• PHOTO最終更新日2010年10月11日



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Title: 別々のリズム。
2009.12.30

東京はこの時期になると、この時期にしか味わえない空気で満たされる。

最後の最後の飲みおさめに、神楽坂でほろよいになって、年の瀬の街を歩いて家まで帰る。ほんと上澄みみたいな澄んだ空気に満たされた深夜の匂いが最高に気持ちいい。

今年もいろんなことあったなと、いろんなことを思い返して、いろんな出来事を思い出しながら歩いてたら、ああやっぱ今年も、いい1年だったなと思う。今年もホントに人に恵まれたなと思う。

楽しく一緒にお酒を飲んでくれてありがとう。

*

来年は、足元をしっかりと確認しながら、少し勉強をし直そうと思う。もう一度、1から基礎をやり直そうと思う。今年はほんといろんなところで、実験的な1年だったけど、ものすごく手ごたえのあった1年で、そこから得たものは間違いなく使えるデータばっかりだったと思う。

そんで、今、なんだかんだ、まるっと一周して、同じ場所に帰ってきたのに、同じ所とは思えないようなところに立っているような感じがする。覚悟を決めた瞬間に世界が色鮮やかに見えたあの瞬間の感覚にほんのすこし、ほんのすこしだけ近づけたかもしれない

*

それと、今年思った自分がすごいなと思う人は。

ぶれない人じゃなくて、ぶれてる自分をにやにやしながら眺められる人で、ぶれてる自分を笑い飛ばしながらも我が道を進んでいく人で、右往左往しながらも、目的地の変わらない人です。

そんで人生を楽しんでる人で、時にものすごい感情的で、子どもじみているのに、ときに冷酷な判断をできる人です。

そんな要素を持ってる人が、手の届くところにたくさんいることに気づかされて、自分もそうありたいと思った。

*

そんで、来年のテーマは、「リスク」と「一息」

成長にリスクは必要であることはよくわかったし、あとは、リスクを負わないものはなにも変えられないこともよくわかった。

いろんな意味で、ほんとうにいろんな意味で、リスクを恐れないでいこうと思う。年々、リスクを避けたがるけど、リスクを避けはじめたとたんに、成長のスピードはぐっと落ちるんだろうと思う。

感情のままにリスクをおかすことがあるかもしれないので、ごく身近な皆様にはご迷惑をおかけするかもしれませんが、温かい目でフォローをしてください。お願いします。

そんで生きてるってことは、この一息一息しかないわけで。

寝ても覚めても、この一息の繰り返しが、自分をつくるすべての要素で、一息の瞬間、自分の周りは、ものすごくたくさんのものに満たされていて、一息に意識をすればするほど、この瞬間はまぶしいくらいにいろんな感覚に満たされていることに気づけるんだと思う。

前でも後ろでもなくて、この一息にしっかり意識をしながら、生きていけたらいいなと思う。

*

1月の日記を読み返しながら、1年を振り返ってみると、今年の目標は間違いなく達成されたと思う。

きっかけなんて言うのは言いかえればタイミングで、カップになみなみ注がれた水が最後の一滴であふれだすようなもんなんだろうと思う。

まぁなんだかんだいってみたものの。

なんか、きれいに体裁をつくろうのは、もういつでもできる自分であることはわかったし、来年は、もう十分でしょう・・・といわれそうだけど、もっともっとわがままにいきていこうと思うわけです。

