Title: お日様のせいにして。
今日は朝からブルーハーツの「休日」が頭の中でずっと流れてる。マーシーの声にはなにかいろんなことがどうでもいいやと思えるようななんとなく気の抜けた空気がある。
穏やかな日に風が吹いて。穏やか日に列車に乗る。
あぶないあぶない。
ほしがりません夏までは。
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どうも一昨日から下の歯の前歯が二本だけむずむずする。ムズムズする以外の表現が思いつかないんだけどやたらムズムズする。大人の歯でも生えてくるんだろうか。。。
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今日は朝からお寺の境内も刈り込みをしてたけど、この時期造園業者ってのはきっと書き入れ時なんだろうな。
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つい先週聖火はラサに到着した。粛々と続けられる聖火リレーに対してなんの報道もなければ、一気にフリーチベットの熱が冷めてしまったかのようにそんな話題ものぼらない。報道ってのは力あるなぁ。こわいなぁ。そしてそれに煽られるたくさんの人たち。
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頭のチャンネルの切り替えが最近ものすごくスムーズにいくようになったとおもうというよりもきっとコツがわかったんだろうな。ここんとこ幼稚園の研修や話し合いばっかりで読んでる本や考えてることも保育や幼稚園のことばっかりだったけど、そんなこんなしてるまにお盆が目の前に迫ってきて原稿書くための準備を始めたら面白いくらいきれいに頭が切りかわる。自分にしかわからない変化だけどほんとこの1年でそういう変化に対応するのがものすごくうまくなったと自画自賛。
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とりあえずビールがのみたい。
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緑化計画で植えた芝生を子どもたちに開放したら、イメージどおりの遊びと予想通りの顔をみせてくれて大満足。やっぱ環境設定は重要だな。芝生をロープで囲うのと囲わないのだけでこんなに遊びの種類が変化するとは思わなかったしウッドデッキをひとつ置くだけでも遊びががらりとかわる。ある程度予想はしてたけどあからさまに予想外の遊びをしてる子もいて、やっぱすごいなぁ子どもは。この想像力や発想力をいつまでも忘れないでいれたらいいのにな。
大人になる中で社会とか常識とか、普通とか。そういう言葉の中に生きていく中で真っ先に鈍っていってしまうんだろうな。
すくなくともうちの幼稚園をでた子どもたちにはそれを忘れてほしくないなぁ。
読み書きや計算なんかに費やす時間があったらどんどん遊ぶべきだ。遊びこそが生きる勉強だと思う。ぜんぶ詰まってるよ遊びの中には。
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世の中にはタイミングがある。
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宗教でも保育でも。そうじゃなくてもなんでもだけど。少しでも深く、少しでも広く知識を深めようとおもったらまず何かを得ようと思うのではなくてまずは疑問をもつことなんだと思う。素朴なものでもいい。なんでこの人はこういうのだろうか。その背景には何があったんだろうか。これはどういうことだろうか。疑問はさらに高度な疑問を生む。その繰り返し。
日蓮が念仏をしてると無間地獄に堕ちるといったのを取り上げてよく真宗の人間と日蓮宗の人間は相反するというけど。日蓮の時代にたしかに真宗の中に念仏を間違った解釈をしていた人がたくさんいたことは事実で、「本願ぼこり」という言葉もあるが、まさに歎異抄が書かれたのもこの時代なわけだし、その言葉尻だけをとらえていがみ合っているうちは本当の姿はみえてないんだと思う。
なぜこの人はそういうことを言ったのか。行ったのか。
これは時代に関係なく。
秋葉原の事件の犯人だってそうだけど。
かならず。そこにはかならず理由がある。
おれはその理由はつきつめていけばきっと最後の最後には自分の中でもきっと理解できるものなんじゃないかと信じてる。
他人事なんて事実は一つもない。
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なんとなくウマがあう。
そういうのって幸せだと思う。
なんとなくウマがあうは。
きっとなくならないんだとおもう。
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感性というのは時間という概念のないところで育まれるんじゃないかと思う。わびもさびも。茶の心も。絵もそうだしなんでもそうだけど。感性を磨くということは時間の縛りをどれだけ取り払っていきるかということに直結するんじゃないかと思う。
そういう意味じゃお寺の生活というのは理にかなってるんだろうな。
子どもの感性が大人よりも豊かなのはきっとそれだけ時間に追われてないからなんじゃないかと思う。
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さて庭に芝刈りにいこう。
POSTED @ 2008.06.27 |
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