• PHOTO最終更新日2010年10月11日



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Title: サイト移行のお知らせ。
2011.01.08

30歳の終わりに「MONKEYSKY」を閉じることにしました。

でも書くのをやめる訳じゃなくて、新しいサイトに移行です。
またそこから前に進んでいきたいと思います。

新しいサイトは下記です。ブックマークをしてくださっていた方ありがとうございました変更をお願いします。

今後とも宜しくお願い致します。

「Rbace」

http://rbace.co/

よしおかりょう

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Title: これにておしまい。
2011.01.07


いままでここで思うことや感じたことをつらつら書き続けてもう10年たった。

いい機会だから「monkeysky」をこれでおしまいにしようと思う。

この10年とこれからの10年はきっと何かが違うんだと思う。

死なない身体なら、老いない身体ならいいけど、でもそうじゃないからおもしろいのだと。

最近本当に感じる。

これにておしまい。

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Title: 補足。
2011.01.02

年末に書いた日記を読んで、つくづくおまえさんは聖道門だなと言われたんだけど、

#

結果には必ず原因とプロセスが繋がっている。

やってみなくても今の自分でその球が打てないことをまずわからないと、そこから先にはいけないのだと言うことがよくわかった。

今の自分では打てない、ではなぜ打てないのか、どうしたら打てるようになるかというプロセスを踏んで、球を打つことだけに専念して、やっと自信をもってバッターボックスに入れるようになるんだと思う。

#

こう書いたのは、自力で前に進んでいこうというよりも、もちゃもちゃ考え込んだあげく、打てねぇやという自覚を持たないと先に進めない時があるという意味なのです。

むしろ着々と前に前に進んでいくと言うことは、着々となにかに従順になって、力で前に進んでいくことよりも、手を離そうという意味で、受動を究極に突き詰めてそれを能動にしようというようなものだという意味なのです。

自信をもってバッターボックスに立つというのは、いうなれば、そこではじめて「聖道浄土のかわりめあり」なんじゃないかと思うのです。

ああもっとこういう話がしたい、もっとそういう疑問とかぶつけてほしい、絡んでほしい、かみついてほしい。

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Title: 元旦。
2011.01.01

日本酒をひっかけながら、今日届いた年賀状を見る。

つべこべいいながらこうやってみんなの年賀状を見ている時間が好きだ。

年賀状っていい習慣だなと思う。

しがらみって片付けてしまえばそれまでだけど、こういう日本の風習は本当によくできてると思う。1年の内で、お中元やお歳暮や年賀状とか、誰かの顔を思い浮かべて想いを馳せる時間があるというのは大事なことだと思う。

そういうめんどくさいしがらみとか、おせっかいとか、めんどくささとか、優しさの押し売りとか、そういうの全部好きだ。

時々ものすごいうっとおしいし、ほっといてくれとか思うけど、でもそれでも好きだ。

そういうのがなくなったら寂しいと思う。

あけましておめでとうございます。

今年もこうやってあけていくのです。

今日お参りに来た人と、一休さんの話をしていて「門松は冥土の旅の一里塚めでたくもありめでたくもなし」ですねと言ったら、そのじいさんは「まあでも極楽へ一歩近づくわけですから、なまんだぶなまんだぶ」と言って高笑いした。

あのじいさん妙好人の域だな。


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Title: 一里塚
2010.12.30

ばたばたとあっというまにもう30日。

今年を振り返る。

今年は良くも悪くも、自分がどこまで通用して、どこから先ではまだ通用しないのかがわかった気がする。そんなことを経験する中で、いままで自分の中で、やってみるまでわかんないじゃんとか思っていたときがあったけど、でもそれは、まだ自分の扱いをわかっていなかっただけで、打てるか打てないかわかんないといってバッターボックスに立つようなものだったんだろうと思う。

一人で野球をしてるならそれでいいけど、野球は一人ではできないし、生きていくことも全く同じだと思う。

結果には必ず原因とプロセスが繋がっている。

やってみなくても今の自分でその球が打てないことをまずわからないと、そこから先にはいけないのだと言うことがよくわかった。

今の自分では打てない、ではなぜ打てないのか、どうしたら打てるようになるかというプロセスを踏んで、球を打つことだけに専念して、やっと自信をもってバッターボックスに入れるようになるんだと思う。

プロというのはそういうことなんだろうと思う。というとあんたはプロではないだろうと言われそうだけど、自分は自分の扱いに関してはプロでいたいと思うし、自分の扱いで誰かに右に出られるのなんてごめんだぜと思う。

野球に人生を例えてみるものの、たいして野球は好きではない。

それと、すこし形が見えたのは、自分がどういう人間になりたいかというより、どういう人間にはなりたくないのかということ。

1年のなかでいろんな決断を迫られた中で、いやな気分がするときと、そうじゃないときをよくよく反芻してみれば、そこからあぶり出しみたいに自分が浮き彫りになったような気がする。

もうすぐ31歳になる。

毎年言ってる気がするけど、来年はもっとわがままになる。好きなことを好きな人としたいだけして、いやなことなんてぽいだ。青臭くて、暑苦しいことをさらりと言いながら、神楽坂あたりで好きな人とおいしいお酒を飲んで、たのしくへらへらとすごそうと思う。

そうやって生き続けられるために必要なものが自分の身につけなければいけないことであり、必要とするものなんだと思う。

なんか大学を卒業して来年でちょうど10年。

いろんな経験をして、右往左往したり、いろんなことをかじりまくってきて、ぐるっと一周して、あの頃と同じところに着地したような気がする。

同じところだけど同じじゃないところ。

#

男の人が女の人に指輪を贈るときに。

男の人の中にある気持ちも、女の人の中にある気持ちも、それは一種の布施の心に通ずるものがあるんじゃなかろうかという話。

#

キリスト教をディズニーランドに例えるのであれば、仏教は花屋敷だ。

これは安易な例えのようだけど、奥が深いのです。

#

理論が伴っていないと感情移入できないという傾向は、物質社会と資本主義の大きな弊害で、本当に心動かされるのは、理論の伴わないモノだということを習慣の中や、生活の中で感じられないことが現代における心の問題の根底に繋がるんじゃないかと思う。

おてんとさまがみてるんだよ。

#

例えばワンピースを読んでいて、ルフィに思い描くモノは、ああなりたい、ああありたいという願望であり憧れである。

だからほんとのこというと、本当の意味ではルフィの言葉には感情移入できない時がある。それが言えればいいけど、自分はルフィみたいにはなれないよ、無謀にもマリンフォートには飛び込めないよと思う。

そんなことを思いながら、手塚治虫の漫画を読んでいて感じたのには、手塚治虫の書く主人公の言葉には感情移入できるモノが多くて、なんかヒーローがヒーローじゃないし、悪いやつがただの悪いやつじゃなくて、ちゃんと理屈の伴わない行動までも描写されている気がする。

漫画というのは本当におもしろい。

世相をよく反映しているんじゃないかと思う。

#

生きていると、自分の生活や見えてる世界がすべてで、その中で見えた自分の未来に悲観したり、絶望したり、追い詰められたりすることがあるけど。

でも世界は自分が思っている以上に多様性があって、生き方にも、価値観にも、経済システムですら、まだまだ自分の知らない世界がたくさんあって。

自分の一回り外側には、まだまだ自分の居場所や可能性が1億万通りくらいあると思う。

自分は中学や高校の時には、その閉鎖的な世界がすべてだと思っていたし、そこで社会や将来や先を予想しては、生きてくのなんてこんなもんかとか思ったり、所詮人生なんてとか思ってることがあったし、もちろん大学でも、働き始めても、気を抜けば周りを取り巻く環境に息苦しくなったり、閉塞感を感じて、もうこんなんなら、生きててもしょうがないなとか思ったこともあるけど。

今になって思うのは、自分は何も知らないと心から思えることはすべての救いになる。

無知の知というのは、ただの哲学的な考察を表す言葉だけではく、最近その言葉に血が通った気がして、あらためてその言葉のすごさがわかったきがする。

#

ツイッターをやっていて。

多くの人が、(そうではなくて手の内をさらけ出している人もいるけど)両手を後ろに隠しながら、手の内を明かさないでいるくせに、でもそれがなんなのか興味をもってほしくて、共感してほしくて、チラ見せしあっていて、でもぐいぐいこられるとめんどくさいから、そのちょうどいい距離の心地よさを構築しているようにみえる。