駄々とかこねながら、いろんなものを垂れ流しながら。

みなさま。ともだちんこ。

ではよいお年を。

今夜ビッグダディやるそうです。ちょうたのしみ。

アメ横で肴もばっちり買ってきたし今夜はのんびりほっこりと。

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Title: 一息
2009.12.28


この時期に通夜葬儀が続くと、本当に死は待ってくれないんだなと、当たり前のようだけど、しみじみとそう感じる。

クリスマスでも年末でも年始でも。

人が勝手に区切った区切りなんてそんなに意味はなくて、生まれる人は生まれてきて、死んでいく人は死んでいく。

淡々と。

こうかくと誤解が生じるかもしれないけど、生きてる時はただ生きて、死ぬべき時にはただ死ねばいいんだろうと、最近なんとなくそう思う。

一息一息。

来年は原始仏教の勉強をもう一回ちゃんとしたい。ダンマパダの勉強会しましょう。


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Title: かりあなみとら。
2009.12.27

1年を過ごしてきて、いろんなものがわかった気になって、なんとか自分の中に意識をとどめておけるような気になって、すこしは前に進んだかと思っていたけど。

やっぱ凡夫だな。救いがたきわが身だなと思い知らされる。

思い知らしてくれてありがとう、カリアナミトラ。

年の瀬に、なんか1年で掴んだと思いこんでいたものが、こつんとたたかれて、ガラガラと崩れるような出来事がたくさんあって、そんなこんなで、今日法事をしながら阿弥陀さんをみてたら、ああ、こりゃやっぱり自力には限界あるぜとかしみじみ思って、結局どうにもならない自分の気持ちや心をまざまざとみせつけられて、むしろ嬉しはずかし、すがすがしいような気持ちがした。

まさに、念仏申したるこころのおこるときとはこういうときか・・・と妙な納得をする。

そうおもうと、すべての出会いも、出来事も、言葉も行動も、すべては善知識なんだなやっぱ。

1歩進んで2歩下がる。いったりきたり。

ビバカリアナミトラ。

ナモアミターバ

ナモアミタユース

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Title: たわわに。
2009.12.24


さくっと家の近所にイルミネーションをみにいく。完全に街が浮足立ってる感じが満載で、クリスマスだぜ~!みたいな感じがぷんぷんしてた。自分はひねくれものなので、キリスト教徒でもないのに。仏教徒だろがい。とか思ってたんだけど、なんか最近のりしろの部分が広くなったみたいで、イルミネーションもきれいだし、キリストでも何でも、みんなが楽しいのはいいじゃん。とか思えるようになったみたい。そんで、それがいいのかわるいのか、わかんないけど、それすらもまいっか。で。

まいっか。

EAST END×YURIもいってたし。

そんで帰ってきて、なにげなく少し前に買ったままになって、積んであった、イバラード博物誌を読み始めたら。

完全にツボだ。

この中に描かれた世界にいきたい。住んでもいい。

複葉機に乗って、町はずれの花火やで花火を買って、ヤシマのテラスで休憩なんていいじゃんか。とか完全に妄想の世界に浸りこむ。

いいなあ。

こんな絵が描ける人の才能が羨ましい。やっぱ絵が描けるというのは素晴らしい。

傷ついたり、誤解されたり、嫌なことをいわれるのが嫌だから、自分からその幅をせばめて、安全地帯でのほほんとしてるのは嫌だ。もうそんなおもいしたくないし、疲れるから、なみかぜ立てずに、オブラートにつつまれた仲間とだけいればいいじゃん。とか嫌だ。

どんとこいだ。

自分の世界を広げられるものならなににでも関わってやる。

そういう想いをするたびに、自分の経験値がつまれるんだい。傷つくリスクと引換えにしても、そこから得るものは大きいと信じてる。

リスクは成長の可能性をたわわに含んだ種みたいなもんだと、思いこむことにしよう。

しかし「仏教要語の基礎知識」難しいなぁ。これ読んだら、いかに自分がいままで勉強をさぼってたかが浮き彫りになる・・・

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Title: めりくり。
2009.12.24


さんざん笑って帰ってきて、布団に入って、目を閉じたら、笑うことは、本当に身体のバランスを整えるのにいいんだなぁと思った。

今年1年でまた少し、自分の中にあるものを静観するのがうまくなったなぁと思う。身体の調子とか、身体の状況というか、なんていうか、現状というか、そういうものをいままで以上に、よくわかるようになったということ。技術的な部分でそういうことがうまくなったなぁと思う。

