分の想いや心を、自分自身で掴んでいないし、それを掴めるくらいに自分に時間をさける余裕もない。

でもだからそれでいいんじゃない。

だからこそ言葉と心にあるギャップを自分で埋めていかないと。

あるときにっちもさっちもいかなくなって。どこにも逃げ場がなくなって。目をそむけきれなくなる時が来る。

その時に自分の中に安穏を保って、安穏なままに生きるということがいかに大切か。自分が安穏でいて初めて、だれかに安らぎを与えられるんだと思う。

自分のできないことは、誰にもしてあげられない。

| コメントを書く (0) | Trackback (0)
Title: でっかい熊か何かであってもそうだね
2009.09.25

たとえば。自分の友達がいる。

なんでそいつと友達か考えたときに。

自分にとって、なにかしてくれるから友達なわけでない。

もっといえば、真面目だから友達なのでなければ、話があうから友達なわけでもないし、なんかくれるから友達なわけでもない。

じゃあなんでだかといわれれば。

全部が当てはまるのかもしれないし、なににも当てはまらないのかもしれないし、ちょっとだけ当てはまるのかもしれないし。明確な理由なんてない。

ということは、これをしたら友達とか、友達ならこうだろうとか、そもそも、友達なんてものはただの言葉であって、そこにあるのは人と人のつながりの1つの形でしかない。

同じつながりは、二つとない。

それをなんとなく友達というくくりにして、その中で最大公約数を探り、思考の幅を狭めてるだけなんだろうと思う。

それが彼女だろうと嫁だろうと、親だろうと先輩だろうと後輩だろうと。

自分とその人の間にあるものは、自分とその人の間にしかないものなのに。つまらない言葉で価値観や感情まで左右せらるるのは。

つまんない気がする。

そんなこと考えてたら。

バガボンド31巻の中でのくだりで、伊東一刀斎が、天下無双は、わしかお前のどちらかだと思うのだが、と石舟斎に問い、石舟斎の首に刀を突き付けて、

「戦えばワシが勝つ。あんたはワシに斬られる」

という。

そこで石舟斎の言った台詞。

「でっかい熊か何かであってもそうだね」

この感覚に近いものかもしれないと思った。


| コメントを書く (1) | Trackback (0)
Title: えんぴつせっと。
2009.09.24

1987年野音(日比谷公会堂・大音楽堂)に行われたブルーハーツのライブ。このライブの数日前に、この会場のライブで死人がでたことで、ライブへの警備が厳しくなり、通路等に鉄柵ができ、そとには機動隊が待機していた。

そんな厳戒態勢の中で会場に向かって、ヒロトはこういった。


「どうやら、どうやら、この鉄のオリは、人の心までは縛れんようじゃなぁ」


はじめてこの映像を見たとき、お腹のそこからなんかわいてくるみたいにずかんときた。それからずっと、壁にぶつかったり、迷ったり、悩んだり、誰かを好きになったりして、いろんな事あるごとに、この台詞を頭で何度も反芻する。

人の心を縛れるものなんてなんにもない。こんなあたりまえのことすらも、わかんなくなっちゃって、なんとか自分の中で大義名分をつくって乗り切ろうとすると、この台詞がぽかっと浮かんできて、つめたい水を浴びせられたような気持になる。

いままで自分にとっての善知識は誰なんだろうとか。どこかにいるんだろうかと思ってきたけど、最近わかった。

自分にとっての善知識が。

わかってみるとなんてことない、ここにも自分の生み出した、常識とかイメージとかそういうものに浸食された脳みそが、かってな虚像を生み出してただけで、とらわれてただけなんだな。

善知識というものは、善知識という言葉を離れたところにいるのかもしれない。

極度の寝不足におけるいい点と悪い点。

いい点は、ものすごく感受性が過敏になって、普段は通り過ぎてしまうような小さな出来事に、必要以上の感情移入ができることだ。そこから生まれてくるものは自分にとっては、すごい大切な一滴みたいなものだと思う。

悪い点は、感情移入が必要以上になるもんで、いろんなものの許容の幅が狭くなり、小さなことで、いらいらしたり、悲しくなったり、もういいやとかあきらめたくなること。


サイトに、ちょっときいてみようをつけてみて、またお寺でブログを書きはじめて、はじめてのお彼岸を迎えて、今回はたくさんの人に色々な疑問をぶつけられた。

宗教的な話から、そうでない話から、命の話まで。

疑問をぶつけてもらうことで、自分はなにかに向き合うきっかけをもらって、

疑問をぶつけてもらうことで、自分のお腹に落ちるものが一つ増える。

だから疑問をぶつけてもらえることはものすごくありがたいことだと思う。だからぶつけてほしいし、それには、まず自分が疑問をぶつけやすい人間にならなきゃいけないんだと思った。

