• PHOTO最終更新日2010年10月11日



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Title: コラーゲン。

人に言われて自分のことが見えるということは本当によくあることだと思う。相手が自分のことをよく知っている人ならなおさらで。

たしかに。

いままで自分は食べるものにも生活にもこまらず、友達にも恵まれ、何不自由なくぬくぬくと育ってきていて、それに生まれた時から周りから必要とされていたし、ちゃんと自分で自己肯定できるような環境の中にいたと思う。

その点で、日常に切羽詰まって悩んだこともなければ、八方ふさがりになったこともない。すくすくぬくぬくときたもんだ。

もちろんその中でしか生まれない悩みだってあったし、注目されて育ってくるには、それなりに痛みを伴うこともあったし、求められるものと自分の能力のギャップに悶々となったりしながらも、その痛みの種類は、生活とはかけ離れたものであることは間違いなかったと思う。

そんなところで生きてきた自分は物理的な部分で悩まなかった分、その時間を自分とか、生きることとか、人間関係とかそういうことを冷静に見たり、考えたりすることに使えていたのかもしれないと思う。

(環境の違いの中からでてくる苦しみに種類の違いはあれど、大きさの大小に差はないはずだという理論は通用することを前提に)

それと、今までの人生の中で、自分の人生の岐路とか選択肢は、普通の人に比べて少なかったと思う。

生まれた時から職業も決まっていたし、その点で、将来なにになろうかとか、そのためにはなにを勉強しなきゃいけないんだとかどこどこ大学にいきたいなとか、あんま考えたことなくて、当たり前のようにとはいえ、時に小さな抵抗なんかかわいいことをしながらも敷かれたレールの上を着々と歩いてきたわけで。

だから誰かを好きになって迷うこともあんまりなくて、頭の中ではいつでも、その人を好きであること、自分の為であることが、イコールでその人とずっと一緒にいる理由にはならなかったし、そういう意味じゃ恋愛に対しては割り切っていることも多かった分、迷いも少なかったんだと思う。

(周りで恋愛に悩んでいる人をみると、いつも自分の人生と相手がイコールであることが多いという点においては特に)

選択肢に消去法が使えたということが、いいか悪いかは別として、時にそれを理由に楽をしていたことは確かだと思う。もちろんそれは今もこれからもそうで、ここ1番で消去法にかけた時に消える方ははじめから決まってる。

(最近は選択して生きてきた人を羨ましく思う反面、自分にはできなかったかもしれないとも思う)

だから人よりも物理的な迷いに割く時間を違うことに使えたという事実はあると思う。

そんな環境で育まれたものは、与えられた環境(消去法で残った方の理由)の中での自分の身の置き方とか、心の置き方であったり、自分の居場所を確保する方法(人からどう見られるかとか空気を読むことも含めて)であったり、いかに同じ環境にモチベーションを保つかとか、そこの中でいかに幸せをみつけるかとか、今を楽しもうという姿勢でもあると思う。

それはいうなれば、「まあいいか」でもあるし「考えてもしょうがないよ」でもあるし、「やるしかないでしょ」でもあるし、「とりあえず一杯のむか」でもあるわけで。それは同時に選択できなかったこと、可能性にかけずに、結局は恵まれた楽な環境に身を置き続けるしかできなかった自分をどこかで保つためにはそういう思考が必要であったということだろうと思う。

一般には、20代のときには、あきらめとか、開き直りとか、お前それでいいの?と区分されてしまいそうなものに、後ろめたさを感じながらもそこに自分で価値をつけるのがうまくなったということでもあると思うし、究極に自己肯定をできる能力もそこから身についたんだと思う。

そうすることでしか保たれないものが、自分の生き方の中にはあったおかげで、育まれたものがたくさんある。

だから、思い返せば、いままで多々言われてきた、あなたに私の気持ちは絶対にわからないとか。恵まれてる人にはわからないことが世の中にはたくさんあるんだとか。勝ち組だとか。ブルジョワ思考とか。いいよね安定しててとか(すべてが悪い意味ではないのもよくわかっている)

そういうのは全部その通りで、間違いなくて。それはよくわかってて。でもその分そこにいるから向かうことができた矢印の方向とか得たものが、たくさんあるのも事実で、違うからこそ見えるものと、感じることができたそれを武器にすればいいんだろうと思う。というよりもそれを武器にするしかないんだと思うとかなんとかいって、また自己肯定をして、今日も生きているのです。てへ。

でも30代になってみると、自分と同じようなところに答えを求めようとする人って意外と多いんだなとか思って、いままで自分の育んできたものが、今になってああ、結局は誰もがそこ通るんじゃんとか思うし、なまじ20代のころにふてくされたり、後ろめたさを感じながらもそれを肯定しようとする反作用を発揮できるような環境で育んだものは無駄にならないんだなとか思ったりすることがあるわけです。

なにがいいたいのかまとまりきらないうえに、つっこみどころも満載で、こんなに書いても書いても自分の中にあるものと、ぴったりしっくりくる文章にならないのはひさしぶりで、なんかいいたいことがあぶり出しみたいになって結局は最後にこうやって言いわけをしなきゃいけないような状況はなんとも決まりが悪いけど、でも備忘の為に残しておこうと思う。

でもこれが今の自分。以上でも以下でもないと思う。

前に前に。

POSTED @ 2010.04.24 | Comment (0) | Trackback (0)

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  • 自己紹介:1980年1月9日生まれ。どこからを趣味と呼んでいいのかは模索中。好奇心は旺盛。