それだけで、いろんなことが、こんがらがったりしなくなったし。対処法にも、対策にも迷いが少なくなった気がする。

タイでの経験は地味だけどいろんなところで役に立ってる気がする。帰ってきて、その習慣を続けられる限り続けてるけど、でもそれにも限界があって、それを感じるに、本当にこの社会というものは、意識を置かなきゃどこまででも落ち込んでいけるなぁとも思う。

とにかく、まず現状をしっかりつかまないことには、対策もたてようがない。逆を返せば、そこをしっかり押さえてない限り有効な対策は立てられないんだろうと思う。それなのに、現状を捕まえ続けることがどんなに難しいか。

今年得たものを、いま、生活の中で、すべて生かし切れているかというとそうじゃないけど、これから先に、それを実践的に試していって、来年の1年を過ごしたら、間違いなく、そうとうレベルアップするんじゃないかと思う。

むふふ。

なんのこっちゃわけのわかんないような文章だけど。

でもこの1年に得たものは、でかいぜ。

むふふ。

なんか最近ますます、浄土の道からかけ離れていくような気がするなぁ。禅むきなのかもなぁ自分ってば。って思うけど、でもそういうものもぜんぶひっくるめて浄土系なんだよね、とか思います。こんなことで、なにかを得たと思って、それを実践していくことで、なにかすこしでも楽になろうとしてる自分もきっとこれでもかというくらい本願の中なんだろう・・・なむなむ。

あ。

今日クリスマスなんだった。

クリスマスイブだっていうのに、こんな時間にパソコンの前で、こんなこと書いてるなんて・・・イルミネーションとかみにいかなきゃ!

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Title: ぼうねん。
2009.12.23


言葉も、行動も、文字も、断片だけで捉えられる事実なんて1つもなくて、全部はばらばらだけど、全部つながってるし、それを区切りにして理解しようとするから人は混乱する。

バク転する時に、腕の動きだけ、首の動きだけ、足の動きだけ、意識してたら回れないみたいに。

ブルースリーもいってたさ。

dont think feel

自分の中にある弱い部分を、知りながらも、なんとかしようとしてる部分に強さを感じるわけで、強さと弱さは、どちらかじゃなく共存するもの。

あなかしこ、あなかしこ。

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Title: よいおとしを。
2009.12.21


鼻からつめたい空気を一杯に吸い込んで、身体の隅々まで、その冷たい空気が流れ込んでくると、身体が内側からぽかぽかあったかくなるような感じがする。きっと内臓が冷やされてたまるかいと思ってがんばるからなのかもしれない。

よいおとしを。

そういう挨拶をしてはじめて、別れるときに次いつ会うんだろうということを考えてる自分に気づく。

よいおとしを。

いい挨拶だなと思った。

今年はあと何人によいおとしをっていうんだろうか。


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Title: 勝利も敗北もないまま。
2009.12.19


ほろ酔いの帰り道。終電間際の電車の隣に座った人が、CKoneのような香水をつけていて、ああ懐かしいなこの匂いとか思ったら、ちょうどIPODからCROSSROADが流れてきた。

そしたら時間軸がいっきにおかしなことになって、高校を卒業する前の最後の冬に、ものすごく雪が降って、それを寮の部屋からみていたのを思い出した。

パンドラとかいう1時間80円のカラオケに座り込んで歌いまくってたのとか、意味もなく表参道をあるいたこととか、昔池袋の地下街にあったスナックランドで立ち食い寿司をたべたのとか。そんなどうしょうもない思い出が、色鮮やかによみがえってきて、あの頃はほっんと楽しかったなぁと思った。

正直言うと、卒業するのはすごく嬉しかったのに、同じくらい、卒業するのがさみしかったりもしたわけで。

あの頃の、肩書がどうとか、仕事がどうとか、景気がどうとか、稼いでるとか稼いでないとか、結婚してるとかしてないとか、子どもがどうとか。そんなもんなんにも関係なくて、フラットな関係の中でぶつかったり、はげましあったり、泣いたり笑ったり。