もっともっと、きょとんと生きて、通りすがりに疑問をぶつけてもらえるような人になりたいと思った。簡単に声をかけやすいってそれだけで才能だと思う。

カレーを食べるときに、自分の脳みそは、ものすごい勢いで、独自のカレー公式を駆使して、ご飯とルーの比率を割り出して、一回にのせるスプーンの上でのカレーとルーのバランスをはじき出す。

ようは、最後にご飯だけ残るという最悪な状況を避けるために、すごい計算してカレーを食べるんですよ。

そんで最後にきれいになくなったときに、今日もカレーやったった。と思う。

だから。自分がカレーを食べてる時に、間違っても横から一口ちょうだいとか、勝手にルーを味見したりするのはやめてください。再計算ができればいいですが、どうしょうもないときがあるんですからね。

ちっちゃ!って思うでしょうが。カレー超すきなんだもんね。

そう思って今度カレーを食べてる人をみてみると、ほんと様々で、最後にきれにバランスよくご飯とルーがきれいになくなる人ってあんまいないとおもうんだけどなぁ。カレー公式難しいしね。

のらりくらり。

こないだオリエンタルランドの方を話をする機会があって、話をしていたら、ディズニーの4カ条というのがあるらしい。

これは社員研修で必ず全員が叩き込まれる決まりらしい。

それは、SCSEと呼ばれているものだそうだ。

SAFETY (安全). COURTESY (礼儀正しさ). SHOW (ショー). EFFICIENCY (効率)

この順序がそのまま仕事の中で優先される順序だそうだ。
つまりは、安全が第一で、効率は一番最後。

だから、熱い飲み物を子どもに渡す時には、効率よりも安全を最優先で、持ち場を離れて、席まで運んであげるというわけだ。

これきいて思った。

自分の仕事は結構当たり前に、効率なんて後回しだからよくわかる。効率化とか合理化しちゃうと、できないのが、育むということなんだよね。

育むというのは、来てくれる人と自分の中にあるものでもあるし、自分の中にもあるものでもあるし、来てくれる人の中にあるものでもある。

いろんなところで育まれなければならないものが、ちゃんと育まれてなければ、根っこなんてほとんどないもんで、簡単に風でも吹けば根こそぎもってかれちゃう。

育まれて、根っこのあるものは、多少の風や台風じゃびくともしないんだよ。クレームや不景気でもね。

もしかしたら・・・も~しかしたら。がんばったらカメハメ波でるんじゃないかと思ったのって何歳くらいだったけ。

今日は運動会のりはーさる。

うちの幼稚園で、来てくれた人に一番みてほしいのは、技の完成度でもなければ、速く走れることでも、一番になることでもない。

子どもの、真剣な顔とか、悔しがる姿とか、うれしそうに笑う顔とか、友達同士励ましあう姿だったりする。

そこで子どもがいろんなものをむき出しにして生きてるのを見てほしいんだよ。

そういう運動会にしたいんだよ。

どんなお寺にしたくて、どんな坊さんになりたいかって。

自分は、目の前にあるたくさんの死とか、悲しみとか、苦しみに向き合って、そこにいちいち感情移入して、そこからなにかを得まくって、その経験をそのまま、世界に還元できるような坊さんになりたくて、そんで、お茶でもすすりながら、のらりくらりと命の話ができて、仏教の話ができて、とりあえずお寺に聞いてみよかとか、とりあえずお寺さんに相談してみよかとか、そうやって生活の中にあるお寺をつくりたいのですよ。

あ~ねむっ。

なんで眠いって。

きっと昨日脳に酸素がいかないくらいにいろんな気持ちが揺さぶられたからだきっと。

| コメントを書く (0) | Trackback (0)
Title: びーおーらい。
2009.09.21


あてられる。という言葉が好きだ。

なんかわかんないけど、誰かの幸せそうな顔とか、馬鹿笑いしあう空気とか、あいからずちょっとうざいトークとか、あほみたいに歌いまくる校歌とか、なんかわからないけど泣いてるやつの涙とか。

そんなもんにあてられて、うれしいのとも、懐かしいのとも、楽しいのともちがって、なんかそこの居心地が、すごくよくてしっくりきて、そんでなんか、いろんなものが流れ込んでくるような感じ。