そう見えたら、もしこんなにたくさんそういう人達がいるんだとしたら、そこに仏教の入り込む余地というのはまだまだあるなと思う。

なんか、宗教離れとか、無宗教とか言うけど、それはそもそも、なにを宗教というか定義づけもしないステレオタイプの人のつくりだした妄想みたいなもんなんじゃないかと思う。

人が寂しかったり、共感を求めたり、感情的になったり、そういう人間の本来持ちうるすべての行動原理には理由があって、その理由に目を向けて、自分の説明書を作っていくような作業をどう呼ぶかは自由だけど、自分はそれを宗教と呼ぶし、仏教と呼ぶ。

自分の目には、今の世の中宗教や仏教を根源的に求めている人が多いように見える。

なんか室町時代の人々の閉塞感と、今の世の中の閉塞感ともしかしたらどこかで通じるところがあるんじゃないかという気もする。

#

その人と話していると、なんで自分の口からこんな言葉がでてきたんだろうとか、どんどん自分の中でいろんなことが繋がっていく感覚になる人がいて。

そういう人は本当に大切で。

これからもそういう人と繋がっていたいと思った。

持論だけど、やっぱり人は会話によって成長すると思うし、コミュニケーションを通さないと得られないものというのがあって、その中心になるのは、会話で、会話とは一口に言うものの、磨こうと思わなきゃ鈍るし、習慣として意識的じゃないと駄目で、それ自体を楽しもうと思えなきゃ伸びないのかもしれないと思う。

自分はもっと会話をするのがうまくなりたい。

会話は磨けば絶対にどこでも通用する武器になる。

#

どこかで、建造物の高さや大きさを競うのは、衰退の兆しだという記事を読んだけど。

スカイツリーがいろんなところから見えるようになったのはなんだかうれしい。

こないだついに家の窓からスカイツリーが見えるようになったし、谷中のあたりからもみえるし、上野動物園からも見えるようになった。いろんな自分の好きな場所にスカイツリーが顔を出してきて、なんかちょっとうきうきする。

たしかに、高さや大きさよりも大事なモノはあるかもしれないけど。

でも自分はこうやって無条件にわくわくできて、すげ~!と思えることはとても大事だと思います。

#

さて今年も終わり。

明日はアメ横に買い出しに行こう。

この時期の風物詩。

#

正月や冥途の旅の一里塚めでたくもありめでたくもなし。


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Title: 歩く花
2010.12.25

野に咲かず山に咲かず、愛する人の庭に咲く。

「歩く花」を聞きながら、旅情をそそられながら、旅に思いを巡らせる。結局今年は夏に島に一週間いったくらいで旅らしい旅はできなかったなあ。年末のアラスカもあらぬ理由でいけなくなってしまったし。

来年こそは旅に出たい。

いつからか年をとって、日にちを選んで、理由を見つけなければ旅に出れなくなったけど、でもそんな不平不満を言いながら、いまの自分を憂いていることに時間を費やすのはナンセンスだ、今できる中でできる旅のプランを現実的に練り直す。

まだまだみたい場所も、行きたい場所も、感じたい気持ちも、叫びたいこともたくさんある。

やりたいことを思いっきりやって、なおかつそれが何かに貢献できて、評価されるような生き方をしたい。あいつはいつも楽しそうだなと言われてのほほんと生きていくのです。夢見がちでなんぼですよ。ジャンプだって読み続けますよ。

今日からは歩く花ですよ。

淀んでたまるか。と若気の至りのような気持ちが消えないまままもなく31歳になろうとしているわけです。

ガードレールを跳び越えて、センターラインを渡る風、その時その瞬間僕は一人で決めたんだ。一人で決めたんだ。とヒロトも言うのです。

なんか今年感じたことの1つに。

大人になって、社会に出て、いろんなことが見えてきて、たくさんの人と接すると、その中で自分というものがまざまざと浮き彫りになってくる。

自分よりもすごいやつとか、できるやつがたくさんいて、くそうとか思うんだけど、でもそこに言い訳するのがうまくなって、それを環境とか状況のせいにして、自分はここでいいのさ~ふふんとかすました顔をするのがうまくなる。

自分には守るモノがあるからとか、もういい大人だからとかいって自分を納得させる。

しかも新しいことに挑戦したり、身につけなくても、たぶん死ぬまで困ることがないくらいの経験をそれなりにしてきて、持ってるモノだけである程度いろんなことがこなせるようになると、底上げすらめんどくさくなる。

でもそんなのくそくらえだと思い続けたい。

変わったとか、いまさらとか、どうしたのとか、まだそんなこといってんのとか、そんなことしてんのとか言われても、どんどんいろんなことを吸収したいし、まだまだ先に行きたい。

だからいつでも変わり続けたいし、自分をの身を置く環境も状況にも意識的でいたいとおもう。

足をひっぱる要素はさようならだ。

好き勝手に生きて、維持できないモノはなんにもいらないのだ。

最後には、脳みそと心臓だけが動いてればそれでいい。

自分の人生はどうころんでも一度だけ。

ヒロトがバンドが解散して、新しいバンドを組むって言うのは、あたらしいアルバムをリリースするようなモノだと言っていた。

生きてるモノはいつだって変わり続けるんだ。

そこをたんたんと、てくてくと、歩いて行けるようにもっと強くならなきゃと思う。

根っこが消えて足が生えて、野に咲かず山に咲かず。

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Title: ここ数日。
2010.12.20

先日、仕事の帰り道、道の真ん中で車が動かなくなった。

ガス欠だったんだけど、夜中に知らない街でガソリンスタンドを探し回った。

その次の日おじさんが亡くなって。

そのお通夜の日に、ぎっくり首になって、首が動かなくなった。

その首が癒えないまま、昨日は神楽坂で記憶をなくした。

ほんとにこの年の瀬はばたばたしてる上に、なんかふわふわと気持ちがしてるからこんなことになるんだろうか・・・もうふんだりけったりだなぁ、なんかこういうときには、なんか悪いものでもついてるんじゃないかとか、お祓いでもしようかなんてことをいいたくなる気持ちもわかるなぁと思ったけど。

でも考えようによっちゃ、ガス欠になって、知らない人が、車を押してくれたり、ガソリンスタンドのお兄さんがものすごく親身になってくれたりして、すごい人の温かさに触れることができたし、おじさんが亡くなったのは悲しいけど、この悲しみで冷たい水を浴びせられたみたいにはっとして、我に返った気がして、自分の中の仏教がまた浮き彫りにさせられたし、首が回らなくなったのだって、身体をいたわって、メンテナンスするいい機会だったと思えばいい。

ただ神楽坂で記憶をなくした件については、ただ失態にすぎず、今のところいい要素がおもいつかないのだけれど。

いやしかし、なにがよくてなにが悪いかなんて、目に見えるところだけじゃわかんないんだって思うようにする。

そんなここ数日の総括

#

おじさんたちが亡くなるたびに、世代交代っていうのは、漠然とやってくるのではなくて、こうやって目に見える形ではっきりやってくるんだなと思う。

いつまでもだれかの背中を追っかけてるばかりじゃなくて、もう自分がしっかり立つ番なんだなと思うし、今度はだれかに背中を追わせられるような男にならなきゃいけないのかなと思う。

なんか大それたことをいうようだけど、最近思よく、自分がいままで培ったもののを、世の中とか誰かとか何かのためにどうやったら還元できるだろうかと考えることがある。

おじさんたちが残してくれたものを引き継いで、次の世代に残したいと思うし、そこで自分の中に芽生えたものを少しでも目に見える形で、種として蒔きたいという気持ちがわいてきて、そういうのってもしかしたら、自分たちの世代がいろんな意味で時代の中心になる時期が来たということなのかもしれないと思う。