そんな時間がたまにものすごく恋しくなったりもするわけで。

IPODから流れる曲が、Tomorrow never knowsになった頃にはなんかいろんなものがこみあげてきて、1人ぐっときたりするわけです。

年の瀬はどうしても過去を思い出す癖がついてるみたいだ。

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Title: 淵黙雷声
2009.12.18

この時期になると自然と、今年1年を振り返り始める、何日かかけて。そういえば今年の頭に、あの人はあんなこと言ってたなとか、それからあの話どうなったんだろうなとか、自分は目標を果たせたかなとか、1年分の書いたものを読み返しながら、1年をひたすらに反芻する。

それと、毎年この時期にちょうどおじいちゃんの命日があるから、改めて自分の足元を確認する。

別に恒例にしてるわけでも、習慣にしてるわけじゃないけど、自然と気づいたらそんなことを毎年考えてる自分に、きっと習慣というのは、意識してするものじゃなくて、気づいたらしてることを呼ぶんだろうなと思って、気づかなくてもそうなれるような自分を、まずは創ることの大切さを改めて感じる。

最近本当に確信できたことは、心は所作にでる。所作は心に作用するってことで、何を言うにも、何をするにも、それは仕事とかプライベートとか、使い分けてるから、仕事の時にはちゃんとするよ。っていう人いるけど、でも、それはとってつけただけの所作でしかなくて。

心のくっついていないものは、その場しのぎにしかすぎなくて、大事な部分で相手の心にはなんにも響かないと思う。

感謝の気持ちを人に伝えよう。と思った時に、人に一生懸命事例を出して説明したり、理路整然と話しても伝わるかというとそうじゃなくて。

感謝の気持ちを伝えたいなら、自分がありがとうといって生活することで。真心っていうのはねとか。努力とかってのはねとか。

なんでもいいんだけど。

誰かに何かを伝えようと思った時に、まずしなきゃいけないのは、本当に心からそう思える自分をつくることで、むしろそれだけでいいんだと思う。そういう自分さえできていれば、自分の行動も言葉も、おならすることも、身振り手振りも、全部がそのままもう伝える行為なんだろうと思う。

しっかりと受動することはもうそのまま能動なんだと思う。

そんでしっかりと受動できないものは能動できないんだと思う。

「道」と名のつくものが、所作を大事にするということは、まずは所作を繰り返すことで、自分を整えて、受動できる自分を創っていくことに重点を置いてるからなんだろうと思う。

ダライラマがなにか迷った時にどうやって判断をしていますかと問われて、「brain」と一言言ったのもそういうことなんだろうと思う。


この時期の空気とか匂いとか、街の感じとか、きっとそういう目に見えないものが、うまいぐあいに作用して、毎年この時期になるとこんなことを考えさせるんだろうな。

今年ももうあとすこし、これから怒涛の忘年会ラッシュもはじまるけど、最後まで笑顔ですごそう。

しかしこんなおだやかな気持ちの年末も珍しいというか初めてかもしれない、それも今年1年の成果の1つなのかもしれない。

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Title: らいふわーく。
2009.12.17


同じ言葉なのに、自分がいうのと、宮崎奕保禅師がいうのじゃ重みが全然違う。おなじ音で、おなじ文字で、おなじ単語なのに。

宮崎奕保禅師だけに限らず。言葉も文字も、ただの記号で、そこになにをのせるかということは、その人にしかできなくて、そこには間違いなく差がある。

その言葉という記号を超えた先にある差とは何なのか、その答えを自分は一番求めていて、それがなんなのか一生かけてでも探し続けられた幸せだろうなと思う。自分のなかでそういう、一生かかって取り組めるような問題を見つけられたことは幸せだと思う。答えは問題がなければ解けなくて、自分の解きたい問題がみつかったということがまず一歩なんだろうと思う。