おまえって秀明すきだよねと。いわれて思うんだけど。

嫌いじゃないよ。でも。ものすごい好きかと言われれば好きでもないとおもうけどな。学校がすきなんじゃない。ただそこで過ごした時間はなににも代えがたいと思ってて、そこで一緒にすごした友達はなににも代えがたいと思ってる。

そんで一生懸命に盛り上げようとテキーラをのみまくったあげくに、その日一番の感動のシーンで眠りこけているような、そんなあほみたいな人がいてほんとによかったと思う。

帰ってきて声が枯れている自分にちょっとあほだな、でもあほでよかったなと思った。

しかしいまになってあらぬ疑惑をかけられたのには、若干うざいけど、でもそういうもん全部ひっくるめて、いいんだ。きっと。

| コメントを書く (0) | Trackback (0)
Title: ぐりーんかーど。
2009.09.19

人の年齢をあてるのが得意な、真壁ケンジがこう言った。

知りたいことのおおよそ半分は、ネットや本で調べれば分かることだ。

どこにも載ってない「もう半分」を知るためには・・・

自分で考え出すか。

経験するしかない。

たとえば。

白いジグソーパズルを完成させたときの気持ち。

こんなのはどこにも載っていないだろう。

誰かに聞いたとしてもそれは知ったことにならない。

それが知りたくなったら自分でやるしかないよ。

宇宙へ行きたい理由も同じだ。

だって。

同じじゃんか。

そういうことが言いたかったんだよ。

さすかだな。真壁。


| コメントを書く (0) | Trackback (0)
Title: a60
2009.09.19

どうして最近楽なのかかんがえてみて。

ひとことでいうと。

当たり前なんだけど。

感覚は変換できない。言葉でも文字でも。

あたりまえじゃないそんなこととおもうんだけど。

でもそんなあたりまえの意味がしっかりお腹に落ちたら、ものすごい楽になった。

変換できないんだよ感覚は!変換できないものがたくさんあるんだよ自分の中には。

だから変換できないものは変換しなくていい。でも同じものが湧いた同志は、変換しなくても対峙たらそれでわかるんだろうね。

そうおもったら、感覚の一つ一つを大事に味わおうと思えて、それが楽しくて、色鮮やかなきがする。

なにかに変換できないんだ。人間はなにもかも。自分の中にあるものは。

そういうものをみんなが抱えているわけだ。

| コメントを書く (0) | Trackback (0)
Title: rooster
2009.09.19

宗教や信仰を深めていくということは、感覚の世界だ。

いうなれば感覚の共有なのかもしれない。

夕焼けを見たときの感動を人に伝えるときに、自分にできるのは、夕焼けのところまで足を運んでもらうことしかできない。

その道筋を説くのが仏法なんだと思う。

それぞれの宗派がそれぞれの方法で、同じ感覚を目指しているようなものなんじゃないかと思う。

悟りも感覚の問題なんだろう。

夕焼けを見たとき。誰かを好きになった時、なんでもいいけど、自分の中に湧いてきた様々な感覚の中の1つとして、悟った時の感覚というのがあるんだと思う。

夕焼けを見たときの感動を伝えようと、赤だとか、すごい色だとか、どんなに説明しても、それは理屈で、なんとかそこでわかった気になっているか、わかった気になろうとしているのがほとんどなんだろう。

いままで悟りなんてものは自己申告じゃん。と思ってたし、そんなの意味あるのかい。なんておもってたけど、違うわ。

その感覚がどんなものかわからないけど、そういう人がいて、対峙したとしたら、きっと自分のところと同じところにいないのはわかるし、その人の行動や言葉にすべて、自分にない感覚を味わえるんだと思う。

それが言葉が通じようと通じなくとも。

例えば、めちゃくちゃきれいな夕焼けで感動した自分と、おんなじくらいきれいな夕焼けをみて感動した誰かとは、たとえば多くを語らなくてもわかりあえるし、

きっとこの色なの?と夕焼けを見たことない人に、赤い絵の具を渡されたときに、いやいやいや!と笑いあえるんだろうと思う。

それがつうじあうということなんだろう。

いま自分の中にある感覚が信仰の中でどのへんなのかとか、わかんないけど。

いま自分の中にある、気持ちや感覚に近いものを味わったことがある人となら、目でも言葉でも、きっとこの感覚で、マンガの話をしても、宗教の話をしても、車の話をしても、ゴルフの話をしても、わかりあえるんだと思う。