なんかまだ漠然としてるけど、来年はそんなことを実感できる年にしたい。

#

どんなに正しいことも、振りかざしたらそれは正しくなくなるんだと思う。

正義も善も、愛も希望も、エコもなんでも、そこに絶対論理はなくて、ようは大事なのはその使い方のほうなのかもしれない。

#

言い訳はしないにこしたことないけど、それはできそうにないから、せめてその頻度を少なくしようと心に決めた。

言い訳はしてもいい、でもできるだけ最小限にしようと思う。

そんで言い訳を最後の逃げ道にして安心するのだけはやめようと思う。

#

三人称になってやしないかい。

ここにいるのは自分とあんたなのに。

#

昔ザウスという室内スキー場があった。

そんでCMでは湾岸スキーヤーなんてフレーズが流れていたっけ。

なんの前触れもなくそんなことを思い出した。

あの頃はなんか今よりも世界が広く感じていたような気がする。

#

さらりと熱いことをいえる男になる。

今日、りんごをかじりながら、改めてそう思った。

#

見落としてしまうようなところに目を見張るだけで、ものごとが突然うまく回り出すと言うことを経験で学んできて、ほんと大きな問題の原因はほとんど、見落としてしまいがちなところをみんなが見落とした結果なんだろうと思う。

#


自分の進むべき道、進みたい方向、あるべき姿。

そんなものは足を動かし続けてれば自然にわかるもんなんだなきっと。


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Title: ポルシェ
2010.12.20

おじさんの話

先日おじさんが亡くなった。

おじさんはポルシェの神様と呼ばれたメカニックで、1964年に開催された第2回日本グランプリでは、練習走行でクラッシュし、誰も直せないほど大きなダメージを受けた式場壮吉のポルシェ904GTSを徹夜で直した。

そしてそのポルシェはGT2を制した。

おじさんはネジ一本でどこのネジかもわかったし、エンジンの音だけでどこが悪いかわかるそうだ。ポルシェの運転もものすごくうまかったそうだ。京都まで直したポルシェを納品するのに3時間でついたという逸話も残している。

今でも、ポルシェ・フリークの間では伝説のYメカニックとして語り継がれているそうだ。

おじさんは寡黙な人で、自分からそういう話をしないから、大きくなって周りからそれを知らされたときにはびっくりした。

そんなおじさんはうちにくるといつも車の話をしていて、小さいときはそれが全然おもしろくなくて、つまんないと感じていたけど、気づけばいつの間にか自分も車が好きになったし、大きくなるにつれ、いつも目をきらきらさせて車の話をしているおじさんはかっこいいと思ったし、自分もああやっていくつになっても目をきらきらさせていたいと思うようになった。

大学の時に自分がはじめて中古のワーゲンを買うときには、中古車のオークションにまでついてきてくれて、エンジンをあけて隅々までみてくれて、はやく車がほしいのに、おじさんは納得のいくものがみつかるまで妥協しなくて、毎週オークションにいってくれ、車を買うまでに3ヶ月以上もかかったこともある。

そんなおじさんの葬儀をしていて、なんか、いつも人前で法話とかしてるくせに、いざ火葬場にいったらいろんなものがこみ上げてきて、どうしょうもなくなって。

なんかえらそうに仏教だ何だと語ったところで、なんも意味ないじゃん、えらそうに人前で生だの死だの語ったって、自分一人どうしょうもないのに、なにが救いだ、くそう。と思った。

そんでこうやって人は宗教にであって、こうやって仏教にであっていくのかもしれないなと思った。

なんかおじさんを通して改めて自分自身の中にある仏教が浮き彫りになって、こういう経験をするたびに自分の中の仏法に血が通っていくのかもしれないと思った。

この想いを忘れないようにしようと思う。

そんでおじさんの残してくれたものを次の世代に必ず伝えようと思う。


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Title: エルビー
2010.12.16


なんか時間の流れがものすごく速く感じて、1日があっという間に終わって、昨日は遙か昔のことのようだ。

こうやって1日が終わって1週間が終わって、1ヶ月が終わって1年が終わかと思うと、やばいなぁ、残された時間ってそんなにないなぁとか思う。

ここ数年の時間の体感スピードは確実に、中学生や高校生のころとは違う。

あの頃の1週間のどんなに長かったことか。

流れている時間は同じなのに、意識だけでこんなに体感が変わるなんてと思うと、意識の置き方というのは本当に大事だなと思う。

先に先に先走る思考をすこし手の届くところにとどめておく術をもう少し学ばなきゃと思う。

そんでそこでできた余裕の中で、たくさんの誰かの中の自分のイメージの多様性の収束とそのぶれ幅をもっと小さくするための方法を考えたいと思う。


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Title: ラグビーのこと。
2010.12.16

何の脈絡もなく思い出したことがある。

大学4年生の時、たくさんの新入生の前で部員勧誘も兼ねてラグビー部の紹介をする機会があった。学生時分でそんな大人数の前に立って話すのはものすごく緊張して思い返してみても、なにを話したかよく覚えてないけど、もしそこに戻れることができて、もう一度そこに立たせてもらえたらこう言おうと思う。

ラグビーはよく3Kと言われます。

きつい・きたない・くさい

まさにその通りです。

どこをどうとっても汚いですし、それに痛いしきついです。

それに何よりもくさいです。部室なんか最悪です。

それにスクラムの中とかものすごい臭いです。

でも、それがどうしょうもなければないほど。

その思いを一緒に経験できた仲間というものは何にも代え難いです。

自分がラグビーをやっててよかったと思うのは、試合中でも練習中でもなくて、いつもその友達と一緒にあほなことをしているときです。

だからもし、そういう思いをしたい人がいたら。

ぜひ一緒にラグビーしませんか。


って言おうと思う。

その時には自分でもわからなかった思いを、いまこうやって言葉にできたり、何年もたってあのときに自分の言いたかったことはこういうことなんだと反芻してみると、悔やまれることはたくさんあるけど、でもその時にうまく伝えられなかったという悔しい思いがいまの自分に繋がってると思うと、やっぱ人生は一度きりでよかったと思うし、楽しいと思う。


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Title: わにみたいなもんだ。
2010.12.13


「どうすれば君のいない景色をあたりまえと思えるんだろう」なんて歌詞にぐっときながらまた1年を顧みて、365日のうち347日が終わったと思おうと、この1年で自分の得たものの少なさに、もっと時間を大事に使うべきだったと反省する。

そんな反省をしていて思ったのは、人が成長をするときに、必要なのは「こだわり」なんだと思う。自分の中の「こだわり」を持論という武器にして、それをあちこちにぶつけてみて、刃こぼれしたり、たたき直しては、ぽっきり折られてはまた研ぎ直して、自分の手にぴったりくる形になるまで、自分の中の「こだわり」をたたきまくる。そんでもう身体の一部みたいになって、どこでもすらりとそれを使えるようになって、ある程度まで通用するようになることが大事なんだろうと思う。

でも今思うのは、

そこから先に行くときは、その武器を手放さなきゃなんだろう。

いうなれば、ある程度の段階までいくのには「こだわり」がどうしても必要だけど、さらにその先にいくには「こだわり」は邪魔になる。

これも一如。

メリットには必ずデメリットがある。

自分がいいと思ったもの、結果を出してきたものに胡座をかけばそこで終わりだ。

いくら研ぎ澄ましても、それを握っている限り見えない世界がある。

MHPにたとえるなら、弓で狩ってばかりいて、熟練してきたらそこに過信してしまうけど、太刀じゃなきゃ得られない素材があるということだ。

それと自分が胡座をかかないために必要なのは、やっぱり悔しがることだと思った。

年をとって著しく減るのは本気で悔しがることだ。

腕くんで、涼しい顔して、まあしょうがないよ。とかいうのはくそくらえで。歯ぎしりするくらいに悔しがれるようなところにいないと自分はすぐ怠けるから、これからもできるだけあちこちにかみつきながら、悔しい思いをしていこうと思う。

まえにまえに。

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Title: 収穫
2010.12.08

少し遅めの稲刈りをした。

はじめて籾殻から苗を育てて、それを田んぼに植えて、ほんとにいろんな苦労をしながら無農薬で育ててやっと収穫。

ほんとに一握りの稲しかとれなかったし、お米もお茶碗一杯分にしかならないけど。

でも自分でもなんにもないところから米が育てられると言うことがわかったし、ほんとにこの1年、米からいろんなことを教わった。

アームストロング船長の言葉を借りるなら、

「この一歩は小さな一歩だが自分にとっては大きな一歩だ」

ということなのです。

来年は豊作を目指します。

kome2010.jpg


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Title: はーもにー
2010.12.08


「命を狙われるくらいのことをしなけりゃ、国はかわらんぜよ」と龍馬が言う。

なんとかっこいい台詞なのかと思った。

先日あるお坊さんが「後ろ指指されてもいいんです、これがいいことか悪いことかは今後の人たちが決めてくれますから」と言っていた。

なんか最近思うのは世論とか支持率とかはとても大事だけど、でも本当になにかを変えようとか、自分の思い描く世界を作ろうとしたときに必要なものは、なによりもその最大公約数と戦う覚悟と腰を据えて向き合うこと何だろうと思う。