そういうのをライフワークというんだろうか。

ほんとつくづく、自分の興味があるのは、自分自身のことなんだろうなと思う。もっといえば自分ってなんなんだってことで、それを知りたいから人に関わりたがるんだろうと思う。

ずいぶん自分勝手なところにいきついたもんだ。

でもそれに取り組むことを仕事にできるなんて、幸せなことだなと思う。

一息一息。

前後裁断。

おもくてふかい。

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Title: ハナタレ。
2009.12.14

一言でいえば、うわずった瞬間に負けなんだろうと思う。

旬のものがそこにあったとして。

どこで、だれと、いかにしてたべるか。

食材の旨さだけに胡坐をかくのではなく、それをどういう状況で、どうやって食べたら一番おいしいのかって、想いを巡らせて、考えて、醸し出した空気とともに、なにかを食べることで、その食材の魅力は何十倍にもなる。

なんか茶事の本を読んでると、利休も同じようなこと考えてたんだろうなと思う。おもてなしってのは空気までもふくまれてるわけで。その空気を醸すために、神経を研ぎ澄ます。そしていかにわざとらしくならずにその空気を醸せるかどうか。利休という人はそういうことを悶々と考えてたんだろうな。

手を抜くのは簡単で。

意識しないのは簡単で。

なんとかなるよというのは簡単なんだ。

でも普通は気にとめないようなところに、神経と、想いをのせていけるかどうか。

これをおもてなしと呼ぶわけで。

日本人の大事な心意気の1つなんだろうと思う。

突き詰めていけば、企画だってイベントだって。根本にそういう気持ちを持っているかが大事で。もっといえば、日常、自分の生活にそれが習慣になっているかどうかということが一番重要なんだと思う。

常にその先にいるであろう人を見据えて行動できる自分であるかどうか。

なにがいいたいかって、また理屈っぽくなったけど。

スキヤキがおいしかったってこと。

ノストラダムスは嘘つきじゃなかったのかもとか思って。ノストラダムスは、嘘つきを自分からかってでたんじゃないか・・・とか思って。なんでかって、そうすることに意味があったからなんだ。

な~んて脈絡もないこんなあほなことを思いついて、まぁ鼻息荒くして、自分の思いついた、この考えをいろんな人に、話してるんだけど、いまいちみんなピンとこないことこないこと・・・すごいこと思いついたと思ったんだけどなぁ。

伝える力の問題か。

脚光をあびたいとか。

目立ちたいとか。

認めてほしいとか。

そういう根源的な欲求はだれにでもあるんだろうけど。でも、器もないのに担ぎあげられて、脚光をあびることほどみじめな結果を生むことはない。

引き出されるということは、なにかを引き換えにそこに立つわけで、そこに耐えうる自分があるという自負があるからできることで、それがないのに、そんなところに立たされることがどういうことか、そのリスクも予想できない人がただ口をそろえて認められたいという。

そんでそういう人に限って、そこに立っても同じように認められるのも苦しいねなんていって傷をなめあうんだ。

長く助走をとったほうがより遠くへ飛べるっていってたもんね。

逆を返せば、長く助走をとらなきゃ高く遠くへはは飛べないってことなのかもしれない。

あたりまえのことなんだけど。

あたりまえのことがあたりまえにできないのが現実で。

自分に自信がないのに、だれかに自信を持てよとか。

自分が大丈夫じゃないのに、だれかに大丈夫だよとか。

相手のことをちゃんと見てないのに、自分をちゃんと見てとか。

核兵器を両手に抱えながら、核のない世界をとか。

なにかを変えようと思ったら、変えるべきはまず自分からで。

それもできない奴がなにかなんて変えられるわけなんかない。

だれかに向けて書くことでは、すべての人には伝わらないかもしれないけど、だれかに向けて書かなかったらだれにも伝わらない気がする。

つまるところ、なにもイメージしないでする行動は誰にも響かないような気がするわけです。

年を追うごとに、1つの言葉の持つ深さとか、意味とか、当たり前に使う言葉の中にある重みを、ず~んと感じることがある。その言葉の意味を腹で感じて、昔を振り返ってみると、