きっとその人と、真っ白なキャンバスを前にいっしょに大笑いできるかもしれない。

雨の日にずぶぬれになっても大笑いできる気がするし。

これがここにあるとしたら、これはここだよね。そしたらこれはこのへんじゃない?なんて、茶碗や湯飲みや箸を机の上に並べて大笑いできるのかもしれない。

感覚をわかりあうということは、なにを話しても端々にその感覚はにじみ出るし、そこに通じた同志ではわかるものというのがあるんだと思う。

これはなんでもそうだけどね。

ラグビーやったことやったことある人たちでわかりあえる感覚を、やったことない人にはわからないし、でもやった者同士では、ツーカーでわかるようなもんだ。

感覚を共有したものどうしでわかるツーカーの感じ。

ここ数カ月で自分の中でつながった、点と点はけっこう強固で、いっこうにほどけそうもない。むしろこれであっていてくれともおもうし、あっていてもあっていなくてもいいともおもうし、あってないほうがいいかもとも思う。

味わったことないこういう感覚が、もっとたくさんあるのかと思うとたまらんと思う。三昧の境地とかどんな気持ちなんだろうか。味わってみたい。

いままで自分にとっての善知識はなんなんだろうかと考え込んだことがあるけど、おぼろげにいま思うのは、自分にとっての善知識は、この環境すべてなのかもしれない。

| コメントを書く (0) | Trackback (0)
Title: がむて。
2009.09.18


池で、トンボの観察をしていたら、突然の赤トンボが大群でやってきて、それに追い回された。もう空が真っ赤になるくらいの赤とんぼ。やばいとおもって走って逃げていると、横から一休さんが出てきて、赤とんぼは目を合わせると追ってくる習性があるんだよ!はやくにげなさいといって、助けてくれた。

そこで目が覚めた。

そんで朝一番に赤とんぼにそんな習性があるのかググってみた。そんな習性は一切ないみたいだ。

だいぶきとるな。

寝る前に読んでたのが狂雲集の解説書だし、幼稚園の庭に赤とんぼがきていて、感動したばっかだもんね。しかもいまはお彼岸やその他もろもろ、こころにたくさんの宿題を抱えているときだもんね。

そりゃトンボに追われて、一休さんに助けられますわ。

自分ってばほんと素直・・・うふ。

そんで朝、庭に言ったら、赤とんぼが一匹飛んでいて、おもわず目をそらした。あの赤は最高に渋いし、かっこいいのに、目を合わせるのは危険だという刷り込みが自分の中で完全にできあがったみたいだ。

トンボこええわ。


| コメントを書く (0) | Trackback (0)
Title: これがじぶんのすすむみち。
2009.09.17

自分が成長したなと感じるのは、人と関わる中で苦しんだときで、その中で喜んだときで、感動したときで、悔しかったときで、悶々としたときで。そういう体験が少しずつ自分を押し上げてくれてるような気がする。心がざわつくというのはありがたい。

毎回この時期に子どもたちが運動会の練習をしているのをみると、いろんな想いがこみあげてくる。最近思うのは、その子が、赤ちゃんだった頃とか、お腹にいるころから知っている子どもたちが、泥だらけになって真剣な顔で、走ったり、悔しがったりしているのをみると、ほんとうに人間というのはすごいなとおもうし、不思議だとも思う。

それに、何年もここにいて、何人も兄弟とかずっとみてると、ほっんとにここ一番の、へたれ具合とか、悔しがり方とか、感情があらわになる瞬間にでてくるものって、ほっんとに兄弟って似てると思う、同じものが流れているんだなということを思う。

世の中には理屈じゃ説明できない何かがたくさんある。あたりまえ、というものほど目を凝らせば感動するものないなと思う。この瞬間に感動できない事象なんてないんだろうと思う。

いいなあ人。

と書いてみたら。

思いだした。

まえに人はいいなあ。といったら、とある人から、あなたは誰かに裏切られたことがないだろうし、恵まれているからそういうことがいえるんですよ。でもそうじゃない人もいることを覚えていてください。と言われたことがある。

まさにピシャッと。

その時は、はい覚えておきます。といったもんだ。

最近思うんだ。

そういうことはたくさある。

命の話をしてもそうだし、人の話をしてもそうだし、例えば慈悲の話をしてもそうだ。

日々の生活に追われてて、人にも裏切られて、命がありがたいとか言われてもぜんぜんピンとこないし、そんなことよりも自分は自分が食べていくのが精いっぱいだし、あんたみたいにのうのうと生きてないんですよ。