でも少し前の自分なら、じゃあ戦いだ!戦だ。ホラ貝吹くぜ。かかってこいよとか思ってたけど。

でも今はそうは思わない、戦うとはイタヅラに敵を増やすことではなくて、多くの敵の中でも平然と強いていられる胆力を身につけることと、自分の手の届くところの人に影響をして、少しづつ味方を増やしていくことなのかもしれないと思う。

流れに逆らえばいつか力尽きる。

力尽きたらなにも変えられない。

流れがあるとしたら、そこにダムを造るような関わり方ではなく、そこにしっかり流れながらその流れを少しづつ変えていく、そんな風に世の中に関わっていきたい。

それと、例えば既製品のプラモデルを作れば1時間くらいで完成させられるけど、自分がプラモデルの原型を作り出したら、きっと何ヶ月もかかると思う。

なんか最近思うのは、自分の完成させたいものの多くが、とても時間のかかるものばかりで、せっかちな自分にはそれがどうにももどかしい時期があったけど、でも思うのは、自分がちゃちゃっと1年くらいで完成できちゃうものなんかたいしたものじゃなくて、それのもってる波及力なんてたかがしれているんだと思う。

いま自分の完成させたいものは本当に何年もかかるようなことばかりになってきて、時に気持ちが切れそうになるけど、そういうときにはじっと自分の気持ちの火を絶やさないようにして、細くでも自分の気持ちを切れないように保つ術も身についたと思う、その中で1つのことをやり続けていくことの大切さとか、その中でしか感じられない楽しさを少しづつ実感できるようになってきたと思う。

成功のコツは駄目な時をどうのりきるかというところにあるのかもしれない。

兎にも角にもここ数年で、だいぶ自分の扱いがうまくなってきた。

きっとまだまだこれからもっと、自分の扱いがうまくなるんだろうけど、でも自分をここまで乗りこなせるようになるまで30年かかったのかと思うと、なんとも自分という生き物ほど手のかかるものはないとか思う。

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Title: ぼいぱ。
2010.12.07

忙しい忙しいといいながら、抱えているタスクをずらっと並べてみると、そうたいした仕事量じゃないということもある。

なんか年末なのもあるけど、気持ちばっかりが先走ったり、気をもんだりしてそわそわと落ち着かない上に、脳の回転がにぶっててどうも効率が悪い。

1つ1つを丁寧に片付けていけばいい。

あとはなるようになる。

と自分を落ち着けてみる。

さて、2年前になんにもない土地を耕して、種をまいて、畑を作り、ビオトープをはじめて、小屋も建てて、今年は田んぼもできて木登り用の木も植えて、おもいっきり泥遊びをできる場所もつくった。

正直言うと、はじめになんにもない土地を前にしてた時に見えていたものの数倍もいろんな効果があったり、いろんな関係に繋がったりしていて、その中で自分のやりたいことや、伝えたいこと、それがこうやって「見える化」されてきたような気がする。

来年からいよいよこの2年の経験と実績を使って、本格的に教育の真ん中に「実体験」をかかげていこうとおもう。ほかのどこにもまねできない幼稚園をつくってやる。

この1年で宗教に関わる上でも、教育に関わる上でも、いろんな人を見てきて、いやと言うほどいろんな種類のお坊さんや、教育者をみてきて、その中でいろんなものを取捨択一して、自分の中のこうありたい姿というのがよくわかった。

ああはなりたくない、ああはいいたくないとか、あんなことを子どもに強要しなきゃいけないなら幼稚園やめた方がましだとか、あんなことを言わなきゃいけないなんて、そんなのはもはや坊さんじゃないとか、いろんなところに悪態ついたり、文句ばっかりいってきたけど、なまじ文句ばっかりいってたわけじゃない。

いままではとにかくいろんな情報を手当たり次第に吸収して、いろんなところに顔出しては飲み明かして、自分の中に取り込んで、あっちにいったり、こっちにいったり、自分の中でのブームみたいなものに右往左往してたし、どうにも自分の立ち位置を決めかねていたけど、いまはもう、なにが自分には必要な情報で、なにがいらない情報なのかがよくわかった。

自分探しの終わりはなんとも、こんなあっけないものなのかもしれない。

結局人間は無理したって長続きなんかしない。

好きなものを見つけられればベストだけど、見つけられなければいかに目の前にあることを好きになれるかなんだろうと思う。

もう好きなこととやりたいことしかしない。

そんでその姿勢を一番の武器にする。

それをさせてもらえるすべてのご縁がありがたい。


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Title: チャコペン。
2010.12.04

昨日お寺にきた方が、帰りに「それではよいお年を」と言って帰っていった。

まだ少し気が早い気もするけど、でもここのところあまりに忙しくて、すっかり日常とか時間の流れに実感が伴ってなかったけど、その一言で、ああもう今年も終わりなんだと思って、残りの日々をもう少し落ち着いて味わわなきゃと我に返った気がした。

それと、ある人が「私もう、あらかんですから」と言っていた。

あらかん・・・あらかん・・・

阿羅漢・・・

阿羅漢って・・・もしやこの人は千日回峰行でもやりとげたのかと思ったら、あらかんとは、アラウンド還暦のことだそうだ。アラサーみたいなもんでアラ還だそうだ。

南無。

*

忙しいときは、暇にしている人にイライラして、暇なときには、忙しい人をみて、もうすこしのんびりすればいいのにと思う。

ほんと自分ってば凡夫だな。

南無

*

なんか、やっぱ熱い人のもってるパワーというのはすごいなと思って、自分はそういう人が好きなんだなと思う。

周りが熱くなってる時に熱いことをいうのはたいしたことないなと思って、できれば周りの誰も熱くなってないのに、しれっと熱いことを言えるような男になりたいと思った。

そういうのってかっこいいなと思う。

口火になれるくらい熱いじいさんになろう。


南無

*

最近思うけど、最大公約数のくくりで議論して世論に迎合するのは、ナンセンスなんじゃないか。特にお坊さんはそういう議論の進め方をしてはいけない気がする。

最大公約数の人が迷っているから、そのために仏教があるんじゃなかろうか。

南無

*

ちゃこぺん

南無

*

まもなく今年が終わる。

そんでまもなく31歳になる。

としくった。

南無

*

狩りまくり。

南無

*

人生を楽しむぞ。

南無

*

漫画を貸してくれてありがとう。

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Title: いとかなし。
2010.11.28


「苦しみはもうなくなった。あるのは煩悩だけだ」

そういった人がいて。その言葉を聞いてずんっときたわけです。

そうなんだよなほんとに。

苦しい時はたいがい自分がああ見られたいこう見られたい誤解されたくない、あれがほしいこれがほしい。それは煩悩なんだよな。

苦しいという感覚を煩脳だといって切り離せること。そこにある感覚、ほんとうに感覚と観念の世界だけど、視点を変えるだけでベクトルを内側に向けるだけで世界が劇的に変わるってことはあるということをここ数年で何度も感じた。

つまりは人間は煩脳を切り離せないから、それとどう付き合うかなんだ。その付き合い方の1つがそれを苦しみと切り離すということなんだろうと思う。

正直言葉にはなんの意味もない。感覚を文字にしたらこうなるというだけのことだから。大事なのは後付けでもその言葉にのったものに自分の感覚がどこまで同調するかなんだと思う。

感覚を言葉にするというのは難しい。でも感覚を文字にして、その言葉がだれかの心を動かすんではなくて、その言葉を絞り出した背景がそこにのってはじめて心に響くんだろうと思う。

偉人の名言や格言なんてのも、その言葉がだれかの心を動かしているんじゃない。それはその言葉に結びついたプロセスであり、人生の可能性あり、結果でもあるわけで。

その感覚を伝えたくとも、自分の語彙のなさと力のなさではこういう形でしか表現できない。

いとかなし。

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Title: 数えきれぬ。
2010.11.28

なんかいままで自分が読みあさっていた本とか、これいいこと言うなぁとか、すごいなと思う人とか、そういうものに共通してるのって、結局はあたりまえのことをあたりまえに言っていて、あたりまえことをまっすぐに声を大にして言ってるだけなんだと思う。