ありがとうとか。

ごめんねとか。

またねとか。

そこには、その時には気づけなかった想いがあったり、相手をちゃんとおもいやれなかったり、そんなことに何年もして気がついて、その言葉に時間軸をこえて返事をしたりする。でもその返事はあの時には届かないから、せめてその返事になるような自分になろうと思う。

どこぞの首相も。どこぞの大統領も。だれかの書いたシナリオの上の歯車で。それがここのところ、いろんなところでかみ合って回り始めてる気がする。予定通りの方向へ。

心に行動は伴ってて、行動に心は伴ってるわけで、どっちかじゃなくてどっちも大事なんだろう。

すごいなぁと思う社長に太ってる人ってあんまりいないなぁと思って。

っていうことは太ってない方がいいなにか理由があるかもしれないなと思って。

その理由が明確にわかるかどうかというのが、なにかを判断する時に大事なことなんだろうと思った。

わびさびみたいなもんなんだろうとおもう。

ばらばらに思いついて書いてることが根っこでは全部おんなじことを言ってるなって思ったら。自分の中で大事にしたいことはそこなのかと気づかされるわけで。

それが自分がアウトプットすることの一番大きな意味で、やめない理由なんだろうと思う。

あなたの説教くささはいつも身に滲みます。とかいわれて。

ほめられてるのかそうじゃないのかはわかんないけど、悪い気はしない単純な自分。

そんな小さな一言や、小さな出来事や、意識もしないような小さな粒みたいなものが蓄積してできあがっていくのが自分という人格なんだろうと思う。

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Title: 頭には7ですよ。
2009.12.09


お歳暮という制度はすごく好きで、送る先の人のことを想い浮かべながら、お世話になっている人に、なにかを送るってなんて素敵な制度だろうと思う。

だから、ほんというとカタログとか嫌。なんで相手を想うことを省いちゃったんだろう、本末転倒だ、そんなのお歳暮じゃないじゃん。とか思う。

日本のそういういい風習はちゃんと合理化せずに残してくれないと、そこに込められた意味も見えなくなっちゃう。

それといつもお歳暮になると思うんだ。

最近の居酒屋というのは、決められたマニュアルに沿っていて、対応や挨拶までマニュアルで決められていて、もちろん、お酒の持ち込みや、食材の持ち込みなんてどこでも断られるけど。

でも。

いい魚もらったんだ。これで一杯やりたんだ。これで肴つくってよ、それとそれにあう酒ね、とか。

お歳暮で、いい酒貰ったんだ。これ飲みたいから、これにあう肴つくってよ。いまの旬の魚はなんかはいってる?みたいな幅があってもいいのにと思う。

でもなんでそれができないかといえば、そういうことをすると、加減のしらない人とか、分限をわきまえない人が、あいつはできて、なんでおれにはできないんだとか、これを捌くのになんでそんなにお金がかかるんだとか、そういう曖昧な部分を許さない人に対応ができないからなんだろうに。

あくせくしないで、相手を十分に満足させてその対価をある程度、自分で判断しながら、内訳の書いてない会計出してくる店と、それを信頼する客でなりたつ店というのは、いまはもうほとんどないんだろうな。

そういうのらりくらりとした空気をもった店がもっとあったらいいのに。

ないならいつか自分がつくってやる。

まぁなにか言いたいかって。

うちでは毎年送られてくるお歳暮のお肉に群がってくる人たちがいるけど、そういうつながりが自分は好きだし、送った先で、そういうつながりを生めるような、お歳暮って素敵だなと思う。