お寺で話をきいて、わかってるんだけど、なかなか目を向ける時間なんてないんですよ。っていうことはよく言われる。

本当にその通りで、明日食べてくのが必死であったり、子育てしてたら、、生きていくことが精いっぱいで、そんなことを考えている余裕なんて普通はないだろうし、むしろ宗教や信仰がなにをしてくれるんだい。

よっぽどお金でも配ってくれた方がありがたいわい。

といわれればそうかもしれない。

たしかに自分はのうのうといきてるし、ヘラヘラいきてるし、恵まれてるし、生活に追われてはいない。だから、その人たちの気持ちを心からわかることはできない。わかりますよ。なんていえないよ。そうじゃないもん。

でも自分がそれでもなんで命の話をしようと思って、慈悲の話をしようと思って、それでもやめないぜ。と思えるのは、

自分はまだ若いのかもしれないけど、きっとお寺に生まれて、おじいちゃんやおばあちゃんみたいな人がたくさん死んでいったり、時に若い人の死にも立ち会ったり、そうやって人が死んでいくのを見てたり、年老いて、病気になったり、ボケたりするのもみてきて、それを小さいころから、目をそむけたくてもできない環境に自分なりの方法で適応しようとしてきたからなんだと思う。

そういう環境にいることがいやでしょうがない時もあったけど、今になって思うのは、これがお坊さんってことなんだなと思うし、お寺に生まれるということなんだと思う。

それに残された人たちを見てくる中で、大好きな人の死を乗り越えることがどういうことかをまざまざとみてきて、正直、自分がそういう話をしたり、仏教にここまで感情移入できるのは、なによりも自分が死ぬのが怖いからで、老いたくないし、病気にもなりたくないし、それが怖くて、大切な人の死を乗り越えることができるか不安なんだな。だからそれをなんとか払しょくしたくてなんだと思う。

そんでこの、老いること、病に伏すこと、死ぬこと、は決して自分だけがぶつかっているわけじゃなくて、生きてる人みんながぶつかってる問題だから、生活に追われてても、だれかに裏切られて打ちのめされてても、そんなことお構いなしに、やってくるもんだ。

いくつだろうとこれをいま読んでる人全員。それにぶつかって、「はいこんにちは」ってなってどうしょうもなくなったときに、

そういうときのために仏教っていうのがあるんだよ。

それをどうやったら受け止めていけるか考えて、考え抜いたお釈迦さんって人がいるんだよ。

でも正直自分はそれ試せないし、たぶんそのまんま受け入れるのは無理だわ、だから

自分はね親鸞さんのこの言葉があってよかったと思うんだよね。

それに唯円っていう人がいてね。極楽とかよくわかんないっていってんだよ。

他にもたくさん、何百年も何千年も前からね、そういう問題に向き合ってた人がいてね、それをお経っていうものにまとめたんだよ。

いきなりこれ渡してもこまるだろうから、自分なりの解釈を話すね、これはかくかくしかじかでね。

って

話すのが法話なんであって。

それがお坊さんの仕事。

そんでこれが自分のすすもうとしてる道なんだろうな。

お坊さんは社会的に有益でなければいけない。と最近よくいわれるけどね。

これ1本で有益だと認められなきゃ意味ないと思う。

| コメントを書く (0) | Trackback (0)
Title: コンセント。
2009.09.16


こないだ飛鳥山公園を散歩していたら、ジャングルジムがあったので、人目を忍んで、おっさんひとり一番上まで登ってみた。

そしたら、普通に怖かった。落ちたら折れるなとか思った。

小学生のころはこの中で信じられないスピードで鬼ごっことかしてたのに、立ってるだけでドキドキしちゃうなんて。

そんな経験を引きずりつつ、今日幼稚園で、子どもが、ものすごいでかいクワガタを持っていて、それをおもむろに首筋にのせられた。

そしたら普通に怖かった。挟まれたら痛そうとか思った。でもそんなのばれたらかっこ悪いから涼しい顔でしてたけどね。

なんかそんな自分にむしょうに悲しくなった。

すいませんネバーランドはどこですか?と帰りに交番で聞いてみようか。そしたら洒落のきいたお巡りさんがこういうんだ。東京砂漠からきたのかい?ネバーランドならここにあるよといって、自分の胸を指さすんだ。