でもあたりまえのことを、あたりまえにみれないのが人間で、まっすぐに見ればいいだけだよと言われたらすぐに首をかしげて、ただまっすぐにものを見れなくなるのが人間なんだと思う。

なんか腑に落ちて、体感としてわかったこと、繋がったことが増えてくればくるほど結局はあたりまえのことをすればいいだけなんだなと思う。

あたりまえのことが普通にできるってことが実は一番難しくて、あたりまえだと思ってるものをちゃんと見つめてみると、全然あたりまえじゃなかったりするんだと思う。

あたりまえのことって。

朝起きておはようって言って、ご飯の時には、いただきます。ごちそうさまっていって、ありがとうを口に出して伝えて、目の前にいる人のことを思いやることで、手をさしのべることで、好きなものに好きだということで、いやなことにはいやだといえることで、

言うなれば1つ1つの出来事に丁寧に対応することなんだろうと思う。

それがいかに難しくて、それを妨げる要因が目の前にどれだけあるかとか思うけど、でも世界は自分の力じゃ変えられないけど、心持ちはいくらでも自分で変えられる。

心持ちがすぐには変えられないなら、まずは口に出し続けてればいつか心持ちも変わるのかもしれない。

なんかそう考えたら、形から心へと繋がるのが禅で、心から形へ繋がっていくのが浄土教なのかもしれない。

なんか。

最近みんな言ってること同じじゃないかと思うことがあまりにも多い。

道元も親鸞も仏陀も一休も良寛も蓮如も一遍も石舟斉も孔子も、松下幸之助も岡本太郎もゴッホも、もっといえば、趙州至道無難の第二則も、碧巌録の第三則も、妙好人の言葉も、百丈野狐も、それこそ農業でも教育でも宗教でも、たぶん世の中にあるすべてのことの根底に流れるものは一緒で。

それがなにかと言えば。

世の中には、絶対的に自分の思い通りにならないものがあるということを実感としてしっかり感じるということで次のステップにいくよということなんだろうと思う。

そんで常に流れ流れているんだということ。


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Title: うみのいろ。
2010.11.24

月がきれいだからとか、海がきれいだからとか、風がきもちいいからとか、日差しがあたたかいからとか、そんなことを動機付けにできる生き方をしたい。

*

あちらこちらにとっちらかったメモ書きと思考の断片をかき集める。

あれやこれやと散らかりすぎると、なにから手をつけていいかわからなくなって、そんで大事なことも後回し。

悪い癖だ。

時間がないとか疲れてるとか、まことしやかに思いつくいいわけに身をゆだねて、たいしてなんにもしてないのに、人一倍つかれたふりをする。

がんばったかどうかなんてのは、自分で線引きすることじゃない。

くそう。

*

思うのは、真実というのは本当にリアルだということ。リアルなのが現実で真実だと言うこと。

でもそれだけじゃ生きられないから、誰もが事実を歪曲して自分の脳みそに刻み込んで、時に保身したり、かっこつけたり、もっともらしいことをうそぶいてみたりする。

いままでどうしてこんな簡単なことを知らなかったんだろうと思う気持ちと、そんなこと知らないでいたほうがよかったと思う気持ちと、ごった煮みたいな気持ちは、腹立たしさにもいらだちもなるし、あきらめにも悲しみにも、いとおしさにもなる。

これは一種のゲシュタルト崩壊なのかもしれない。結びついて一つの形をなしていたものが、バラバラにほどけて、あたらしい形を結ぶ。

*

どんな論議も議論も、まずゴールがどこであるかという定義付けをしっかりしてから出なければ、そこに意義は生まれない。側面だけをぶつけあい、目的と手段がごちゃごちゃになったような議論はもううんざりだ。ゴールを明確に。せめて許容範囲の中に。

*

自分の思考の底ににあるものはいつだって縁と一如だ。

これで大抵のことには同じ土俵まで持って行ける気がするし、最悪煙に巻いたような議論展開をすることも可能だと思う。

*

こないだ後頭部を強打した。

立ち上がって、大丈夫大丈夫、といった瞬間に目の前が真っ白になってぐらっと倒れた。

すぐに正気を取り戻したけど、それからずきずき頭が痛くて、ネットで調べたら心配になるようなことがたくさん書いてあったもんで、夜寝るときに、もしかしてこのまま目が覚めなかったら、どうしようかを真剣に考えた。

でも一日を振り返って、なんの変哲もない一日だったけど、なんの変哲もない一日だったからこそまあ今日が最後だとしても悪くない日なのかもしれないと思って。

そういう日こそ死ぬにはもってこいなのかもしれないとか考えてたら、知らぬ間に眠りに落ちて、朝がきた。

目が覚めて。

ああ、生きてるわと思って、生きててよかったと思って、なんか軽く生まれ変わったような気持ちがした。

*
ツイートの備忘

#

論点がずれていることにすら気づかずにあらぬ方向に話をもっていって争点を煙にまいているということに自分で気づいていない人とそれを意図的にする人がいるが、圧倒的に前者の方がたちが悪くそういう人に限って議論はプロセスであるという認識がない。議論はあくまで次の疑問を生むための過程だと思う

#

議論も思想もなんでもそうだけど、それはあくまである側面からの意見であるという自覚と認識がしっかりできたときに初めて、最終的には自然法爾の境地に至るのかもしれない。

#

Aがベストだよね~!といってるのに、次の瞬間にAと正反対のことをいっている自分がいるということに気づくということが、自覚的に生きると言うことなんだろうと思う。なにかを無自覚と言い放てる自分はどれだけ自覚的なのか。

#

認知心理学の思考のベクトルと仏教の思考のベクトルは間違いなく通ずる。方便とかまさにその一例だと思う。

例えば、「災難に逢う時節には災難に逢うがよく候。死ぬ時節には死ぬがよく候。是はこれ災難をのがるる妙法にて候」なんて言葉を引用して法話した住職さんが踵を返すように、直葬は駄目だ!仏教をなんとかしなければ!とか、いまお寺にできるることはなんなのか!とか熱くなってるのもいい例だと思う。

#

効率がいいっていうのは、あくまでなにかの過程において、そこに無駄がないということを指すわけだよね。ってことは効率は過程であってようはそこには目的があるわけだ。そう考えるなら、効率だけにスポットがあたると本末転倒にもなり得る可能性はあるんじゃないのか。

#

やっぱり自分の中にある価値基準として確立されているのは、表現されたもの(絵でも器でも思想でもささいな発言でも言動でも)それ自体よりもその先にある人間を見据えられるかどうかであって、何?よりもなぜ?のほうであるというこ。


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Title: ゴッホ展
2010.11.15

ゴッホ展をみて感じたこと。うまくまとめきれないけど備忘のために。

まさに主催者の意図なのかもしれないけど、まさに、人間ゴッホが天才ゴッホになっていく過程が見えた気がした。

なんかまずはじめに思ったのは、なんでここまで打ち込めるのだろう、なんで絵だったんだろうということだった。

とにかくあの手この手を使って努力を重ね、模索に模索して、彼は何を目指したんだろうかと思ったのだけど、その疑問は絵を見ていくにつれ、彼はなにかを目指しているんじゃないのかもしれないと思った。

歩かざるを得ないのかもしれない、歩みを止められないだけなのかもしれないと思った。彼が自己実現できる方法も、ここまで自分の中にあるなにかを満たしてくれるものも他になかったのではないかと思った。きっと描いてるときだけは安心していられるなにかがあったのではないかと思った。

そこには彼の人間性が大きく関わっていて、ゴッホの人間性なんて会ってみなきゃわかんないけど、彼に起きた出来事を断面的にみて、その側面をつなげて想像するに、彼はものすごく繊細で神経質でいて、でもその中にも世間を認めさせてやろうという野心も持ち合わせていたんだろうと思う。でもそんな自分をいつも否定しているようなネガティブさを持ち合わせているようにも思えた。

そのネガティブな部分を埋める為に彼がすがったのは、人というもののぬくもりだったのかもしれない、彼のその欲求を弟は満たし続けた、その反面、失恋して考えられないくらいのダメージを受けていることや、ゴーギャンとアルルで共同生活をはじめることも、ポール・ガシェとの交流も、彼は自分の中にある空虚を、誰かと繋がることで癒し自分自身を昂揚させようとしているように見えた。