って話で。

そんな日本の心意気が、最近すごく暖かいなって感じる。

って話で。

いつかそんな日本の心意気を忘れない場所を創れたらいいなって話。

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Title: 灰になる日も。
2009.12.07


何かを身につけようと思ったら、やっぱり、それを習慣にするしかないんだろう。逆を返せば、習慣になっているものは、なんでも身につけることができるんだろうと思うし、習慣になっていないものは身につけることは難しいんだろう。

いいことも悪いことも、意識しててもしてなくて、自分の中で習慣づけられていることは身につく。

なにかを身に付けたかったら、いまの自分の生活を根本から見直す必要があって、楔をどこかに打ち込んで新しいスペースを確保しなくちゃなんない。

なんか、そうやって短いスパンで生活のスタイルを微妙に変化させながら意識的に生きていくのも面白いかもしれない。

意識をしてただ姿勢を正すだけでも、いまのこの怠けきった身体には厳しいのに、姿勢を正しているうちに、それがスタンダードになってそういう身体になって、無駄に力を入れなくてもすむみたいに。

はじめは、習慣を強制するのには、負荷がかかるんだけど、それが負荷じゃなくなることで、新しことが身について、また新しい負荷を探す。

環境に楔を打つことは、簡単なようで難しい。

ほんとに最近、身につけたいことがたくさんあるのに、それを習慣づけるということに、結構苦労するしているわけです。でもそれを身につけられない言いわけにしないようにしなきゃ。

なむ。

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Title: V2=√(2・G・M/R)
2009.12.05
jaxa5.jpg

本当にごく身近な人にすら、ちゃんと決まるまで黙っていようと思っていたのですが、少し見通しがついたので話します。

実は、2012年にJAXAを中心にNASAと共同で行われる、国際宇宙ステーションISSでの活動への一般公募に応募をしたところ1次選考に通りました。

今回は、年齢や職業など、幅広い人選から選ばれるということで、いままでにないチャンスということで、ひそかに応募をしていまして、実はいま最終選考に向けて、訓練中です。

活動といっても、一般公募ですので、船外活動はできないのですが、ISSのきぼうモジュールでの、太陽光発電のデータ集めや、デブリの調査などがメインになるそうです。

そして訓練の中で、今回はじめてオレンジスーツを着ることができました。
かなりテンションあがりました。まだJAXAでの訓練ですが、実は年明け早々、ヒューストンへ行きます。

今必死こいて英語の勉強中です。

相当テンションあがります。まだ最終選考の面接が残っていますので、きまるかどうかわかりませんが、がんばってきます。

とかね。

言ってみたかったんですよ。

嘘じゃないですよ。こういうのを妄想と呼ぶんです。

本当は、今日、宇宙博いったんです。おっさん2人、朝一番から並んで、小学生をかき分けて、ダッシュです、秒速11.2kmです。そんで宇宙服試着コーナーにはしっていって、朝一番で着てきたんです。本物のオレンジスーツ。

そしたらつい、こんなこといいたくなっちゃって・・・

テンションだけははるか60マイル上空までいってきました。

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Title: どっかでおあいしたことありますか。
2009.12.04


とある会議でたくさんのお坊さんがあつまって、「これが私の生きる道」ということで、それぞれ若手からベテランまでのお坊さんが一同に自分の生きる道というものを話した。

それを聞いていて思ったのは。

自分が好きなのは、やっぱり、基本は熱い人なんだけど、それが前面に出てなくて、でも涼しい顔しながらも腹の底に、ずどんと生きざまに芯を通していて、それでいて肩に力が入ってなくて、なにかにとらわれない人。

あれだけの坊さんの集まりの中で、もしすごい牧師さんにあったら自分はキリスト教に改宗するかもしれないといえることはかっこいいと思いますよ。ほんとに。

そんでそれはそのまま、自分もそうありたい姿の1つであって、その自分の理想の形の中で、1つでも2つでも当てはまるものを持っている人をみつけると、嬉しいし、話がしたいし、一緒になにかをしたくなる。