そんなハートフルなやりとりができる人がたくさんいたら、世界はもっと楽しくなるのに。

さぁあほなこといってないでしごとしごと。

今日はいい空だ。

| コメントを書く (0) | Trackback (0)
Title: 死にかけてますがなにか。
2009.09.15

もしいま突然。

「おいそこの死にかけたおじさん」

と言われたら。むかっとすると思う。

でもそれは全部事実なわけだ。生きている以上、死にかけていない人なんていないし、自分はもうお兄さんでもない。

でもそれにむかっとするということは、

自分は死にかけてないし、おじさんでもないと思いこんでいるからなんだ。

この思い込みを、仏陀は妄想と呼んで、そこでむかっとする気持ちを苦しみと呼んだ。そんで、その苦しみを解消するために、物事を正しく受け止めて、事実を正しく見なさいと言った。その物事を正しく見ることを智慧というと言った。

むかっ。とか、イラっとか。

よく目を凝らしたらけっこう言われんでもないなと思うことは多々ある。

今に目を凝らしてみると、けっこういろんなもんが落ちてるもんで、自分の疑問に思っているすべての答えは目の前にあると思う。

阿弥陀経の中には、「今現在説法」という言葉がある。

今この瞬間にも説法は満たされているという意味で了解してもいいじゃないかと思う。

「摂取不捨」というのも同じで、捨てるもんなんてなにもないと了解してもいいんじゃないかと思う。

ああ自分ってばつくづく浄土系。うふ。

| コメントを書く (0) | Trackback (0)
Title: きいてみようぼたん。
2009.09.15

天高く馬肥ゆる秋、馬でもないのに肥ゆりはじめている今日この頃。お米がね、美味しいんですよ最近。

いやぁ「ちょっとばたばたしてて・・・」という時にバタバタしてるのは大概状況のことではなくて、自分の心のことなんだね。30を手前にそんな当たり前のことに気づかされました。

実はみていただけるとわかりますが、サイトの左側に「ちょっと聞いてみようボタン」というのを思いつきでつけてみました。

たまにブログを読んでいただいた人からメールをもらうことがあるけど、やっぱり自分でメールソフトを立ち上げて、書くという手間は、なにかを書こうと心に決めている人には大したことないかもしれないけど、

大したことじゃないけど、なんとなく聞きたいわ。みたいな人とっては、そういう手間をかけてまでは聞かないわけで。でもそういう疑問こそが本当は大切なことだったりするわけで。

聞法の精神にのっとって、つながりを大事にしようということで、それを設置したわけです。

人は誰かに答えを出すことで、同時に自分に答えをだしていくわけで、なにか質問をぶつけてくれるということは、考えるきっかけをいただけるありがたいことです。

しかも設置して早速に心温まるメールが届いて、やっぱりシンプルな質問こそ大切なんだと実感しました。

おきがるにご利用ください。

あ。のみの予定とかでも大歓迎ですけど。


| コメントを書く (2) | Trackback (0)
Title: 狂雲
2009.09.12


昨日は911、あのテロから8年だって、早いな。あれから8年もたったんだ、この8年は自分にとっては大きな8年だった。

あのテロの時に感じたのは、1人の人間がたくさんの命を奪って、たくさんの人間が1人の命を救う。あの事件を取り巻く背景の中で、一番醜いのも人間であり、一番尊いのも人間だと思った。人間はその両面を常に持ち合わせている。むしろその両面を持ち合わせているものを人間というんだと思う。その事実は他人事じゃないと思う。

911のニュースの陰に隠れてなのかどうなのか、そんな9月11日の夜中、種子島宇宙センターからは、国際宇宙ステーションISSに物資を運ぶ無人補給機HTVの初号機が打ち上げられて、予定軌道への投入に成功した。ISSへの物資輸送は米露欧に次いで4番目だそうだ。

日本の宇宙技術もここまできたんだと思ってわくわくした。そのうち民間の宇宙船が宇宙に行く日もくるんだろうな。そのニュースをみて、宇宙兄弟をもう一回頭から読み直して、テンションだだあがり。

人間の想像できることは、実現できることだけだという言葉があるけど、もしかしたら自分の子ども達の世代になったら、新婚旅行は月へ、なんてこともあるのかな。

最近一休さんの「狂雲集」を読んでみて、一休さんエロすぎだわ。官能小説みたいなくだりもあるし。水仙の薫って・・・でもやっぱこのお坊さんはすごいわ。まさに「十牛図」の最後、入鄽垂手の境地なんだろう・・・

型破りとは、型ができてから初めてできることだ。型がないのにそれを破ろうとしたら、それはただの型なしだと、いう言葉があるが、一休さんはまさにそんな感じがする。

| コメントを書く (2) | Trackback (0)
Title: 毛虫
2009.09.09

死んだらおじいちゃんに会えますか。死んだらどうなるんですか。自殺したら救われないんですか、生きる意味ってなんですか、信仰ってなんですか、お寺なんて必要ですか。お坊さんってなにしてんのとか。