彼はその外的な要因で自分を癒すことにに寄りかかりすぎたんだろうと思う。でもその普通の人が、それを自分で克服できる為に費やす時間をひたすら絵につぎ込んできたこと、自分と向き合う時間をキャンバスと向き合ってきた、そしてそうせざるを得ない人間であったということが、彼がまさに天才と呼ばれた所以の一つなんだろうと思う。

天才と呼ばれ命を絶っていく人の多くは、人として自分と向き合うべき時に、自分よりも情熱を注げる何かに出会ってしまったのだろうとおもう、言い換えれば、自分をおろそかにしてもそこに虜になれるほどに自分の中にある欲求を満たしてくれるものがあらわれてしまった結果に、本来人間が回避できない問題にぶつかったときの準備ができてなかったのではないかと思ってしまった。

それと、もう一つ驚いたのが、彼の絵がどんどん変わることだ。いろんなものをどんどん取り入れて、画風から構図から筆遣いまで、素人目にみても刻々と変わっていて、スポンジが水を吸うかのように、いろんなものをどんどん取り入れていく。一体なにをさしてゴッホといっていいかわかんないくらいに。

でもそれも彼の人間性に大きく関わっていて、彼は描くことで、自分を表現したいのではなく、表現を高めることで自分に向き合おうとしていたのかもしれないと思った。そう思ったら、表現をする人には、自分の中にある爆発的な想いや、確たるものを表現としてアウトプットするタイプと、自分の中にあるものがなにかを明確につかんでいなくて、アウトプットするその行為の中にそれを見いだすタイプがいるのかもしれないと思った。

そう考えるとゴーギャンとゴッホは正反対のタイプだったのかもしれない。その二人が共同生活をしたときに、あのような事件が起きたのは必然だったのかもしれないとも思った。

なんでも仏教でくくるのはよくない癖かもしれないけど、自分がここで得た教訓は全部仏教的な教訓ばかりだった。

生老病死という問題に取り組むことは大切なことだということ。

天才というのはバランスの極端に悪い人を指すと言うことと、天才は一人では成り立たずに、そこには偶然か必然かそれを支えるだけの縁があって成り立って、その縁までを含めて天才というのは生まれるんだということ。

それと天才は結果論であると言うこと。

とにかく前に進むには何かを真似ることだということ。

外的な要因で自分をごまかしきるのは不可能だということ。

成長を妨げるのは自我であるけど、自分をここ一番で踏みとどまらせるのも自我であるということ。

なによりも、自分は人が表現したものでも、発言した言葉でも、起きてしまったことでも、成功でも失敗でも、その事柄自体よりも、なぜそれが起きたのかという、その背景にある縁を結びつけるのがたまらなく好きで、そこから浮かび上がった人間が不完全で不確かで、意味がわからなければわからないほどにたまらねぇ・・・と感じるということ。

それと、ゴッホの作品の中で自分が一番ぐっときたのは、アルルの寝室のオリジナルで、アルルの寝室を描くときに、違った色調をすべてを使って、完全な休息を表現したかったというゴッホの言葉には鳥肌が立った。

いまここまで書いてきてふと、清沢満之の自分の内側を見るのが智慧であり、仏法である。しかしそれをね、法に従わないで勝手にやってたらきっと頭がおかしくなっていたという言葉を思い出した。

なんか言いたいことが多すぎてまとめきれないけど、これを肴にだれか一献やりませんかね。最高の肴になりそうです。

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Title: %
2010.11.14


想いと感覚に文字も指も追いつかない時がある。真っ暗な部屋の中で沸いてきた感覚を必死に文字に変換しようとする脳みそが、終端速度に達したかのように先に進まなくなる。一度にいろんなことがつながりすぎて、一つも取りこぼしたくないのに、アウトプットが間に合わなくて、瞬く間にそこにあった想いが消えていく。凝固する前に気化していってしまうかのようだと思った。

自分は東京で育っていて、夜になると家の窓からは遠いビルのてっぺんにチカチカと赤い光がいくつも瞬いているのが見える。

悲しくてしょうがないときも、うれしくてしょうがないときも、明日が待ちきれないときも、明日がきてほしくないときも、この赤いチカチカをみながら過ごしてきた。遠くに旅にでて、家に戻ってくるとこの光をみて、ああ家に帰ってきたんだと思うことがあるくらいに自分の中にこの光の存在はこびりついている。

そしてこの光に見入っているといつも思う。

このビルの下には、いまうれしくてしょうがない人も、誰かを殺したくてしょうがない人も、死にたい人も生きたい人もいて、誰かに裏切られた人も、誰の温かさに涙を流している人もいるかもしれない。

なんで世間は馬鹿ばっかりなんだと失望する人がいるかと思えば、なんて世界は希望に満ちあふれているんだろうと思う人いるだろう。ほかにどんな人がいるだろうか、自分の想像力の限界まで挑戦したくなるくらいに、いろんな人に想いを巡らせる。きっと自分の想像しうるすべての人が、間違いなくこの空の下にいるんだろうと思う。

でもそのどの人にも、数時間もすれば、すべての想いや願いを断ち切るかのように朝日が昇り、今日は何事もなかったかのように明日になる。

夜明けは希望か絶望か。

もうそんな問いには捕まらない。

今は曇りなく夜明けは希望であり絶望であると言える。


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Title: 7DW
2010.11.08


来年の手帳がきたので、せっせと移行作業を始めながら今年の予定を読み返していたら、1年のたつのはなんと早いことかと思った。

こないだのったタクシーの運転手さんが、時間の感じ方は細胞分裂に関係してるらしいですよといっていた、細胞分裂が活発な若いときは時間をゆっくりに感じるらしい、逆に細胞分裂が鈍ってくると、時間はあっというまに感じるらしい。

どこの情報かはわかんないけど、そうなのか・・・と妙に感心しながら完全に自分の細胞分裂にぶってきとるなと思ったのです。

それと、月に1回誰かに会えたとしても、1年で12回しか会えないのかとか当たり前のことにびっくりしたりした。

2ヶ月に1回しか会えなかったら1年で6回しか会えないんだ。

そう考えたら自分がいつ死ぬかはわかんないけど、死ぬまでに100回会える友達はどれくらいいるんだろうか。

そんなことを思いながら本屋に行った。

そしたら、なんかやたら宗教関係の本が多くなってないかい。

少し前まで、顔あげろだの、がんばれだの、自己啓発本ばかりだったのに、それが行き詰まると今度はがんばるなですかいな。

沈んでは浮いて浮いては沈む。なんでも。

世の中はよくできてる、本当に同じところをぐるぐると回ってて、それこそがまさに輪廻みたいだと思った。

ああ。

僕らの7日間戦争がみたい。

うつむかず生きるために。

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Title: トゥトゥトゥ
2010.11.07

熱でうなされてるときの妄想ほど思い返すとどうしょうもないものはない。

もし今からこのサプリを飲み続ければ200歳まで確実に健康に生きられるよ、そのかわりそれ以外の食べ物を一切口にしてはいけないよ、もし口にしたらそこで死ぬから。といわれたらどうしよう・・・ということをベッドの中でずっと考え続けた。

結果それは飲まない。という結論に達したものの、何の落ちもなく不毛な妄想だったなと反省した反面、でも自分ってば長生きよりも価値をおいてるなにかがあるんだなとおもって一人ほくそ笑んだるするわけです。

そして唐突に、ジェダイのきてるローブがほしい。どこかで似たようなものが売ってないだろうか、この風邪が治ったら真っ先にそれを探すんだ。だからがんばろう。とかわけのわからない理由でモチベーションを保とうとしたりもするわけです。

いやはや、ひさびさに完全にダウンして、食べて、寝て、本読んで、寝て、食べて、ゲームして、漫画読んで、食べて、本読んで、寝て。ひたすらそんな一日を過ごした。

極力パソコンにも触れず、メールもチェックせず、つぶやきもせず、携帯も放置して、テレビもつけず、ひたすら浮き世を離れてたわけですが、今、こうやってパソコンに触れ、情報に触れ、メールをチェックして、ツイッターをみながら、おお日常が戻ってきたななんて感じたけど。