自分も誰かにとって、そうやって、一緒になにかをしたいと思える自分であり続けたいし、面白そうなことにあいつを呼ぼうっていわれるような人になりたいし。

そのためには、なによりもおもしろいことを心から楽しめる自分でいるために、楽しいことを腕組んで傍観するような大人にだけはなるまいと思う。フットワーク軽く、たのしいものをかぎつけられる嗅覚と、アンテナだけは、いつも張り巡らせておこうと思う。

それと、いつのまにか、いつも若手だった自分の周りにも血気盛んな若者が増えていて、その子たちが、目をキラキラさせて、机上の空論を振りかざしながら、正論に胸を張っているのをみると、すごく愛おしかったり、嬉しかったり、なんかいい坊さんになってほしいなぁとか思ったりして、いつのまにか自分がそういう目線になっていることに、ちょっと大人になったのかなとか思った。

たくさんの熱にあてられた夜だった。

でもまだ追いつかれる気もしなければ、だれにも追いつけない気もしない。

そんな自分をもしかしたら、どこかで誰かが目を細めてみているのかもしれないけどね。

しかし変わった人おおいけど。愛すべき人たちだなと思った。

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Title: うちあげはなび。
2009.12.02

もし自分が今この場で、いきなりかき消えたとしても、きっと明日から世界は何事もなかったように回っていくんだろうっていうことがすごく嫌だったし、それがすごく怖い気がしてた。

でも今は、ここで自分がかき消えたとしても、明日からなにごともなかったように回る世界でよかったと思うし、そこで生きてることを幸せと呼ぶんだと思えるようになった。

きっと言葉やロジックでこの心境の変化を伝えることはできないと思うし、いつ消えてもいいんだということではないんだけど、簡単にいえば、世界は思っている以上にたくさんの要素で成り立っているんだなと思ったら、すごく楽になったということ。

世界を変えてやるぜなんて、意気込んでいるうちは、きっと世界は変えられなくて、でも世界なんてその気になればほんとはいつでも変えられるんだということ。

人から言葉を送られて思うのは、言葉をもらうと、その言葉にその人の生き方がのっかってるきがして、言葉を贈られると、そこにその人の生きてきた道の欠片みたいのが見える気がする。


俳句を詠む気持ちがわかった。というと変だけど、なんとなくああ俳句いいかも。と思った。

例えば30を目前に、自分の進むべき道や、方向に悩んでいて、どうしょもないとして(自分はそんなことは全くないけれど)その気持ちを、酒を飲みながら、いやぁおれさぁもうすぐ30なんだけど、もう正直道とか悩んじゃってさ~どうしようかなぁ~お前はどうすんのよ人生?

なんていう言葉を、ぶちまけるんじゃなくて、

例えば、

初霜を 踏みし 我が歩の ゆくすえぞ

とか、朝の庭で、その短い言葉の中に、また季語を踏まえて、その中に自分の心情をぴったりとくるように頭ひねって、それを詠むなんて、なんて素敵なんじゃないかと。

それに、それを詠まれたほうも、

落葉の 木々に 芽吹きし 春の音

な~んて詠み返しちゃったりして。

そんな数行のやりとりを、しながらお互いの心を察し合うなんて、なんて素敵なんだろう。

無駄なものをそぎ落として、しぼりだした一滴の美学。

明智光秀の時世の句に、下の句がなかったと聞いた、利休が、光秀殿のわびさびは、そこまで極まっていたのか・・・という場面を思いだした。

いかに少ない言葉で、心情をぴったり表現させるか。

日本のそういう控えめでいて、感じ取る力を必要とする文化のよさをもっともっと肌で感じたい。

誰かを想って一句詠んだりしたい。

忍ぶっていう文化はいいなぁ。ほんと。

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  • 自己紹介:1980年1月9日生まれ。どこからを趣味と呼んでいいのかは模索中。好奇心は旺盛。