最近いろんなところで、真っ向からたじろぐような質問をぶつけられたり、もう耳をふさぎたいと思ったり、自分の力のなさに落ち込んだり、無力感を感じたり、本当にこんなことに意味があるんだろうかと思ったりすることがある。

でも最近あれこれと、人の意見や、質問に答えているときに、自分でもびっくりするくらい、自分はそんなことを思っていたのかと、口をでた言葉に後から意識が付いてくるような感覚を味わうことがある。

それがなんででてきたかはわからないけど、きっとなにか無意識下でも、自分の中にあるベースみたいなものがそれを発露させたんだろうと思うと、自分がここ数年やってきたことが無駄じゃなかったと思えたりもする。

誰かの質問に答えをだしているようで、誰かの質問で答えをだしているのは自分自身なのかもしれない。

何かになろうとおもってなるのではなくて、その積み重ねがあってきっと自分はなにかになっていくのかもしれないと思った。

なんか数か月の自分の書いたものを読んで、お彼岸に向けて、気持ちをもっていこうとしてるのはいいけど、かたいし、根暗っぽいし、こまったもんだと思う。

| コメントを書く (0) | Trackback (0)
Title: 残ったものはくたびれた約束。
2009.09.07

宿題を抱えたまま夏休みの終わりが近づいてくるような、えもいえぬ焦燥感と倦怠感にもやもやしながら、時間はたくさんあるのに、時間がないなんて言い訳をする。

きっと頭の中のCPUがカリカリと音を立てていて、がんばってるのに、デスクトップの動きが鈍くなってきてフリーズしそうなのに、それだけは避けるためになんとか、無駄なものを断ち切ろうとして、デバイスマネージャーを開いて、よけいなアプリケーションを吟味して、強制停止させようとするんだけど、そのアプリケーションが思いのほか自分の大事な部分を支えるプログラムだったりとかして、停止して初めてその互換性の重要さに気づいたりする。

そんであわててそのプログラムを動かし始めて、また仮想メモリは足りなくなる。まだまだ自分のバージョンはきれいさっぱり無駄なものを、抜き出して、さっぱり削除できるほどになっていないようだ。

ビスタもびっくり。

メモリーのデフラグはどうやってやるだったっけ、どこかのサポートセンターで教えてくれるんだろうかなんて愚痴ってみる。

しかし健全な精神は健全な肉体に宿るなんていうけど、運動不足と寝不足ほど、メモリの動きを鈍らせるものはないと実感。

昨日は、汗まみれ、泥まみれ、焼き肉のタレまみれになって、のらしごとして、BBQをして、帰って、今年一番気持ちのいいお風呂に入って、缶ビールを一本飲んで、泥のように眠った。

そんで朝起きたら、寝ている間にデフラグされたみたいに、だいぶ容量に空きが出たみたいで、さて作業を再開しようという気にもなった。

さて夏の終わりをしっかりと受け止めて、頭を切り替えていこう。日が落ちるのが早くなることと、肌寒い夜風にも、のらりくらりと対応しなきゃ。

しかし普段使わない筋肉をフルにつかって、体の普段は意識すらしないところが筋肉痛になると、ああ人間の体にはいろんな筋肉があるんだなとかおもう。でも筋肉だけじゃなくて、普段使わない心を使うと、そこが数日はじわっとほとぼりさめなくて、普段使わない心がいろいろあるもんだとおもう。


| コメントを書く (0) | Trackback (0)
Title: rubo
2009.09.05


うまく話せるようになってきたなと思えば、自分なんかよりも、うまく話す人がたくさんいて、なんかいろんなことがわかってきたと思えば、そんなの爪の垢みたいなもんだったなと思い知らされる。

話すことももっとスキルアップして、教学だってもっと勉強もしなきゃいけないし、自分はまだまだしらないことばっかで、できないことばっかりなのに、いまあるもので満足して、付け焼刃でなんとかこなしていこうとして、もっともらしい自分が顔を出すたびに悲しくも、悔しくもなるし、そんな自分に目をそむけたくなる。

特に、同世代で、自分のできないことや、自分なんかよりもすごいやつを目の当たりにすると、悔しいし負けたくないと思う。勝ち負けじゃないけど、せめて自分の中で肩を並べたと思えるようになろうと思う。