はてどっちが日常で、どっちが浮き世を離れているんだろうかと思った。

どちらもといえばどちらもだけど。

こうやって誰かとつながって、情報の中に身を置いている自分が標準化してて、そうじゃない自分に非日常を感じるなんて、なんかおかしなはなしだぜべいべ。

と思ったけど、それはきっと深追いしてもしょうがない問いだということを直感的に感じたのでそこでエポケーしたのです。

それと、なんかこの闘病生活の中で、頭の中ではずっとトゥトゥトゥ~トゥトゥトゥ、教えてほしい教えてほしい~と流れてて、それを何度も何度も頭の中でリピートしながら思ったのは、

ああ、きっと本当に大事なことは何度も何度もいうべきなんだ。

目新しいこととか、流行廃りに流されることなく、またあんなこといってるよと言われても、いつも同じこと言ってるよねとかいわれても、人生のどのフェーズにおいても、本当に大事なことは何度も何度もいわなきゃ駄目なんだと思った。

それがどんなに子どもじみてても青臭くても、泥臭くても、何度も何度も伝えて、やっとその中の数ミリが相手に伝わるのかもしれない。

それぐらい本当に大事なことを伝えるというのは途方もない作業で、一生を費やしても自分の中にある本当に大事なモノを一つでも誰かに伝えられるかどうかなんてわかんないなと思った。

そんで摂取不摂という感覚はそういうところに糸口があるのかもしれないと思ったりもしたのです。

トゥトゥトゥ。


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Title: よーいどん。
2010.11.01

感性は色鉛筆みたいなもので、そこにはすごいもすごくないもなくて、上も下もないんだと思う。赤と青とどっちがすごくて、茶色よりもピンクのほうが上でとか、そんなのない。

感性を深めるってのは、赤を朱にもできて、緋にもできて紅にもできるようなものなのかもしれないと思った。

*

いい加減ってちょうどいい加減なんだよね、何事も中道が大事なんて、ありきたりだけど仏教ぽい話をしてるときに、ふと思いついたんだけど。

おじいちゃんが、お風呂にはいって、いいあんばいいいあんばい、といったあとに、極楽極楽といっていたのを思い出して、ああ、いい加減はやっぱ極楽につながっているんだなって思った。

昔の人はなんでそういう深いことをさらりと口にできたんだろうか。

*

旅をしているときに、明確な目標とか目的はたてるけど、でも大抵はその通りに行かなくて、空港に着いた瞬間に予想もしない出会いがあって、そこから目的とは違う方向へ向かったり、ふらりと立ち寄った町に沈没したりとかして、結局はじめの予定とは目的が変わったり、そこが通過点になったりしながら旅をするということがよくあって、

そんなことを思い出したら、結局は人生も同じなのかもしれないと思った。

大きな方向をきめたらあとはてくてく歩けば、あとは自然といろんな縁とか、必然とか偶然が自分を背中を押してくれるようなもんで二転三転しながらも、前には進めるんだと思う。

最初に掲げる目標なんて、足を出すモチベーションみたいなもんで、あくまで足さえ出せればそこに大層な大義名分なんかなくてもいいじゃないかと思う。

目的と方向がずれたとか、はじめと違うとか、いちいち気にしてたら旅は楽しめなくて、旅を楽しむコツはその流動的な現実に身をゆだねることであるのかもしれない。

旅を楽しむか楽しまないかはいうなれば自分次第なんだと思う。

きっと旅をしたことがある人にはわかる感覚で、きっと友達に旅人が多いのは、そういう感覚を共有できるからなのかもしれない。


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Title: 纏
2010.11.01

社会的価値って言葉を自分の中で反芻する。

自分に社会的な価値があるのか否か。

考えてはみるものの、自分の仕事は、建物を建てたり、仕組みを作ったり、目に見えるものを残すような仕事ではなくて、ほとんどは結果がわかりずらく、形には見えにくいものだから、自分のした行動や言葉が、目の前の人になにをもたらして、なにを付与できて、ましてや価値があったかどうかもわかんない。

だから今の自分のしていることに価値があるのかないのかもさっぱりわからない。

でも、もし今自分のしていることに少しでも価値があるとしたら、答えはあぶりだしみたいにでてくるんだと思う。いろんなところから押し出されるみたいにちゃんと「ああこれが答えか」ってわかる時がくるような気がする。

その答えが正しいのか間違っているのか、それがどういう形であらわれるかはその時にならなきゃわかんないけど、でもそれはきっとあと10年もすれば今よりはすこし明確になってくる気がする。

だからそれまでは、とりあえず自分の思う道をもくもくと、そしててくてくと歩いていければいいかと思った。

あなたはまさに記録よりも記憶というタイプなのかもしれないねと言われた一言に妙に救われた気がしたのです。


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Title: てくてくと。
2010.11.01

自分のした判断のミスで大きな損失をだした場合、その被害を被るのは自分だけではなくて、その先にいる働いている人であったり、その家族であったり、それを還元できなかった人たちであるわけで、ごめんなさいじゃすまないんだということを痛感した。

わかっているつもりでも全然わかってなかった。

流れを読み違えるとはこういうことなのか、といまさらながら初めてその怖さを体感した。

自分には正しいと思っている世界(理想とか想いとか)に数字がついてこない場合があって、その場合には一人で責任をとれる範囲の枠を超えていて、その中に身を置きながら結果を出し続けるってこんなに怖いことだったんだと思った。

この経験はこれから先の自分の人生の中になにか大事なものを残すと思う。

教育や宗教に携わっていると、本質と経営のバランスというのは本当に難しいと思う、どちらに偏ってもだめで、偏らない中でそのどちらにおいても結果を出さなきゃいけなくて、そんなのはあたりまえのことなんだけど、こんな想いをするまでは、それは頭で理解していただけで、今回のことで初めてそれが身体でわかったんだと思った。

なんだって頭で理解しただけの、もっともらしいことを言うことは簡単で、でもその言葉に体感を伴わせると言うことは、ほんとに簡単なことじゃない。

くそう。

この気持ちをずっと忘れないようにしようと思う。

そんでまた、このままてくてくと歩いて行こうと思う。

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Title: ぷれんてぃ。
2010.10.26

ここ2,3日寒くて寒くて、明らかに体の運動機能が鈍っている、こうやってパソコンを打つ指の運動機能すら60%くらいまで落ち込んでいるんじゃないかと思う。でも年々冬の良さがわかるようになっていたのは、進化なんだろうか退化なんだろうか。

いやしかしこう寒くなると頭は温泉一色。のほほんと露天風呂にはいって日本酒でほろ酔いながら、うたたねしたい。


*

ここ2,3日かなり熟睡できてる。

なんか寝不足の時と熟睡したときの体の違いが顕著すぎて、やっぱほんと睡眠って重要だなと思う。

*

最近過去を振り返るのも楽しいなと思う。なんかそれがあたかも娯楽であるかのように、一人で過去を思い出して、思い出し笑いをしたり、ほくそ笑んだりしながら、甘酸っぱかったり苦々しかったりする思い出を反芻する。

そうやって過去をざざっと思い返してみると、なんかみんなそれぞれに思い出があって、それぞれが唯一無二の経験をしてきていて、なんかもうそれだけで、十分個性なんだよなと思った。

*

どういう人になりたいかといわれれば、年をとればとるほどに、需要の高まるような男になりたいです。

年をとればとるほど人付き合いというものはシビアになると思うのです、若いときはね、理由がなくても人とつきあえると思うのです、おなじ共同体のつながりや、組織的なつながりや、仕事のつながりや、そこから派生した人間関係というものは、惰性でも維持できるのです。でも年をとればとるほどに理由もなく人とつきあうことはしなくなると思うのです。

人付き合いも公から個へシフトチェンジしてくると思うのです、そんで個と個になったときにこそ需要のある人になりたいのです。

安西先生、あきらめたらそこで試合終了ですよね。

*

喧嘩するほど仲がいいっていうけど、その根拠はいったいどこから来るんだろうか、なんてことを考え始めたら、喧嘩にも種類はあるし、仲直りにも種類はあって、あんな場合もあれば、こんな場合もある、そう考えるとやはり、一つの事実に一つの答えを探そうとしてスパイラルに陥って、そこで最大公約数に落としどころをみつけるというのは、ナンセンスなんだろうなというところで思考停止しながらも、乱暴な意見交換会みたいなもんだというつぶやきが妙に腑に落ちた。

*

喧嘩も国同士になれば、喧嘩するほど仲がいいね~あはは。とはならないわけで。戦後処理は仲直りでもなんでもないわけで。

外交問題がいつのまにか民族の違いにすり替えられて、民間レベルでいがみ合うこと自体がなんか誰かの思うつぼみたいでいやだなあと思う。でもこんなに簡単に思うつぼになっちゃうのが、外交であって政策であって、国という単位を動かすためには、そういう扇動力は必要不可欠なのかもしれない。

*

そりゃヒーローになりたいさ、なれるものなら。でもそんなものになれない自分をよくしってるから、それに憧れるわけです。

そんで時々勘違いしちゃうわけです。

*

痛々しいってなんてかっこいいんだろう。

*

つくづく、人生というのは昇華の連続なんだなと思う。

自信のなさとか、あきらめとか、どうしょうもない差とか違いを目の当たりにして、それをバネにして、その矛先を変えて、コンプレックスをなにかで納得させようとするときのなにかが自分の武器であり、それをたくさん抱えていくというのが人生なんだろうなと思う。

自分の武器はそのまんま、自分のコンプレックスの裏返しでもある。

人間は、自分の中の負を打ち消そうとする時に一番力を発揮できるんだと思う。だからこそ自分の中にある負をしっかり許容する勇気を持たなきゃいけないんだとも思う。

涼しい顔が続けられるのなんてすぐに限界が来る。

*

「お家の中のたまねぎ」をあんなに魅力的にできるのはやっぱりすごいし、なによりも「お家の中のたまねぎ」を魅力的にしてやろうっていうところがかっこいいと思うのです。そして自分もそうなりたいと思うのです。

*

こんな空をぼけっとながめながら、声を大にしていいたいのは、駄目なものなんか一つもないんだということ。

*

自虐的なのと背徳感があるのは似てるようだけど全く別物なんだと思う。

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Title: 丼。
2010.10.22

愚痴ることの一つでもあったほうが人生はおもしろいのかもしれない。

と思いながら、

人は気を抜くと簡単にリアリティを失うんだなと思った。

慣れるという感覚は人間のメリットであると思う。でもそれは同時に、人が簡単にリアリティを失う理由でもあるんだろうと思う。

リアリティとは、怒りであり、痛みであり、悲しみであり、喜びであり、理屈がぶっとんでわけのわかんないところに着地しちゃうようなもんで、人間の欠陥でもあり、魅力でもあるんだろうと思う。

でもいつもそんなもんをむき出しにして、タガの外れたような状態で生きていたら、たんこぶだらけになって傷だらけになっちゃうから、自己防衛のために、人は慣れることでそのリアリティを鈍化させるのかもしれない。

鈍化していることにも気づかないくらいに、人間は巧妙に自己防衛をする。

だから時々その鈍化されたリアリティを刺激されることを無意識に追い求めたりするんだろうと思う。

人間の行動原理の中で、この動機付けの占める割合は結構大きい気がする。

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Title: エスペランサ
2010.10.16

少し湿気を含んだ町を徘徊する心地よさは何にも代え難い。

今この瞬間に自分がここにいることを誰も知らないんだと思うことに、妙な安心感と開放感を感じる動機付けがなんなのかわかんないけど、それはわからなくてもいいと思っていて、わかんないけど心地いいこの時間のためなら、大抵のことはがんばっていけるなと思う。

例えば、脳死について考えたり、平和について考えたり、正義について考えたり、幸せについて考えたり、欲望と煩悩について考えたりして、堂々巡りしたり、思考が広がったり、新しい考えが思いついたり、説得力のある答えをみつけたりして、そんなことを一人遊びのように繰り返していていると、ふとこんなことは一文にもならないかもしれないし、そんなことを考えたところで結局は自慰みたいなものなのかもしれないと思うことがある。

でも最近思うのは、そういうことに脳みそを使った後には、間違いなく脳に血が巡ってるような気がして、それこそ走って体中の血行がよくなるみたいに、脳の中に心地よい疲労が残って、その感覚が好きだから、そういうことに頭を使うのがいやじゃないのかもしれない思った。

人のことには、冷静な分析をしたり、責任のないことには、一歩引いて物事が見えたりするくせに、そんな人の中になかにも、自分でも訳のわからないような感情があるんだというところが垣間見えたりすると、たまらなくうれしくもあり、わくわくもするのです、事実は小説よりも奇なりというけど、人が想像を超えた答えを出してきたり、とても意味不明なところに着地をしたりしているのが、すごく安心して、すごく暖かくて、そういうのをみたり聞いたり目の当たりにしたり、そして自分の中に沸いてきたときに、ああ生きてるなあ、人間っていいなあって、漠然と思ったりします。だからそういうものが簡単に垣間見える恋の話は大好物なのです。

必死にもがいている時っていうのは、もしかしたら本当はもうあきらめている時なのかもしれない。あきらめればあきらめるほど人間は必死にもがくのかもしれない。あきらめているからこそ希望を見いだそうとして、そうあるまい、そうなるまいってもがくのかもしれない。

あきらめるとあきらめないの二者択一を超えたところに、世界の希望がどういうものであって、世界の安穏がどういうもので、平和とか幸せがどういうものであるかというものの答えがあるんじゃないかと思う。

愛とか恋とか、好きとか愛してるとか、そんなものは道徳みたいなもので、いうなれば生命至上主義の妄想みたいなもので、その価値観を鵜呑みにしないようにしなきゃ、本当の意味での愛も恋も命の意味もわかんないんじゃないかと思う。

いいたいことが次から次に沸いていて、話しているうちに自分の中の点と点が線になっていって、なんで自分の脳みそと口からこんな言葉が生み出されたんだろうとか、意識が後からついてくるような感覚を味わうのは、やはり大抵誰かと話をしているときで、やっぱり、人と関わって、その時にはっきりと口にできる自分の想いを自分の中に蓄積させながら、出してはたたき、たたいては反芻して、そうやって練り込まれた自分理論は宝だなと思う。それはもうアイデンティティであって自分自身であって、いうなればただの臓器の塊が自分である唯一の証明なんだろうと思う。

自分がいま間違いないと思っていることは、一度ぶっ壊されないとそれより先には進めなくて、ぶっ壊されるためには、表に出さないとたたかれもしてくれなくて、表にだせるには、ある程度の説得力が必要になって、その説得力をつけるために今自分ができることをすればいいのだと思う。

自分が流動していく中で、思考だけが取り残されてはだめなんだろうと思う。変化しないものは死んだものだけだ。

そこにどんな意図があろうとも、自分の中にわいた感情は事実であり真実なんだと思う。時に人の感情は、意図した想像を遙かに超える。そもそも意図なんて思惑は、うまくいくこともいかないこともある。うまくいえば意図の通りだけど、うまくいかなければ読み違えたわけで、その間を隔てるものは、それを意図だと感じる自分の心の問題なんだと思う。そう考えればそこに意図があろうとなかろうと、自分の真実は自分の中にしかない。

意図なんてその程度にすぎなんだと思う。

人間のやることには必ずしも「ほころび」はあって、その「ほころび」を時に幸せと呼んで時に苦しみと呼ぶんだろうと思う。


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Title: 柳の木。
2010.10.12

先日うっかり切ってしまった柳の木。

ほんとに気落ちして、なにげにかなりショックだったんだけど。

ばっさり切ってしまったところの横から、新芽がでてきているのを昨日発見した。

二つも。

なんか植物ってすごいなぁ、生きてるってこういうことなんだなぁって、しみじみと感動した。

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Title: カメラ。
2010.10.11

久しぶりにMFのレンズを持って散歩にでた。

なんか半押ししてもピントが合わないという感覚になれるまで時間がかかったけど、やっぱり手で合わせて、じわっとピントがあってくる感じは好きだなぁと思った。

それにデジタルに普通のMFのレンズをつけてると、AFのレンズを使っているときにはできる絞り優先とかシャッタースピード優先が使えないから、久しぶりに絞りもシャッタースピードも自分で合わせなきゃならなくて、そしたら全く思い通りにとれないし、すぐに真っ黒になったり、真っ白になったりして、光を捕まえるのはこんなに難しかったかと思った。

なんか初めてカメラを買った時に感じた、自分の感覚で写真を撮る楽しさを思い出した気がした。

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  • 自己紹介:1980年1月9日生まれ。どこからを趣味と呼んでいいのかは模索中。好奇心は旺盛。