いままで枠の中で考えてきたものを、枠の外からみてみることで気づくことはたくさんある。でもそこには痛みも伴うんだということをまざまざと学んだ気がする。その痛みがいやだから、きっとある時から成長のスピードは緩やかに下降してしまうんだ。

プライドや、自我とか、いろんなものが成長を妨げる。自己保身がだめな大義名分を生み出そうとする。くそったれ。そんなもんポイだ。

いまできるのは、足を動かすのだけはやめないことで、
いまできることを1つづつ片付けるのみ。

きっといつか花も咲くさ。

アインシュタインがなんていおうと、時間は誰にでも平等に流れるはずだ。


| コメントを書く (2) | Trackback (0)
Title: 生きる意味
2009.09.04


男ってのは、ほんとどうしょうもないなと思う。

いくつになっても、いろんなものに現抜かしてて。そんでいくつになっても、頭のどっかでヒーローになりたくて、そういうものにあこがれてて、夢とか希望とか、飯の種にもならないようなものに、ほくほくしながら目をキラキラさせたりする。そのくせ夢と現実の間みたいなところをウロウロしてるくせに、その両方の側に立ってもっともらしい顔をする。そんでここ一番では、自分でもおどろくくらいにたじろいだりする。そんなんでも自分は男でよかったと思うから、これからもおしりでもポリポリ掻きながら、ヘラヘラしながら生きていこうと思う。

こないだある人に、生きる意味とはなんなんでしょうと問われた。ほんとこういうシンプルな疑問こそ、ストレートで気持ちよくも、まっすぐすぎてどきっとするし、目をそむけたくもなる。

それをここのところずっと、頭の中で反芻しながら、こねくり回してみて、自分なりに思ったことは。

生きる意味ということは。

こうやって文章を書くことでもあるし、

朝起きることでもあるし、

味噌汁のむことでもあるし、

おはようっていうことでもあるし、おやすみっていうことでもある。

誰かの顔見て安心することでもあるし、誰かの顔見ていらっとすることでもあるし、

浮かれることでもあるし、落ち込むことでもあるし。

歩くことでもあるし、マンガ読むことでもあるし、残業することでもあるし、ずる休みすることでもある。

パンを買うことでもあるし、うんこすることでもある。

もっといえば、

花が咲くことでもあるし、雨が降ることでも晴れることでもあるし、蝉が鳴くことでもあるんじゃないかと思う。

なんか、今の自分にはこれ以外に表現できる方法はないと思えるくらい、しっくりとそう思った。

なんだろうか、きっと意味というならば、マクロなレベルで、いまこの瞬間に自分の目の前にあるものとか、取り巻くものとか、その時感じる全てが生きてく意味だと思うし、その一個一個、ころころと変わる心や、感情や、気持ちをじっくり味わうことなんじゃないかと思う。正確にいえばそれを、味わえる自分がいる、ということがもうすでに意味があるようなきがする。

まぁいいや。

あさからこんなことばっか考えてると根暗な人みたいだから、たこ焼きでもたべにいこう。まぁそもそも根暗なんだけど。

| コメントを書く (0) | Trackback (0)
Title: うぃき
2009.09.01

昨日のチリチリとした暑さ。

フェーン現象というそうな。

漢字にすると「風炎」と当て字するそうな。これ岡田武松さんという気象学者が当て字したそうな。この当て字すごい感性と感覚。その発想うらやますぃ。

そのお方、日本海海戦で連合艦隊から「天気晴朗ナルモ浪高カルベシ」と大本営に打電したそうな。

wikiに書いてありました。

みだらな行為とわいせつな行為の違いは何さということで、これまた調べてみました。
へぇへぇへぇ。3へぇ。ちゃんと使い分けられてるんですね。気になる方はぐぐってみてどうぞ。

しかもまたこれ芋づる式に疑問がぽん。なので調べましたさ。

「体を強く打って死亡」「頭や胸を強く打って死亡」この表現。

強く打って死亡というのは、原形をとどめないほど遺体が損傷している場合に使うそうです。

いうなれば頭を強く打って死亡というのは、頭が原形をとどめないほど損傷して死亡ということだそうです、しかしそれちょっとグロくない?ってことでこの表現になったそうな。

それを知ってニュースをみるのとみないのじゃおおちがい。遺体が原形をとどめないほど損傷する死に方の多いこと・・・

なんであんたそんなこと調べてんのさ。暇人が。と言わないでください。これが息抜きなんです。自分なりの。


| コメントを書く (0) | Trackback (0)

  • 自己紹介:1980年1月9日生まれ。どこからを趣味と呼んでいいのかは模索中。好奇心は旺盛。